晋の信義
四月、衛の文公が世を去った。
衛が滅亡に瀕した際、国君となり、国の復興に尽力して見事に国を復興させた彼は名君と讃えるべきであろう。
彼の後を継いだのは息子の鄭である。これを衛の成公という。
文公の後を継いだ人物としては正直、褒められた人ではない。
秋、秦と晋が鄀を侵攻した。
鄀は秦と楚の間にある小国で都を商密という。
この戦に晋が参加しているのは、秦が晋の文公が即位を助けたためである。
鄀への侵攻を知った楚は申公・闘克(字は子儀)と息公・屈禦寇(字は子辺)を救援に向かわせた。
「汝らは商密周辺を守り、打って出るな。私も後で行く」
令尹・子玉が命じると二人は頷き、商密の周辺に駐屯した。
申と息は楚の精兵が揃えられている地である。そのため、秦の大将の公孫枝としてはまとも相手をしたくはなかった。
そこで彼は一計を用いた。
先ず、軍を析(鄀の別邑)に向かわせて、そのまま通過させ、湾曲する丹水に沿って商密へ進軍した。楚の守備軍を避けるためである。
商密に接近すると公孫枝は自軍の兵を縛らせると、夕方、商密の城下に迫って商密の民に見せて既に析を占領したように見せた。
この時、夕方を選んだのは偽の捕虜を見破られないためである。
夜になると彼は城外で犠牲を殺させ、会盟の儀式を行っているふりをした。それを見た商密城内の人々は、子儀と子辺が率いる城外の楚軍が秦と盟を結んだと思い、恐れて言った。
「秦は既に析を占領してしまい、戍人(楚の守備軍)が叛してしまった」
商密は秦に降った。
朝、子儀と子辺は商密が降ったことを知り、動揺しているところを公孫枝はこれを奇襲し、彼らを捕らえ兵を還した。
楚を思う存分に翻弄した見事な策と言えよう。
「報告、報告、子儀様と子辺様は秦に敗れ、捕らえられたとのことです」
「何だと」
商密に向かっていた子玉はこの報告に驚き、苛立った。
「直ぐに秦を追うぞ」
「お待ちください今からではとても追いつけることは難しいかと思います」
「汝は私に逆らうのか」
「そんなつもりは毛頭ございません」
拳を振り上げる子玉を恐れた将たちは彼に従った。
だが、到底追いつけるものではなく。商密付近に近づくと秦軍の本体は自国へと既に去っており、守備兵のみであった。
「おのれ、秦め。なんと卑怯な」
憤りを表わにする子玉に対し、恐る恐る将に一人が言った。
「如何いたしますか?」
「陳を攻める」
「陳を……ですか」
「そうだ頓君を帰国させる」
以前、陳は頓を攻め占領し、頓君は楚に亡命していた。
「しかし、良いのでしょうか?」
「良いのだ」
子玉はそう言って、軍を陳に向けると陳を包囲した。
陳はこれにたまらず、頓君を戻し頓を開放した。この功績をもって、失態を挽回した子玉だが、独断専行をした事実は変わらない。
決して褒められたことではないが、彼を寵愛する楚の成王と子文が何もしないため、誰も彼を批難することはなかった。
こういう環境が彼の傲慢さを助長させることになる。
南の戦いが終わった頃、北でも戦が起こった。
周の襄王より、文公に与えられた土地の一つである原が統治に反抗した。
この時、文公は将兵たちに三日分の食料を与えてから原を包囲した。原を三日間で落とすということである。
しかしながら三日経っても、原を落とすことはできなかった。
「三日で落とせなかったか……仕方ない退くぞ」
その時、城内に潜入していた間諜が戻って来て、報告した。
「報告します。原はあと一日か二日しかもちません。もうすぐ投降するでしょう。撤退は待つべきです」
この報告に将兵も同意を示した。だが、文公は首を振り言った。
「信とは国の宝であり、民を守るよすがである。。原を手に入れても信を失えば、何によって民を守ればいいというのだ。失う物の方が多いだろう」
文公は撤退を命じ、 一舍(三十里)ほど退くのを原の人々は驚いた。
「晋にこれほどの信義があるとは思っていなかった」
原伯・貫と原の人々は晋に降伏した。武力だけが城を落とす術ではないのである。
文公は傍に控えている寺人・披に原の守備を誰に任せるか問いかけると彼は答えた。
「かつて趙衰は壺に食糧を入れて主公に従っておりましたが途中、主公と異なる道を移動することがあり、その道中で飢えても食糧を食べることがなかったと言います」
文公はこれに頷くと趙衰を原の守備につかせた。
こうして原伯・貫を冀に遷し、趙衰が原大夫に、狐溱(狐毛の息子)が温大夫になった。
十二月、衛が仲介して、魯と莒が魯の洮の地で会盟が行われ、紀元前659年から対立していた両国との間で和平が結ばれた。
この会盟に出席したのは衛の成公。魯の僖公、莒の大夫・莒慶である。
本来、これは喜ばしいことであるが、これをきっかけで新たな戦の火種が生まれていくことになる。




