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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第五章 天命下る

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楚の宋侵攻

 秋から冬に変わろうとする頃、楚の成王せいおうは宋を攻めるため、元令尹・子文しぶんと現令尹・子玉しぎょくに兵を訓練させることにした。


 寛大な性格である子文は睽で訓練し、日が明けてから朝食を採るまでの間で終わらせ、死者は一人も出さなかった。一方、厳格な性格である子玉は蔿で終日かけて訓練し、七人を鞭打ちにし、三人の耳を矢で貫いた。


 元老たちは皆、子玉が立派に軍務を行ったと感服し、子玉に令尹の職を譲った子文へ祝いの言葉を述べるために子文の元に出向いた。


 賢才を推挙した者に祝うのは古代の礼の一つである。


 子文はそんな彼らをもてなすために宴を開いた。


 宴が進む中、遅れてやって来た若い男がいた。その男の名は蔿賈いか(字は伯嬴はくえい)という。


 彼は遅れてきた挙句、子文が子玉を推挙したことを祝うことはなかった。


「皆は私を祝ってくれるが、汝だけは何も述べようとしない。その理由を聞いても良いか?」


 子文という人は性格は穏やかであるため、優しい口調で訪ねた。すると蔿賈が答えた。


「何を祝うというのでしょうか。あなた様は子玉に令尹を譲った時、こう申されました。『国を安定させるためである』と、しかし国内を安定させても国外で失敗してしまえば、どれだけの利があるというのでしょうか。将来、子玉が招く失敗はあなた様の推挙が原因です。推挙して国の失敗を招くというのに、なぜ祝賀しなければならないのしょうか。子玉は剛強無礼で民(兵)を治めることができません。指揮する兵車が三百乗を越え、国外に出れば帰国できないでしょう。出征して帰ることができてから祝賀しても遅くはないでしょうか」


 多くの者には子玉の姿は有能の指揮官のように写るようだが、蔿賈の目にはそうは写ってない。子玉は傲慢で無礼で、兵を労わる心をもたず、自分が正義であると勘違いしている。


 確かにまだ、彼は大きな失敗をここまでしてきていない。だが、失敗をしてこなかった人は致命的なところで失敗をすることになるだろう。その失敗をしてしまってからでは遅いのである。彼には失敗する様が容易に想像できる。そして、その失敗の責任は子玉だけではなく、推挙した子文にも及ぶことになるだろう。


 子文はこの彼の言葉を戯言と一蹴するような人物ではない。だが、彼はここまで言われても、子玉を諌めることはなかった。


 これが、楚の名宰相とされながらも歴史上において、その名が重きを持たなかったのは、この身内の甘さ故であろう。そして、彼を諌めた蔿賈はやがて楚の名将として名を表すことになる。











 冬、楚の成王、陳の穆公ぼくこう、蔡の荘公そうこう、鄭の文公ぶんこう、許の僖公きこうが兵を出し、宋都を包囲した。


 十二月に入ると魯の僖公きこうも合流し、会盟を行った。


「おお雁首揃えて、都を包囲する様はまるで、蟻の大群か何かのようですなあ」


 公孫固こうそんこがそう皮肉る中、目夷もくいは咳き込みながら、頷く。


「ああ、確かに虫の死骸か何かになった気分だ」


 目を細め、楚の旗を見る。


「このままではここは落ちるだろう」


「晋は助けに助けてくれますかな?」


「助けなければ晋の義は偽りということになる」


 再び咳き込みながら目夷は言う。


「先君は晋君に天命があると申していた。そして、晋君が国を得れば、晋に着けというのが、遺言だ」


「そうして、晋に着いた結果がこれですがなあ」


 公孫固は泓水の戦いで献策しても聞き入れてもらえなかったため、先君・宋の襄公じょうこうの言葉を心の底から信じることはできない。


「それでも楚の民になるよりは良かろう」


 彼の言葉に公孫固は黙る。しばらくして口を開く。


「そうですなあ、楚の民にはなりたくありませんなあ」


「ああ」


 笑みを浮かべながら、目夷は頷く。その後、楚の旗を見る。


「晋は楚とは本格的に構えず、外交で解決を図るかもしれない。しかし、それではこちらが持たない。実際に軍を動かしてもらわなければならない」


 ここで再び、咳き込みつつも続ける。


「そのためにもこちらもそれ相応のことをしなければならない」


 彼はそう言うと公孫固を見る。


「そこで、我が国の大司馬であり、武勇に秀でた汝に晋への使者を任せたい」


「承知した。必ずや晋を連れてきましょう」


「頼んだぞ」


 彼の言葉に公孫固は頷くと城壁から降り、鎧を纏い、精兵を率いて宋の都に打って出た。


「晋からの援軍は必ずや来るだろう。後は晋が楚に勝てるかどうかだな」


 公孫固が鄭の陣を抜けていくのを見ながら、彼は呟いた。















 公孫固が包囲を抜け、晋にたどり着くと彼は晋の文公ぶんこうに拝謁し、救援を請うた。文公は直ぐ様、群臣を集め、宋を救援するべきかどうか意見を聞いた。


 先軫せんしんが進言した。


「恩恵に報い、危機から救い、威信を得て霸を定める、今こそその機会です」


 これに狐偃こえんが続く。


「楚は最近、曹を帰順させ、衛とも婚姻関係を結んでおります。もし我が軍が曹や衛を攻めれば、楚は必ずや二国を援けるために兵を退くでしょう。斉(前年、楚の申公・叔侯しゅくこうが兵を率いて斉の穀にいる)と宋を救うことができましょう」


 文公はこれに頷くと被廬で蒐(閲兵式や軍事演習のこと)を行い、上下二軍を上中下の三軍に拡大した。


 彼は次に中軍の元帥を誰にすべきか聞いた。中軍の元帥は国政における上卿にあたる。


 趙衰ちょうしが言った。


郤縠げきこく(恐らく郤豹げきひょうの兄弟の子で郤家の本家筋かもしれない)がいいでしょう。彼は五十になりますが、ますます学問に励み、先王の法志(政令典籍)を学んでいます。その話を聞くと礼楽を楽しみ詩書を重視していることがわかります。先王の法志や詩書は義の府(倉庫)であり、礼楽は徳の則(基準)です。徳と義は民利の本にあたるものであり、学問に勉めることができる者は、民を忘れることもありません。『夏書(尚書・益稷)』にこうあります『益のある言は全て採用し、功績を試して明らかにし、車服によって褒賞を与える』と、主公も試してみるべきです」


 彼の進言に従い、郤縠を中軍の元帥に、郤溱げきしん(郤家の立場は不明。郤縠の子か?)をその佐にした。


 次に文公は上軍の元帥に趙衰を任命しようとしたが、彼はこれを断り、言った。


「主公の三徳は狐偃の意見によるものでございます。彼は徳によって民を治め、大きな功績を立てたので、用いないわけにはいきません」


 ここに出てくる三徳について説明する。三徳とは文公は即位してから民の教化を行い、二年経ってから民を徴集しようとした。すると狐偃がそれを止めた。


「民はまだ義を知らず、その居を安定させていません。天子を周都に入れて義を示すべきです」


 そこで文公は国外で襄王の地位を確立させ、国内に帰り、民の利を図った。これにより民の生活が安定したこれが第一の徳である。


 文公が民を徴集しようとすると、狐偃がまた言った。


「民はまだ信を知らず、その作用が明らかになっていません。原を討伐して信を示すべきです」


 そこで文公は原を討伐して信を示した、民は売買で暴利を求めず、貪婪にならなくなった。第二の徳である。


「民を用いることができるか?」


 文公が聞くと、狐偃は答えた。


「民はまだ礼を知らず、恭敬が生まれていません。大蒐によって威信を示し、軍を備え礼を尊ぶべきです」


 狐偃に言葉に従い、文公は被廬で大蒐を行って礼を示し、三軍を定めて威信を強化し、執秩の官を作って爵位・秩禄および官制を正した。郤縠が上卿として政治を行い、郤溱が補佐をする。民は命令を聞いても惑わなくなった。これが第三の徳である。


 こうして文公はやっと民を徴用したのであった。


 趙衰が断ったため、狐偃を上軍の元帥にしようとすると、彼はこれを断り言った。


「兄(狐毛こもう)は智謀も賢才も私を越えており、歳も兄が上です。兄が卿の位にいないのに、私が命を聞くわけにはいきません」


 そこで狐毛を上軍の元帥にし、狐偃をその佐とした。


 下軍の元帥に趙衰を任命しようとすると、これまた断った。


欒枝らんしは忠貞かつ慎重で、先軫には謀があり、胥臣しょしんには見識があります。この三人ならば、主公を輔佐できることでしょう。私は彼等に及びません」


「汝の謙虚なことよ」


 文公は笑いながら、欒枝が下軍の元帥として、先軫を佐とした。そして、荀林父じゅんりんぽ荀息じゅんそくの孫、逝敖いつごう子)が文公の戎車を御し、魏犨ぎしゅうが車右になった。


「先ず、曹を攻める。皆、必ずや宋の包囲を解くぞ」


 彼の言葉に群臣たちは拝礼をもって、答える。こうして晋は軍を動かした。




























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