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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第五章 天命下る

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炎が上がる

 重耳ちょうじが遂に晋の文公ぶんこうとして、国君になった。彼を信じ、彼と長き放浪の旅を供にした臣下たちは一様に喜び、泣いた。そして、放浪の末に国君になるというこの空前絶後の偉業を行った彼の臣下であることに彼を信じ付いてきたこと誇りを持った。


 そんな自分たちの主がどんな政治を行うのかと、期待の目も向けた。


 一方、彼を信じず彼に従わなかった者たちは恐れた。自分たちの地位を失うことに不安に思いながら目を文公に向け、彼の次の行動を彼らはじっと見ていた。


 そんな夜に一人、不機嫌な表情を浮かべ歩く者がいる。介子推かいしすいである。彼は決して文公の即位に不満があるわけではない。これから会う男を思うため、不機嫌になっているのだ。


 彼が会おうとしている男は今、一番嫌っている男である。


「ただいま参りました」


 部屋の前で彼がそう言うと部屋から声が聞こえた。


「入れ」


 扉を開けるとそこにいたのは狐偃こえんであった。彼は手元の書簡に目を向け、介子推を見ようとしない。


「要件は何でしょうか?」


 感情を込めず、彼は淡々と言う。


「汝にやってもらいたいことがある」


 書簡から目を離さず、言う彼に介子推は少し苛立つ。


「やってもらいたいこととは?」


「高梁にいる男を殺してもらいたい」


 彼の言う高梁の男とは晋の懐公かいこうのことである。


「私にそれを任せると言うのですか?」


「そうだ」


 じっと彼は狐偃を見つめる一方、狐偃は書簡を見るばかりで彼を見ようとはしない。


「即位して最初に行うことがそれでは、多くの者は失望しますぞ」


 文公に望んでいることは皆、良い政治を行ってもらいたい。国が失った誇りと強さを取り戻してもらいたい。それを望んでいるのだ。そのような血なまぐさいことを望んではいないはずなのだ。


「これから先、政治を行う上であれが生きていては困るのだ」


「それでも最初に行うこととは思えません」


「密かに行えば、主が行ったかどうかわからん。それに……その罪を被る者は既に用意している」


 彼は書簡を介子推へ投げ渡した。それを受け取ると介子推はちらりと書簡を見た。そこには多くの者の名が書かれていた。


郤芮げきぜい呂甥りょせい……これを機に対立していた者たちを粛清すると申されますか」


 多くの者たちは恵公けいこうや懐公に組していた者たちばかりであった。


「そうだ。連中は内心、主の即位を喜んではおらん。必ず内憂となる。雑草も早く抜くに限るものであろう」


 暫し無言になりながらも介子推は言った。


「命は承知致しました。されど狐偃殿。人という者は案外己の足元は見えないものでございます。雑草に足を取られることがないようにお気を付けを……」


 軽く皮肉を零しながら彼は拝礼し、部屋を出た。


「あのような者らに足など取られるものか」


 一人となった狐偃は静かにそう呟いた。
















 高梁にいる懐公は部屋に籠り、誰と会おうともせず、びくびくと震えていた。


「私は死ぬのか。重耳に殺されるのか。せっかく国君となったのに……」


 彼は秦に人質を出されながらも国君になるために自力で脱出してきたほどの国君への執着を持ちながらも強い存在に常に怯え、恐れて最後には逃げた。そのくせ国君への執着は一人前に持ち続けていた。


「国君の地位を渡したくない。渡したくない」


 だが、これをあの時のような行動に移せないのが彼の限界である。


「お食事をお持ちしました」


 部屋の外から寺人が食事を持って話しかけてきた。


「は、入れ」


 懐公がそういうと寺人は食事を持って、部屋に入ったその瞬間、寺人の首から剣が生えた。


「ひいぃぃ」


 寺人の首から突然、剣が生えた。少なくとも彼にはそう見えた。剣は抜かれると寺人から大量の血が流れ、運んできた食事や床を真っ赤に染めた。


 そんな中、剣を持った男が立っていた。


「何者だ。貴様、私を誰だと思っている」


 男は剣を片手に彼に近づいていく。彼は後ずさりして男から離れようとするものの、すぐに壁に当たって逃げ場はもはや無い。


「お前は重耳の手の者か」


 男は答えず、一歩、一歩近づいていく。


「私は国君、晋の主であるぞ」


「晋の主は我が君ただ一人だけだ」


 男……介子推の剣は懐公の首を飛ばした。首を失った懐公の身体はゆっくりと倒れる。その様を何の感情を出さず、静かに彼はその場を離れた。


 部屋に残るのは死体が二体のみ……













 懐公が死んだことは介子推を通じて、狐偃の元に知らされた。


 これで主の障害はまた一つ無くなったと喜び、そのことを文公に知らせるのは明日にすることにし、彼は書簡の整理を行っていた。


(これで後は郤芮らを消せば、主の障害はこの国には無くなる)


 その後は文公を諸侯の盟主として天下を担わせる。それが彼の夢である。


(長き放浪の旅は主を成長させた。天下にこれほど苦労した国君がいるだろうか。いるはずが無い。主こそが覇者になるべきなのだ)


 彼は心の底からそう思っている。その時、ふと視界に赤い光が映った。何かと思い光の先を見ると炎が上がっている。


「どういうことだ」


「報告します、公宮で火が上がりました」


 そこに兵が駆け込み報告してきた。


「主は、主はご無事なのか」


 狐偃は声を震わせる。


「わ、わかりませぬ」


「早く、主を探さんか」


 狐偃が思わず叫ぶと兵は驚きつつも文公を探しに行った。


「ああ、主よ、主よ。どうかどうかご無事で……」


 彼は晋の未来をまるで焼き払わんとする炎に向かって声を震わせながら呟いた。


 その呟きを嘲笑うかのごとく、炎は更にその勢いを増していった。
































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