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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第五章 天命下る

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天命を得る

 身を凍えるような寒さが訪れた頃、重耳ちょうじらは秦に入った。


「晋の公子たちが参ったか」


 秦の穆公ぼくこう公孫枝こうそんしに向かって言う。


「ええ、既に宿舎を用意し、もてなしております」


「そうか……」


 穆公は決して良い天気とは言えない空を眺める。


「晋の公子は国君となる機会は最初、狄にいた時にあったにも関わらず、それを蹴って長きに渡る放浪の旅に出た。それにも関わらず、まるで彼が国君となることを待ち望んでいるのか。晋は未だ治まらず、混乱が続いている。公子が国君になるのが天命であると言うのか」


 穆公には大志がある。その大志を持っている身として、重耳が国を得ようとしている現状が悔しくもあった。しかしながら晋の混乱を治めるにはそれしか無いことも彼は理解している。故に彼は苛立っている。


「確かにあの時、国君となる機会がございましたが、それ以上に困難もございました」


 彼の言う困難とは里克りこくらの扱いである。彼らは国君を殺しているため。国君となれたのが彼らのおかげだとしても、その扱いは難しいものがあった。


「だが、私にはその後の放浪の方が困難があると思うがな」


 目の前の困難を放り投げてまで、何故更なる困難を選ぶことになったのか。


「その困難の旅を経験して今の公子がおられるのもまた事実です」


「旅が人を成長させるか……」


 最初から国君であった穆公にそのことはわからない。秦でそのことを理解することができるのは数少ない。


「今は晋の公子を援助し、晋の国君とすることが肝要です」


「わかっている」


 穆公は頷いた。












 秦に入った重耳らを穆公は快く向かい入れ、重耳には自分の五人の娘を与えた。


 そのことに対し、重耳はいい顔をしなかった。


「何に不満があるのですか?」


 狐偃こえんが聞くと彼は答えた。


「娘を頂いたのは嬉しいが娘の中に甥の妻であった者がいる」


 彼の言う甥とは即ち晋の懐公かいこうのことであり、彼の妻であった娘とは懐嬴かいえいのことである。


 懐公とは国君の座を争う存在であり、殺し合わなければならない相手である。そんな相手の妻であった者を妻に迎えることに彼には抵抗感があった。


「それでも秦君の好意です。受け取らねばなりません」


 渋々狐偃の言葉に重耳は頷いた。しかしながらこういった悪感情というには案外他者に対し、隠そうとしても顕にしてしまうことがある。


 ある日、重耳が手を洗う時、懐嬴は水を入れたたらいと手拭きを持って彼の傍に控えた。


 新婦が新郎に対し盥を持って控えるのは当時の婚姻における礼である。


 しかしながら重耳は彼女の用意した手拭きを使わず、手で水を切った。


 普通の女性であればこのような無礼をされても黙っているだろうが、懐公の逃走に関して父・穆公を前にしても口を開かなかった豪胆さと気の強さを持っている懐嬴は激怒して言った。


「秦と晋は同等の国であるはず、それにも関わらずあなた様は私を軽視なさるのか」


 彼女の激高に思わず重耳は驚き恐れ、上着を脱ぎ謝った。そして、胥臣(しょしん)に穆公に謝罪を申すよう命じた。


「お気になさらず、娘は誰よりも気が強いものでしてな。しかしながら己の夫に対しての言動では無い。よって娘の扱いに関してはあなた方に任せよう」


 穆公は笑いながらそう言った。重耳はこれを聞き、やはり婚姻を辞退しようと思った。彼女の気の強さを嫌がった部分がある。


 それを狐偃らは止めた。


「この婚姻は秦との関係を良くするものです。辞退するべきではございません」


 彼らが口々にそう言って諫めたため結局、彼は彼女との婚姻を進めた。彼と婚姻したことで懐嬴は辰嬴(しんえい)と呼ばれるようになる。














 数日後、穆公は重耳を宴に招いた。


 重耳は宴で無礼を働いてはいけないと思い、狐偃に同行を求めた。すると彼はこれを断った。


「私の文才は趙衰(ちょうし)に及びません。趙衰を従わせるべきです」


 彼は狐偃の言葉に頷くと趙衰と共に宴に参加した。


 穆公は宴で重耳に対し、国君の礼を持ってもてなした。すると彼は重耳に向かって『采菽(詩経・小雅)』を賦した。


 これの内容は『諸侯が来朝すれば天子は何を下賜すればいいだろうか。厚い賞賜はないが路車(天子や諸侯の車のこと)と四頭の馬を与えん』という内容である。


 本来、天子が諸侯をもてなす時の内容であるため、ここから穆公という人の野心も見ることができる。


 これを聞いた趙衰は重耳に席から下りて穆公を拝させた。流石にこの行動に驚いた穆公は止めようとするが趙衰が言った。


「貴君は天子の命によって重耳を遇して頂きました。それにも関わらず、重耳が天子に対して礼を怠ることがあってはならないのです。故に席を降りて拝するのは当然のことでございます」


 彼は穆公の詩の中の諸侯を重耳に、天子もしくは天子の代弁者を穆公と解釈し、穆公に厚く遇された重耳は天子に遇されて命を受けたことになるという意味にしたのである。つまり、重耳は天子の命により晋の主になることに同意したとも言える。


 重耳は拝礼すると席に戻った。趙衰は次に『黍苗(詩経・小雅)』を賦すよう促した。彼は頷き賦した。


『黍の苗がよく育つ理由は、雨がもたらす恵みのおかげ』という内容である。


 趙衰が言った。


「重耳が貴君を仰ぐは、正に黍苗が雨を仰ぐのと同じでございます。貴君の庇護のおかげで苗が潤い嘉穀(立派な穀物)に育ち、宗廟に献上することができましたら(帰国して宗廟を祀ることができたらということ)、全て貴君の力によるものでございます。貴君が先君(秦の襄公じょうこう)の栄誉を発揚され、東の黄河を渡り、軍を整え、周王室を復興させることができますれば、それは重耳が望むことでございます。重耳が貴君の徳を得て晋に帰り、宗廟を祀って晋の主となり、その国を存続させることができれば、必ずや貴君に従いましょう。貴君が重耳を信任して用いれば、四方の諸侯がその命に従うことでしょう」


 日頃、口数の少ない彼の言葉には力強さがあり、人の心を動かすことができる。穆公はこれを聞き、重耳を称賛した。


「彼はやがて国を得ることができるだろう。私一人によるものではない」


 続けて穆公は『鳩飛(詩経・小雅・小宛)』を賦し、重耳は『沔水(詩経・小雅)』を賦した。


『鳩飛』の内容は『鳩が鳴き空に飛ぶ。我は憂い先人を想う。夜を通じ眠りにつけず、父母二人を懐かしむ』というものである。驪姫りきの乱によって長き亡命生活を送った重耳を憂い、献公けんこうとの友誼に従いあなたを国君にしようという意味である。


『沔水』は「河水は満ちり流れれば、海に向かう」というもので、河が海に流れるように私はあなたに従いましょうという意味である。


 彼の詩がうれしかったのか『六月(詩経・小雅)』を賦した、これは西周の尹吉甫いんきつぼが周の宣王せんおうを補佐し北伐を行い、周の文王ぶんおうや周の武王ぶおうの偉業を恢復させたことを称える詩である。


 再び、趙衰は重耳に拝礼するよう進言した。彼は同意し、再び拝礼を行うとこれを穆公が止めようとするっと趙衰が言った。


「貴君は天子を補佐し、王国を助ける使命を重耳にお与えしました。貴君の徳に対して怠ることはできません。拝礼は当然のことでございます」


 穆公が尹吉甫を称える詩を重耳に贈ったため、趙衰は重耳が尹吉甫のように周王を援け、功績を立てるという意味に解釈を行った。そして、周王を援けるのは覇者の任務であり、重耳が斉の桓公かんこうを継ぎ覇者になることを暗示する意味でもある。


 これは天の意思が穆公の口を借り、重耳に言葉を伝えて天命を与えたと言って良く。重耳には天命はあったが、それが今、ここで形となって示されたのである。その天命に対し拝礼を行うことで覇者となり周王朝を助け諸侯をまとめる存在になることを引き受けたこととなるのだ。


 穆公は覇者になろうとしたが、代わりに彼に対し天命を伝える存在になってしまったのであった。












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