これを我が過ちとする
ある日、晋の宮門にある文書が掛けられていた。
「何だこれは?」
「昨日はなかったよな?」
「なかったはずだ」
宮門を守る兵たちは突然、現れた文書を見て、驚きを隠せなかった。
「取り敢えず、これが知られる前に片付けよう」
「おう」
すると、そこにふらりとある者がやって来た。
郭偃である。
「どうかしたのか?」
「あっ郭偃様。それは……その……ですね」
兵は歯切れが悪そうにしながらも言った。
「実は昨日はなかったはずの文書があるのです」
「ほう」
興味を覚えた彼はその文書を見た。
「『龍が天に登らんとし、五蛇がそれを援ける。龍、既に雲に登り、四蛇もそれぞれ巣に入る。されど一蛇だけ怨みを抱えてその姿を消す』か……」
少し、考え込むと言った。
「暫し、これを残しておけ」
「しかし……」
「良いな」
「はい」
郭偃は兵にそう言うと足早に文公の元に行った。
「おや、先生どうされた?」
文公は政務を終え、少し休んでいた。
「宮門に面白いものがある。行くぞ」
郭偃はそう言って、彼を連れて行こうとする。
「待って下さい。先生、急に言われても困りますぞ」
「主公にとって大切なことだ。見ても損はない」
彼は足早に宮門に行こうとする。
「わかりましたので、待って下さい」
文公は急いで、彼の後を追う。
(この人だけが昔と変わらないものだ)
苦笑しながら思った。ふと、自分は、とも思った。
(私はどうだろうか。やはり変わっただろうか。いや、変わっただろう)
本来、自分はのんびりと公子として暮らそうと思っていたのだ。それが何の因果か国君となっている。
(しかしながら皆の想いに報いなければならないのだ)
それが皆の上に立つことであると思っている。
「これは……」
文公は宮門に着くと文書を読んだ。
「主公への諫言だ」
「諫言ですか……」
この文書は確かに諫言のようには見える。だが、誰が何を持って諫言しているのかわからない。
「これは前に言った声だ」
郭偃は文書を指差しながら言った。
「声ですか……」
だとすれば、これは天の声ということになる。だが、天は何を自分に伝えたいのかがわからない。
「これはだな、恨みであり、悲しみであり、哀れみであり、そして、主公への期待の文でもある」
文書を手に取り、文公に渡す。
「龍とは主公のことだ。四蛇とは狐偃らのことだろう」
「ならば、この一蛇とは?」
文公の問いに郭偃は目を細める。
「恐らく主公は彼の名を知らない。故に言ってもわからないだろう」
そこに兵の中で最も若い兵が話しかけてきた。
「あの、少し宜しいでしょうか?」
「なんだ?」
「その文書を書かれている一蛇とは、介子推殿のことではないでしょうか?」
「何故、その者が一蛇だと?」
文公が尋ねると若い兵は答えた。
「最近、介子推殿が消えたという話しを聞いたもので……」
「私も聞きました」
「私も聞いた。それに彼の母も消えたとも聞いています」
兵たちは口々に介子推が消えたことを話した。
「介子推とはどのような人物であるか?」
文公は拝礼の礼を持って聞いた。
そんな彼を見て、兵たちは動揺するものの、少しずつ介子推の話しを始めた。
「介子推殿は誠実で勇気のある方でした」
「道理を大切にし、それに背く者とは付き合おうともしませんでした」
彼の人となりを放す一方、若い兵が放浪中のことを話した。
「主公の旅において、介子推殿は股を切り裂かれながらも、主公のために尽力していたと聞いています」
そのことを聞き、文公はあることを思い出した。
そう、それは放浪中のことである。文公らは食料を失い、飢えに苦しんでいた時のことである。
ある日、まともな食料が文公に渡されたことがあった。
その時の食料を献じた者の股が血に染まっているのを見た。文公は怪我をしたのかと問いかけるとその者はたまたま、獣を追っていた途中で怪我をしたと言っていた。
その者は終始、顔を下に向けていたため、顔をほとんど見ていなかった。
「そうか……あの時の者が介子推であったか」
あの時、満足できる食事をできたことは旅において大きかった。
そのことの他にも介子推の功績を聞き、文公は愕然とした。何故、これほどの者を評価せず、賞していないのかと。再び、文書を見る。
「これは介子推のことであったのか。私は王室のことを憂慮して、彼の功績に報いていなかった」
何という失敗であろうか。これでは国君失格ではないか。国君とは民を平等で正しい政治を行い、臣下には平等な功績に対する評価を与えることが職務である。
「私は彼を……彼の声を拾ってあげることができなかったのか……」
文公は手で顔を覆い、己の過ちに憤り、泣いた。
「そうですなあ……ですが」
郭偃は同意し、その後に言葉を続けようとした時、若い兵が言った。
「まだ、遅くはないのではないでしょうか」
「介子推は姿を消している。どのように彼の声を拾うというのだ」
それに対し、若い兵は言った。
「先君の徳に対し、諡をもってその徳を称えるように姿はなくとも功績や徳は消えることはないのです。今からでも賞しても遅くは無いのではないでしょうか?」
文公は彼の言葉に最初は驚きつつも、彼の言うとおりであるとも思った。そして、決意した。
「汝の言、感謝する」
そう言って、彼が立ち去ろうとすると一旦止まり、若い兵の方を向くと言った。
「汝の名を聞いても良いか?」
「士家の末弟、士会でございます」
「覚えておく」
そう言って、彼は立ち去った。郭偃はそんな彼の後を面白そうに付いて行く。
因みにこの時、出会った士会を彼はある戦でふと、思い出し彼と伴に車に乗ることになる。後に彼こそが晋で最高の名将にして、名臣としてその名を轟かすことになるとは彼は知らない。
翌日、文公は狐偃にこれを国内に発布するよう命じた。
「なりません」
だが、狐偃はこれに反対した。
「これは……自分で己の過ちを見せる行為であり、もしかすれば、主公の地位が揺らぐ可能性もあります。即刻やめるべきです」
「事実であるのだがら問題なかろう」
「なりません」
「主公がそう言っているのだから良いではないか」
「郭偃殿は黙っていてください」
そんなことを言う郭偃を狐偃は叱る。
頑強に反対する狐偃に対し、文公は言った。
「確かに自分の過ちを公にしたくはない」
自分の過ちを見られるのは恥ずかしいことだ。だから人はそれを隠そうとするものである。
「だが、私は己の過ちを過ちであったと認められる者に私はなりたいのだ」
「しかし」
「私は商の湯王や周の文王、武王のようにはなれないのだ」
文公は上げた名君たちは皆、完璧というべき徳を持った名君たちである。
「私は私なのだ。私のやり方で国君としての職務を全うしたいのだ。どうか頼む狐偃よ」
文公は頭を下げる。そんな彼に狐偃はため息をつく。
「確かに主公はそういう人でしたな」
「だから、従うのだろう?」
にやにやする郭偃を横目に見た後、眉間を抑えながら頷き、文公が望む発布を出した。
発布にはこう書かれた。
「緜上の山に介子推を封ず。これをもって善人を賞する証拠とし、これを我が過ちとする」
これを知った人々はざわついた。
このようなことを言う。国君は未だかつて誰ひとりいなかったからである。しかしながら、人々はそんな文公を讃えた。これこそが文公という人物が名君と讃えられる所以である。
やがて緜上の山は介山と呼ばれるようになり、その山は現代まで存在続け、文公の想いを我々に伝えている。
発布の内容を書かれた立札に人々が群がる中、ひとりの男がそれを読み、静かに、そして嬉しそうに笑みを浮かべるとその場を立ち去った……




