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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第五章 天命下る

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三賞

 晋の文公ぶんこうは即位すると先ず国の安定に努め始めた。また、放浪中に別れた妻たちを晋に呼んだ。


 斉からは姜氏きょうしが、狄からは季隗きかいがやって来てそれぞれ夫人として立てた。


「八年も掛かってしまったしまったな」


「いえ、別れる前には二十五年は掛かると申していましたので、短ったですよ」


 季隗はにこにこしながら答えた。


「息子たちはどうした?」


 文公が季隗にそう聞くと彼女は先ほどまでの笑みではなく悲しそうな表情を浮かべると首を振り、答えた。


「狄君は息子二人は国に残すよう命じられました。そのため息子たちはこちらには来ません」


「そうか……」


 文公は目を瞑り嘆いた。狄から離れた間は父として何もしてあげられなかったことを思い出しながら今も父として愛を注いであげられないことを彼は嘆いた。


「姉上はどうなされた」


趙衰ちょうし様が何も言わなかったためにこちらにはまだ……」


「趙衰め、何故招かないのだ」


 実はこの時、趙衰には既に新しい嫁がいた。その者を趙姫ちょうきと言い。文公の娘である。文公は斉にいる時に与えた娘で彼と彼女の間には趙同ちょうどう趙括ちょうかつ趙嬰斉ちょうえいせいという三人の息子を儲けている。


 彼としては文公の娘である彼女の手前、狄にいる叔隗しゅくかいとその子供の趙盾ちょうとんを招くことに躊躇していた。


「狄にいる二人を招くべきです」


 そのような配慮をする趙衰に対し、趙姫は説得に当たっていた。


「それはできない」


「どうしてです。私の立場をお考えならば余計な心配です。私は狄におります。奥方様に従います」


 彼女は第二夫人で良いと主張し、どうにかして彼に二人を招いてもらいたいとした。


(よくできた方だ。しかし……)


 彼としては叔隗と趙盾の二人を呼びたいとは思っている。しかしそれに躊躇する理由として、先ず後継者の問題がある。


 正直、叔隗は身分としては低い。そしてその間に生まれた趙盾は長子だが、彼女との子なので身分もこれまた低い。まだ、自分が生きている内はいいが死んだ後に後継者を巡って争いが起きないかと心配もあった。


 それに文公の手前もある。文公は招いてもよいと言ってはいるが、彼女を正妻にすることと趙盾を後継者にすることを認めるかはわからない。


「迷う必要はありません。大丈夫です。私があなた様が心配なさっていることを起こさせません」


「わかった」


 彼女の説得に遂に折れた彼は同意し、叔隗と趙盾を招いた。


「あんたのことだからもう忘れているもんだと思っていたよ」


 叔隗はからからと笑い、軽口を叩く。相変わらず、この時代の女性としては変わっている。そんな彼女に対し、趙衰は言った。


「息災であったか」


「ああ……」


 彼女は笑って答えた。


 趙姫はやって来た二人を尊重し、叔隗を正妻とし、自身は下についてこれを敬い。趙盾を後継者として自身の子供たちは下に置き、彼に従うようにした。


 彼女のこのようなあり方によって、家に安定をもたらした。見事な人であると言っていい。















 文公は次に放浪中に苦労を共にした臣下たちに賞を与えることにした。先ずは共に放浪の旅で苦労した狐偃を始めとした重臣たちに与えた。その中で魏犨ぎじゅうに魏を治めさせている。


 以前、まだ出国していない時、文公は己の財物を豎(未成年の侍臣のこと)・頭須とうすという者に管理を任せていた。彼が出奔した時、頭須は財物を隠し、逃走していたが暫くして晋に戻り、文公が帰国できるように財物を使って画策した功績のある者がいた。だが、文公はそのことを未だ恨んでおり、彼と顔も合わせようともしなかった。


 文公が即位すると、頭須が謁見を求めた。しかし文公は沐浴を理由に拒否した。すると頭須が僕人(謁者)に言った。


「沐浴で頭を洗う時は頭を下にする。このように頭を下にすれば心が逆さとなり、心が逆さになれば意志も反対になる。私が主公に会えないのは当然だろう。主公に従ったのは馬の縄を牽く僕であり、国内に残ったのは社稷を守る僕である。残った者に何の罪があるというだろうか。国君になりながら匹夫を怨むようなら、主公を恐れる者は多いだろう」


 僕人がこれを文公に報告すると、文公はすぐに彼と引見した。


 三回、賞を与える者の名を発表した。文公に従い共に放浪した陶叔狐とうしゅくこという者がいたのだが、そこに彼の名はなかった。


 文公に対してよく尽くしたと自負している彼は狐偃に言った。


「私は主公の亡命に従って、顔は黒くなり、手足にも胼胝たこができました。此度、主公は帰国なさいまして三賞しましたが、私には及んでいません。主公は私を忘れたのではないでしょうか。もしくは私に大きな問題があるのでしょうか。あなた様から私の言葉を伝えていただけないでしょうか」


 狐偃はこれを文公に伝えると文公は彼を招き言った。


「私が汝を忘れるはずがないではないか。但し、高明で賢才を持ち、徳を行い全てが誠実で、私を正道に導き、仁を語り、私の行いから悪を除き純潔にし、私の名を昭明させ、私を成人(ここでは立派な人物ということ)にすることができる者を、私は上賞とした。礼をもって私の過ちを防ぎ、道理によりて諫め、私を助けて非を招かず、私を賢人の門に誘った者を次賞とした。勇敢な壮士や強壮な御者で、前に困難があれば前に進み、後ろに困難があれば後ろに留まり、私を患難から免れさせた者を三賞とした。人のために自分の身を犠牲にして死ぬ者よりも、人の身を活かして存続させる者の方が優れているという。人に従って亡命する者よりも、人を国と共に存続させる者の方が優れているという。故にそういった者に三賞を行ってから労苦の士を賞するのだ。労苦の士の中では汝が筆頭だ。私をそれを忘れたことはない」


 こうして文公は彼を賞した。


 周の内史・叔輿しゅくきょうがこれを聞き、言った。


「晋君は霸を称えるだろう。昔の聖王は徳を優先し、力を後にした。文公のやり方は理にかなっている『詩経(商頌)』にこうある。『礼に順じて越えることがない』と、まさにこのことだ」と讃えた。
















 文公が帰国したばかりの頃、李離りりを大理に任命した。彼は放浪の旅で共に努力した者である。


 ある日、彼は誤った報告を聞き、無実の者を処刑しました。彼は自分自身を縛り、自らの死刑を乞うた。


 それに対し、文公は言った。


「官には上下貴賎があり、罰には軽重がある。これは下吏(下級役人)の罪だ。汝の罪ではない」


 李離は文公の言葉に首を振ると言った。


「私は官の長となってから、下の者に官位を譲ろうとしたこともなければ、俸禄も多く受けながら、下の者と利を分けようともしませんでした。誤った報告を聞いて無辜の者を殺した時だけ、下に責任を押し付け、死を恐れるというのは義ではありません。私の罪は死に値します」


「汝に罪が申すのであれば、汝を任命した私にも過ちがあるのではないか?」


「主公は私の能力を量って官を授け、私に職を奉じて任務を行わせました。私が印綬を受けた日、主公はこうお命じになりました。『仁義によって政治を輔けよ。誤って生かすことがあっても(罪人を赦すことがあっても)、過失によって殺してはならない』と、私はこの命を受けながらも全うすることができませんでした。これは主公の恩恵を損なうことです。私の罪は死に値しますが、主公に何の過ちがあるというのでしょうか。法には決まりがあり、過ちによって生かせば己も生き、過ちによって殺せば己も死ぬものです。主公は私が詳しく話しを聞いて決断できると信頼なさったために私を大理に任命しました。しかし今、私は過酷になり、仁義を顧みることなく、文墨(文書)を信じて是非を審理することもなく、他者の言を聞いて事実を精査せず、無罪の者を刑に服させて百姓の怨みを買いました。天下の人々がこれを聞けば必ずや趣向を非難し、諸侯がこれを聞けば、必ずや我が国を軽視しましょう。百姓の怨みを積もらせて天下に悪名を広め、諸侯に軽んじられるのは私の罪です。死刑に処せられるべきです」


 これほどのことを言える彼を文公は死なせたくはなく、強い口調で言った。


「真っ直ぐ過ぎて、自らを曲げることができない者には大任を与えることができず、四角過ぎて自らを丸くすることができない者とは長く共存できないという。汝は私の言うことを聞け」


「私は自らの過失により、公法を害して無罪の者を殺したにも関わらずこうして生き永らえています。死刑に処されるべきですなのです。この二つの罪を赦したら国の教えになりません。よって主公の命を聞くことはできません」


「汝は管仲かんちゅうの臣下としての態度を知らないのか。管仲は自身を辱めることがあっても主君を満足させ、行動に問題があろうとも覇業を達成させたではないか」


「私は管仲の賢才がないのに関わらず辱汚の名を持ち、霸王の功もないにも関わらず射鉤の累(主君を傷つけること)があります。官に臨むことはできません。主公は汚名によって人を治めようとしていますが、たとえ主公が臣に刑を下さなくとも、私は官を汚し政治を乱してまで生きようとは思いません。私は天命に従います」


 李離はそういうや否や、立ち上がり、文公の部屋から出ると近くの兵にぶつかり、口で剣を抜くや否や、器用に縄を切り、剣に伏して死んだ。


「馬鹿め、何故死ぬ必要があるのだ」


 彼はまさに己の職務に真っ直ぐ過ぎた男であった。そんな男を死なせてしまったことを文公は大いに悲しんだ。


















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