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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第四章 天命を受けし者

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賢夫人の目

 むすっとした表情を浮かべながら重耳ちょうじは車内で揺られている。


「主よ。もうすぐ曹に入ります」


「曹か……」


 狐偃こえんの言葉を受け、彼は車内から曹の都を見る。


「では、私は先行して主のことを曹にお伝えしに参ります」


 そう言うと狐偃は先に曹の都へ向かった。


「曹は我らを受け入れるだろうか?」


 彼がそう言うと狐毛こもうが答えた。


「それは何とも申せませんな」


 彼はそれを聞き、なんとも言えない表情を浮かべた。











「晋の公子が来ると言うのか?」


「はい」


 曹の共公きょうこうは興味なさそうに言うと臣下が答える。


「ふあぁ、その辺の屋敷にでも泊まらせれば良いだろう。勝手に用意せよ」


 あくびをしながら言うと臣下が近づき囁いた。


「実は晋の公子には面白い駢脅へんきょうらしいですよ」


「ほう」


 駢脅とは肋骨が繋がっている異相のことである。これを聞き、興味を覚えた共公は微笑すると臣下たちに言った。


「それは面白い。ぜひ見てみたいものだ。沐浴を行っている際に覗き易い所がある屋敷に公子を案内せよ」


 そう臣下たちに命じると、


「お待ち下さい」


 一人、進み出て諌めた。


「公子を客としてもてなすというのに、そのような無礼な行為を行えれば、恨みを買うことになります。お止めください」


「覗いていることがわからなければ良かろう」


 水を差されたという表情を浮かべる共公はそう言って、彼の言葉を無視した。


 彼はため息をつき、憂いた表情を浮かべながらその場を離れた。彼の名を僖負羈きふらという。













 重耳一行は停めてくれることに喜びつつも、案内された屋敷を見て、少しげんなりとした表情を浮かべた。


「あまりにも貧相な屋敷でございますな」


「曹君はあまり我々をもてなす気はないのではないのか」


 魏犨ぎじゅう顛頡てんけつが口々に文句を言うなか、重耳は平然としながら屋敷へと入って行く。


「衛での扱いより増しであろう」


 主君がそういうのならばと彼らも続けて屋敷に入っていった。


 日が沈むと重耳は沐浴を行った。その際、不自然に立てられている薄い簾があるのを見つけた。


(なんであろうか?)


 そう思いつつも、彼は気にしないで沐浴を行う。しばらく行っていると視線を感じた。


(刺客か?)


 まず、彼はそれを警戒するが、


(いや、晋の刺客は斉で行き違いになったはず、刺客がここにいるはずがなく、それにもし刺客ならば、真っ先にこの場で殺しているだろう。その割には殺気が無い)


 そう思いながら彼は視線の先、薄い簾を横目で見た。


(誰であろうか……)


 その時、ちらっと金品のような物が見えた。


(あれは身分の高い者、それも国君が身に付けるような代物ではないか)


 彼は愕然とした。一国の主足るものがこのような稚拙で無礼な行為を行うとは思わなかったのである。


(未だかつて、これに勝る屈辱はあるだろうか)


 まだ、衛での扱いの方が良いように思えた。


(だが、ここで余計なことをするわけにはいかない)


 彼はぐっと我慢した。彼はどちらかと言えば、情の人だが、このような感情を抑えることのできる人である。


 重耳は沐浴を手早く終わらせると、その場を出た。













「お早いですな」


 狐毛が沐浴を行ったわりには早く出てきたことに疑問を覚え言う。


「曹は長居するところでは無い。明日にでもここを出る」


「どうなされました?」


 周りのものたちは驚き、理由を伺った。


「沐浴を行っている最中に覗かれた。恐らく、曹君だ」


「なんと」


 まさか一国の国君がと彼らは思いつつも重耳が嘘をつくような人では無いことは彼らはよく知っている。


「承知しました。明日には曹を出るよう手配します」


 趙衰ちょうしがそう言うと重耳は頷く。


「頼む」


 そこに先軫せんしんがやって来た。


「主にお会いしたいという方がおりますが如何いたしますか?」


「誰だ?」


「曹の大夫か……」


「どうなさいますか主よ。追い払いますか?」


 狐偃が尋ねると重耳は首を振り、言った。


「そのようなことはしなくとも良い。会おう。案内せよ」


「承知しました」


 先軫はその場を離れ、少しすると男を連れてきた。男は拝礼すると手に持っていた箱を重耳に差し出した。


「公子にこれを献上致します」


「これは何だ?」


「我が主の無礼に対し、心ばかりの謝罪のものでございます」


 重耳は箱を開けるとご馳走がたんまりと入っていた。彼は驚きつつ、ご馳走を見ているとそれの下に不自然な色の板があることに気付いた。


(なんであろうか)


 そう思い、板に触れると開くようになっていたため、少し開けて覗き込むとそこには璧玉が入っていた。


「あなたの名を伺いたい」


「僖負羈と申します」


「僖負羈殿、あなたのお気持ちよくわかりました。されどこの下にあります璧玉はお返し致します」


 そう言って、重耳は璧玉を彼に返した。彼はしばし、驚いた表情を浮かべたが、拝礼しその場を離れた。


 彼が去った後、重耳は狐偃に言った。


「曹君のような暗君にもあのような臣下がいるとは思わなかった」


 彼は大層、この時のことを覚えており、後に僖負羈の恩に報いるのである。













 さて、曹の臣下である彼が何故、このようなことをしたのかと言うと、実は一人の女性が関わっている。


 その女性の名は後世に伝わっていないため便宜上、僖負羈の妻ということで僖夫人とする。


 僖負羈が曹の共公が覗きを行うことを決定し、臣下と覗きの話しをしているため、馬鹿らしくなり自分の家に戻った。


「どうなさいましたか?」


「どうしたもこうしたもない」


 そう言うと彼は経緯を話した。


「なるほど……ならば晋の公子方を見ることはできませんか?」


 突然、彼女はこのようなことを言い出した。


「まあ、遠くならば見ることもできるぞ」


「ならば、行きましょう」


 妻の言葉を受け、仕方なく重耳の泊まった屋敷近くへ出向いた。


「あれが晋の公子方だ」


 僖負羈が指さした方角には屋敷の貧相さにげんなりとした表情を浮かべている臣下に囲まれている晋の公子の姿があった。それを僖夫人はじっと見つめる。やがて僖負羈を見ると言った。


「晋の公子の従者は皆、国の相になってもおかしくない者たちばかりです。彼等が助ければ、公子は必ずや帰国することができましょう。帰国したら諸侯の間で志を得ることができ、志を得れば無礼な者を誅伐するようになりましょう。曹は恐らくその誅伐の筆頭になるでしょう」


 彼女の目は絶大と言って良く、そんな彼女の目を彼は大いに信頼している。


「なんという事か、直ぐさま主公にお伝えし、やめさせねば」


 駆け出そうとする僖負羈を彼女は止める。


「それは無理でしょう。止めることができるのであれば、旦那様が諌めた際にやめたはず、それよりも旦那様は主公と異なる態度を御とりになり、早く公子方を厚く遇するべきです」


 彼女がそう言うと僖負羈は少し考え込み、


「わかった」


 彼は頷いた。











 こうして、彼は重耳にご馳走を献上したのであった。帰宅した彼は僖夫人に会っていった。


「実際に話してみて、晋の公子の人となりの良さが良くわかった。おまえの言う通りにして良かった」


「そうですか。それは良かったですわ」


 彼女はにっこりと笑う。


「しかし、本当に帰国することはできるだろうか?」


「できます」


 彼女は断言した。


「だが、長く諸国を放浪し、国君になるなど聞いたことはないぞ」


「そうです。そういった空前絶後というべきことを起こしあの方は天下の盟主となられましょう」


 逆に言えばそう言った逆境を乗り越えた者こそが、天下を左右することができるのだ。


「わかった。私にはそう言ったことはわからない。凡人だが、お前の目の確かさを知っている。お前を信じよう」


 僖負羈はそう言って笑った。それに釣られるように彼女も笑った。



















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