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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第五章 天命下る

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介子推

 外出していたため、遅くなりました。

 晋の文公ぶんこうは周の襄王じょうおうを助けた功績により、南陽の陽樊・温・原・州・陘・絺・組・攢茅の地を得ることになった。


 一見、大いに利益を得ることになったように見えたが現実はそれほど上手くいくわけではない。


 陽樊の人々が晋の統治に反対し、抵抗したである。


 これを受けて文公は軍を率いて、陽樊を包囲した。流石にこの大軍に包囲されてしまえば、直ぐに降伏すると思われたが陽樊の人々は頑強に抵抗を示した。


「落ちないか……」


  文公は城を睨みながら呟いた。


 それからしばらくして、城壁の上から声が聞こえた。


「なんだ?」


「陽樊の守臣が何か叫んでおります」


 文公は手で太陽の光を遮りながら城壁の上を見た。確かに一人の男が叫んでいた。


 この男の名を倉葛そうかつという。


 彼は城壁の上から叫んで言った。


「王は晋君が徳を施したために陽樊にもって労おうとした。しかしながらこの陽樊の民は王の徳を感じており、晋に帰順することを良しとはしなかった。我々は晋君がどのような徳を施して懐柔し、離反を防ぐつもりか見ていたが、今、晋君は兵を動員して我が宗廟を破壊し、この民を滅ぼさんとしている。王を助けたのは周礼に順じたことであるが、今、我々を滅ぼすのは礼に背くことではないのか。徳は中国(中原)を懐柔し、刑は四夷に威を示すためにあるもの。三軍が討伐する相手は、蛮・夷・戎・狄の中でも驕慢不敬な者達であるはずだ。晋が我々に武力を用いるというのであれば、我々が晋に服すことはないだろう」


 彼は手に持つ槍で地面を打ち、続ける。


「元々弱小な陽樊は晋君の政令に慣れないため、その命を受け入れていなかったのだ。晋君が恩恵をもたらすいうのであれば、晋は官人を派遣するだけで充分であったはずであり、我々が晋君の命に逆らうことはなかった、故に師(軍)を煩わせる必要もない。だが、今回の晋君の武は義に背いており、その威信は汚され、軽蔑されることになるだろう。『武は自慢してはならず、文は隠してはならない。武を不本意に誇れば威を失い、文を隠したら光を失う』という。陽樊は甸服としての責任を失い、しかも晋に武を誇示された。これは憂いるべきことである。そうでなければ晋に服さない理由はない」


 確かに陽樊は晋に従わなかった。だがらと言って、いきなり軍を動かし、民を恐怖させるのはどうであるのか。本来、行うべき順序を行ってからではないのかと彼は言っているのである。


 更に彼は続ける。


「そもそも陽樊に裔民(放逐された凶悪な民)はいないのだ。陽樊には夏・商の子孫がおり、その典籍が残され、周の兵と民を擁している。古くから樊仲はんちゅう仲山甫ちゅうざんほ(周の宣王せんおうに仕えた名臣))の家臣が守ってきた地であり、たとえ官員・守臣でなくとも、皆、天子の父兄親戚であるはずだ。なぜそれを武によって虐げようというのだだろうか。晋君は王室を安定させたのに王室の姻族を滅ぼそうとしている。これで民が帰順すると思うか。晋君はよく考えるべきだ」


 文公は周王を助けたために天下にその名を轟かした。それにも関わらず、その徳を汚す真似をしていると彼は主張したのである。


 これを黙って聞いていた文公は臣下を集め、言った。


「あの者の言は正に君子の言である」


 そう言って褒めると文公は陽樊の人々の移住を認めた。














 晋の文公は共に放浪した者たちや功臣を賞していた。


 功の大きい者には邑を封じ、小さな者にも爵位を与えていた。しかしながら、全ての論功行賞が終わる前に周の襄王が助けを求めたため、これに答えた文公が兵を発していた間、賞を与えられなかった者たちがいた。


 その者たちの一人が介子推かいしすいである。


 彼は母のいる家に帰っていた。


「お前は君に従い、苦楽を伴にしたのに、君はお前を何故、賞を与えないのだろうかね」


 母は介子推が誰よりも誠実であると思っており、文公に対しても誠実に尽くしていたはずであると想い、疑ってもいない。そのため、評価される者が近くにいるにも関わらず、何故息子は評価されないのか。疑問で仕方なかった。


「母上、私は別に賞を欲しいわけではないのですよ」


 そんな母を彼は苦笑して言った。しかしながら彼の言葉に嘘偽りはなかった。


「それに母上……私は賞を与えられた者たちと一緒にいたくないのです」


「なぜです?」


 母は彼に訪ねた。彼は暫し、無言であったが、口を開いた。


献公けんこうの子は九人居られましたが、主公だけが残りました。恵公けいこう懐公かいこうには親しい者がおらず、国内外から捨てられることになりました。この時、天が晋を滅ぼすつもりだったのであれば、新しい国君が生まれることはなく、主公がその地位にいることはなかったはずです。晋の祭祀を主宰する者は、唯一残った主公の他にいなかった。これは天が定めたことです」


 文公が国君となったのは全て天命によるものなのだ。天命に従って文公は国君になった。


 だが、次に彼は拳を握り締め、歯を噛み締めると言った。


「しかしながら今、複数の者がそれを己の力によるものだと信じております。欺瞞ではありませんか。人の財を奪ったら盗人といわれる。天の功を自分のものとしたらなおさらではありませんか。だが、下の者は罪を義(道理)とし、上の者は姦人を賞し、上下が互いに欺瞞を隠しあっております。私は……私はそんな彼等と共にいることはできません」


 天命を受けて、国君になったのは文公なのだ。敢えて言えば、天の功績を己のものにできるのは、文公だけであろう。それを己の功績であると誇ることのなんと浅ましいことか。彼はそれを深く憎んだ。


 これを聞いた母は言った。


「お前も禄を求めるべきではありませんか。このまま死んでしまっては、誰を怨むことができますか」


 この言葉に介子推は首を振る。


「誤りと知ってそれを真似ることほど大きな罪はありません。また、怨言を述べた以上、その禄を得るわけにはいかないのです」


「されど禄を求めないとしても、お前の考えを主公に知らせたらどうですか」


 恐らく、介子推の想いを文公は知らないだろう。息子の意思が分かり始めている母は息子の想いだけは文公に知ってもらいたいと思ったのである。


 しかしながら彼の意思は硬い。


「言とは身体を飾るものです。身を隠そうとしているにも関わらず、文を用いても意味はないではありませんか。文を用いるのは自ら顕を求める(目立とうとする)ことです」


 それはもうずっと前に決めていたことであった。


 もうこれしか、己の意思を示す術は無いのである。


「お前がそのようにするのなら、私もそれに従って隠居しましょう」


 母はそんな彼に対し、笑って言った。確かに息子はもう、煌びやかな生活を送ることもできなければ、国の尽くしていくことも無い。しかしながら、息子は最後に己の主の間違いを、この世の矛盾を正そうとしている。そして、その手段は誰も傷つけることもなければ、死なすこともない。


 なんと誇らしい息子ではないか。息子をそんな風に褒めたかった。


「母上……」


 介子推は自分だけがここを去ろうと考えていた。そのため母を止めようと思ったが、母の覚悟は感じ、黙った。


「さあ、行きましょう。推」


「はい……」


 こうして二人はどこかへと姿を消した。以後、介子推と母の二人は誰にも会うことなく。世を去ったという。


 しかしながら介子推の名は歴史の中に埋没することなく。彼の名は不朽の名として、残り続けることになる。




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