御伽噺のような旅の裏で
狐突が死んだ頃、重耳一行は鄭の都の門の前にいた。だが、兵は彼らを都に入れようとはしなかった、
「帰れ、帰れ、主君は貴公らをもてなす気は無い」
「貴様、ここにおられる方は晋の公子だと知ってのことか」
顛頡が詰め寄るが兵は答える。
「ああ知っているともそれを知っているから貴公らを入れぬのよ」
「貴様ぁ」
「止せ、顛頡」
重耳はそう言って彼を止める。
「せめてこの辺で野宿に最適な場所だけでも教えてもらえないだろうか?」
「知らん」
「おいてめ……」
兵に掴み掛ろうとする顛頡を魏犨が止める。
「承知した」
重耳は怒らず、皆にその場から立ち去ること伝え、門から去った。
「宜しいのですか主よ」
怒りが収まらない顛頡はそう言うが重耳は首を振った。
「良いのだ。鄭にも事情はあろう」
「しかし……」
「くどいぞ顛頡」
狐偃が怒鳴ると彼は縮こまった。彼とて狐偃には逆らうことはできない。
「主よ。急いでここから移動しましょう」
重耳に狐偃が近づき言うと彼は頷く。
「そうだな、こちらを見ている目がある」
彼は目を細め、後方で自分たちを見ているのを横目で見る。
「何者でしょうか」
「それはわからないが、少なくともこちらに好意的では無いようだ。さて、どうするか」
狐毛にそう言うと趙衰が進言する。
「敢えて森の中に入り、待ち伏せしてみては如何でしょう」
「良し、趙衰の言を採用する」
重耳は彼の意見を直ぐ様、採用すると森へと馬車を走らせた。
「晋の公子が森の中に入りました。如何いたしますか?」
重耳らを見ていた男たちの一人が頭目と思えし男に言った。
「追いかけるに決まっていよう。行くぞ」
男の言葉に皆、一斉に動き出した。
「森の中では車では早く動くことは無い」
「その通りでございます」
彼らは慎重に重耳らに気づかれないように追跡する。すると重耳一行は大きな木の所に行き、そこで周り込むように曲がった。
「ちっ、木が邪魔でここからでは見えんな」
近づき過ぎては気づかれやすいが、見失っては元もこうもない。
「動くぞ」
「御意」
男たちは動き出し、木を避けるように重耳を追いかけるようとしたその時であった。
突然、矛が突き出され、何人かはそれに貫かれる。
「何者だ」
頭目らしき男が言うと、矛を持った一人がにやりと笑って言った。
「重耳様が臣、顛頡様よ」
彼はそう叫ぶと矛を横に振り、男たちを蹴散らす。すると更に矛を持った男が進み出る。
「殺りすぎるなよ顛頡」
「わかっているぜ魏犨」
二人は矛を奮って男たちを蹴散らす。彼らの武勇は普通な兵では敵わない。
「ひっ、なんて武勇だ。退くぞ」
頭目らしき男がさおう叫ぶと男たちは逃げていく。
「待てきさまら」
「止せ、これぐらいで良い」
追いかけようとする顛頡を狐偃が止める。
「どうだ?」
彼は男たちの遺体を漁る胥臣に言う。
「晋の者ではありませんね。恐らく鄭の者かと」
「鄭だとなんてやつらだ」
「しかし狐偃よ。何故鄭は私を狙う?」
重耳が狐偃に尋ねると趙衰が答えた。
「鄭には叔詹という名臣がおります。恐らく主を警戒なさったのではありませんか」
彼の言う通りである。
鄭の文公が重耳を冷遇しないことを叔詹は諌めた。
「天が称賛する者に対して、人は逆らえないものです。晋の公子に見られる三点を見ますと、天が彼を国君に立てようとしておりますのが分かります。主公は公子を礼遇するべきです。男女が同姓であるとその子孫は繁栄しないと昔から言われております。しかし公子は姫氏(重耳の母は大戎狐姫の子で、晋と同じ姫姓)が産んだにも関わらず、今に至るまで生きております。これが一つ目です。公子は国外で難を受けていますが、晋国内もまだ安定しておりません。これは天が公子を助けようとしているためです。これが二つ目です。公子に従う者たちは皆、人の上に立つことができる人材ですが、公子に従い流亡しています。これが三つ目です。晋と鄭は対等の国です。その子弟が国を通ったら礼を持って用いるべきなのです。天が彼を助けているのならなおさらです」
しかし、文公は彼の意見を聞き入れない。文公にとっては人という者は自分にとって利があるか無いかでしか評価せず、彼にとって重耳は何も価値を感じてない。
だが、叔詹からすればそのような物で人を判断しない。人なりや行動を持って評価する人である。そんな彼からすると重耳という人物の行動に天の意思を感じる。
(これら三点は空前絶後なのだ。天に愛される者にはそういった空前絶後の結果をこの世に残すことがある)
天の意思は確実に重耳を国君にしようとしている。
(国君となれば無礼を働いた国を許さないだろう)
人は己にした仕打ちに対し、報いを受けさせたいと望むものである。その力を得たら尚更である。
「ならば公子を殺すべきです」
国に対し、不利益なことが起きそうならば、それを防ぐのが国に仕える臣下の努めなのだ。
「放っておけば良い」
文公はそう言ったが彼は独断で刺客を重耳の元に向かわせた。
「鄭の名臣に狙われるほど、私の首は価値が出ているのか」
重耳はからからと笑う。
「笑い事ではございませんぞ」
「良いではないか。こうして無事なのだから」
彼はそう言って尚も笑い続ける。
「主は命を狙われたというのに、堂々となさっているな」
狐毛が弟に対し言った。
「主はこの旅を通じて、自身をご成長なさったのでしょう」
狐偃は嬉しそうに言った。彼は誰よりも重耳が成長することを、国君らしくあることを望んでいる。
「そうだな。しかし、主がこの仕打ちを受けて黙っているのは少し怖いかもしれないな」
狐毛は重耳が国君となることを望んでいるし、そうあるべきだとも思っている。だが、国君となった後、鄭は他国に対し私情を挟むことをするのではないのか。国を動かすのに必要以上の私情を挟むと碌な事にはならない。
「良いではありませんか。我々の手で主の行為を正義の行いにすれば良いのですよ」
古の名君に果たして、私情を挟まずに国を動かしたのかと言えば、それは違うだろう。だが、それにも関わらず良しとなるのは何故か。それは正義の行いであったからである。
正義の行いとは何か。それは多くの物が望むことであり、大多数の意見とも言える。既に狐偃には重耳が国君になった後のことを考えている。
(私が重耳様の名を名君として残させる。それができるのは私だけだ)
その自負が彼にはある。
「主よ、取り敢えず、この先で野宿しましょう」
「わかった。皆、移動するぞ」
彼らはぞろぞろと移動を始めた。
日が沈み、暗闇が世界を覆う。
重耳ら皆、寝静まっている中、草が揺れる。
「どこに行っていた」
草が揺れている所に狐偃は声をかけた。
「少々、虫が彷徨いておりましたので……」
草むらからぬっと現れた男の手には血の付いた剣があった。
「斬ったのか」
それを見て、狐偃は嫌な顔をする。
「誰がそれをやれと申した」
「始末できる内に始末するべきだと思いましたので」
そう言う男に対し、狐偃は更に顔を歪める。
「貴様は確か介子推と申したな」
「左様でございます」
男……介子推はそう言った。
「貴様は所詮、陪臣に過ぎん。出過ぎた真似をするでない」
「しかし……」
「良いな」
狐偃は珍しく声を荒立てる。彼からすれば鄭の刺客は追い払うぐらいで良いのだ。不必要な血はこの旅にはいらない。
「されど主を守るため多くの仲間たちが命を散らしております。彼らの犠牲を少なくするためにも必要だと思いますが」
介子推ら陪臣らは狐偃らのように重耳の近くで侍ず、常に重耳を守るために戦い、傷ついているのだ。
「くどいぞ、主のこの旅はそういったものと無縁であるべきなのだ」
この旅は言わば、重耳という稀代の名君にするための旅であり、綺麗な神話に等しくするべきなのだ。
「我ら陪臣は主が国君となられることを望み、付いて来ているのです。そして、我らを評価してくださると信じてもいるのです。そんな我らの苦労をあなた様は……」
介子推ははっと何かを思い、狐偃の目を見る。
「主は……我々のことを知っておいでなのでしょうか?」
「もちろん知っている」
「誠ですか?」
「くどいぞ」
彼らはじっと互いの目をにらみ合う。狐偃は重耳は国君となり、斉の桓公のように天下に号令するべき人物となるはずなのだ。それに向かって、突き進んでもらいたいと思っている。そのためにも後ろを振り返ることがあってはならないのだ。
一方、介子推は重耳に天命を見ており、空前絶後の人でもあると思っている。そして、彼の名君・周の文王に匹敵する人物になるはずだとも思っている。
周の文王は戦で戦死した兵の遺体を拾い、礼を尽くした名君である。彼のような名君になるのが重耳だと思っているのだ。
狐偃と介子推は身分の違い、立場の違いが重耳に対して求め、望んでいることに違いをもたらしていると言っていい。
「良いな今後、勝手な真似をするなよ」
「承知しました」
介子推は拝礼し、自身の眠る所へと移動した。姿が見えなくなるまで狐偃は彼の姿を見ていた。
朝が明けると重耳一行は移動を始めた。
「次はどこに行くべきだろうか?」
「楚でよろしいかと」
「楚か……」
楚は中原諸侯と争っている存在であり、彼らを脅かしている存在である。
「楚は大国です。この国との繋がりは必ずやあなた様の助けになります」
「わかった。行こう楚へ」
(そう、あなた様はどこまでも迷いなく進まればよろしいのだ。後ろを振り向かずに)
重耳に血は似合わない。だから陪臣たちの犠牲を知らなくとも良いのだ。そのような小事に構うべきではない。
多くの困難を受け、様々な出会い。そしてそれを支える臣下たち……この重耳の放浪の旅は一種の神話、御伽噺に近い。実際はその裏では多くの血と命が散っているはずであり、その多くが名も無き陪臣たちである。彼らの犠牲があって、重耳は生かされている。しかし、史書に彼らの名は現れない。ただ一人を除いて……
その男の名は介子推。後に重耳を、そして、一行の中で一番の名臣と称えられた狐偃よりもその名を越えることとなる人物である。
何故彼だけがそれだけの名を残すことになったのかは、もう少し先のお話し……




