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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第四章 天命を受けし者

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再び、放浪の旅へ

 姜氏きょうし重耳ちょうじの部屋に出向いた。


「どうかしたか?」


 重耳はそう尋ねる。


「少し、あなた様とお話しをしたくて参りました」


「話とは?」


「あなた様には大志がございます」


 静かに彼女は言った。


「四方を治め、統率したいという大志がございます。その大志を叶えるためにも斉から出国するべきです」


「私にそのような大志は無い。それに私はここでの生活で充分なのだ」


 重耳は酒を片手にそう言う。そんな彼に彼女は目を怒らせ、強い口調で言った。


「出国なさるべきです。安寧に留まろうとしたら名を敗することになります」


 普段とは違う彼女に驚きつつも彼は何も答えず、動こうとはしなかった。そんな彼にため息をつくと彼女は彼の部屋を出た。


 少し、歩いた後、彼女は後ろを振り向く。


「先ほどより、私をつけている者よ。出てきなさい」


 すると影から一人の男はふらりと現れた。


「重耳様の手の者ですね。名を聞いても宜しいですか?」


介子推かいしすいと申します」


 男は膝を着くと静かに己の名を述べた。


「介子推よ。あなたを見込んで頼みがあります」


「何でしょうか?」


 静かに彼が聞くと彼女は答える。


「これから私の部屋に首を持った兵がやってきます。その兵を殺してください」


 それを聞いた瞬間、介子推から殺気が溢れた。それに少し驚きつつ、彼女は続けて言った。


「重耳様の大志を叶えることに必要なことです」


 しばし、彼は無言であったがこれに頷くと影の中へと消えていった。それを見ると彼女は自分の部屋へと戻っていった。















 影の中でひっそりと隠れているのは介子推である。じっと彼は姜氏の部屋を見ていた。すると部屋に近づく男がいた。


(袋のようなものを持っているな……あれだな)


 姜氏の言う兵であると判断した彼は兵が部屋に入るのを見ると部屋へと近づき、扉の前でしばし待つ。


「姫様、言われた通り、斬ってまいりました」


「ご苦労様です」


「しかしながら何故この者を斬らねばならないのでしょうか?」


(今だな)


 兵に隙があると判断した彼は扉を瞬時に開け、部屋に踏み込むと兵の首を一閃した。


 兵は斬られたことに気づかないのか顔は何ら苦悶の表情は無い。しかし、そのことよりも介子推が興味を持ったのは姜氏である。


 彼女は兵が斬られる瞬間、何ら驚きの表情を浮かべず、動揺もしていない。


(見事な胆力である)


 彼は感嘆すると兵が持っていた白い袋を持った。


「この首は誰のものですか?」


「私の侍女のものです。重耳様を斉から出る相談をしておりました狐偃こえん様方の話を聞いてしまったので兵に始末させました」


「左様でございますか」


 彼は白い袋を見る。偶々、人の内緒話しを聞いただけでその生涯を終えてしまう。そして、その生涯を終えさせた兵もまた、自分によってその生涯を終えた。


(生きることは難しい。ほんの些細なことで命は失われてしまう。だが、彼らが死ななければ己の主もまた、こうして死んでいたかもしれない)


 誰かの犠牲の上に人は生きている。それが人生であろう。後はそれを知って生きるか知らずに生きるかのどちらかしかない。


「奥方様はどうして主を斉から出そうとなさるのですか?」


 そして、彼女は主と過ごすという幸せを犠牲にしてまで、重耳の志を助けようとしている。


「あの方はこのような場所にいる方では無いのです」


「そうですか……」


(見事な人だ)


 重耳はこのような人々に救われていく人なのだろう。ここまでの旅だけで多くの者が重耳のために死んでいる。それでも皆、重耳のために尽くしている。


(全ては主が国君となられるのを願っているためだ)


 その思いが彼女や周りの者を動かす。そのような多くの意思はもはや、天の意思ではないのか。


(主は天命を受ける方なのだ)


「介子推。私はこれより、狐偃様方に会いに参ります。首を持って付いて来て下さい」


「承知しました」


 彼はそう言うと彼女と共に部屋を出た。












「兄上、奥方様が我らに話しがあると申されていたそうだが、どのような話しであろうか?」


 狐偃が兄・狐毛こもうに尋ねる。


「わからない。趙衰ちょうし殿は何か聞いているか?」


 彼が尋ねるが趙衰は首を振るだけである。


「汝も知らないか……」


 その時、扉が開き姜氏が入ってきた。彼らは彼女に対し、拝礼する。


「奥方様。どのようなご用件でしょうか?」


「夫のことでございます」


「主のことでございますか……」


 狐偃らが首をかしげる中、姜氏は話し始める。


「あなた方が桑の木の下で夫の出国について話し合っているのを侍女が聞きました」


「左様でございましたか」


 口調こそ穏やかだが、彼らの目は鋭くなる。


(奥方様に知られたということは斉君も……だとしたら、態々奥方様が出向く必要は無いか。だが、何故……)


 姜氏は後ろを少し向くと扉から一人の男が白い袋を持って入ってきた。


(あの男は確か……先軫せんしんが用意した陪臣たちの一人だったはず……)


 彼は介子推のことを見たことはあっても名前は知らない。


 男が机にその袋を置くと中身を出し始めた。中身が露わになると皆、顔をしかめる。


「これは何ですかな?」


 狐毛が尋ねると彼女は答えた。


「侍女の首です。あなた方の話を聞いたので、兵に斬らせました。その兵も念のためこの者に斬ってもらいました」


「つまり、話しを知っているのは奥方様だけということですか?」


 彼女は頷いた。


(ならば、ここで始末すれば……)


 誰も知らないことになると彼は思った。その時、袋を持ってきた男から殺気が溢れる。


(この男……)


 狐偃は介子推を睨み。


(危険な男だ)


 彼はそう直感した。


「私は夫の出国に協力したいと考えています」


 姜氏の言葉に聞き、彼は睨むのをやめ、彼女の方を向いた。


「そこで一つ考えがあります」


「考えとは?」


 狐偃が聞く。


「夫は酒に対してそこまで強くありません。そこで宴に招き、酒を飲ませて酔わせるのです。酔った状態で車に乗せ、出国すればよろしいかと思います。私も協力します」


「なるほど、ならば酒をできるだけ集め、行いましょう」


「ええ、それも明日に行うべきです」


「明日でございますか。何故でしょうか?」


 狐毛が疑問に思うと彼女は答えた。


「実は、晋の使者を名乗る者が向っているそうです」


「なんと……」


 彼らは一応に驚いた。自分たちが知らない内に魔の手が迫っていたのである。


「早い方が良いかと思います」


「わかりました。明日、行いましょう」


 その後、彼らは細かな打ち合わせを行った。













「宴か……」


「はい」


 翌日、狐偃は重耳に向かって言った。


「奥方様が斉君より、良き酒を送られたのとかで、折角ですので宴を行い。振る舞いたいとのことでした」


「そうか……わかった。行こう」


「では、夜に行いますので、失礼します」


 彼が部屋を出るのを見ると重耳は横になり、宴の時まで昼寝をすることにした。


 太陽が沈み、夜になると侍女に宴に案内された。


「さあ、どうぞお飲みください」


 姜氏が彼に近づき、酒を勧める。


「ああ、ありがとう」


 彼は酒を受け取ると一飲みする。


「おお、良い酒であるな。皆もさあ飲んでくれ」


 そういうと彼は酒を再び煽った。


「良い飲みっぷりでございます。さあさあもっとお飲みになってくださいませ」


 姜氏は何度もそう褒め称えて酒を勧め、彼はその度、酒を受け取り煽った。やがて睡魔が襲い、眠った。


 しばらくして、何かしらで揺られる感覚を覚えた重耳は目を覚まし、立ち上がった。すると目の前に大地が広がっていた。


「なんだ。どういうことだこれは……」


「お目覚めですか主よ」


 茫然とする彼に向って、隣で馬を操る狐偃が言った。


「ここは……」


「そろそろ、斉の国境を抜けます」


「何だと、戻れ」


「お断りします」


「貴様」


 珍しく怒気を露わにした彼は近くにいた兵から戈を取り、それを狐偃に向ける。


「戻せ」


「全てはあなた様の大志のためでございます」


 一歩も引かない狐偃に彼は言った。


「もしも成功しなければ(国君の地位を得ることができなかったら)、私は汝を殺してその肉を食らおうとも満足することはないだろう」


 それに対して、狐偃は答える。


「もし成功しなければ、我々はどこで死ぬかわからず、誰が豺狼と肉を争うというのでしょうか。また、もしも成功すれば主は晋の美食を全て手に入れることができます。私のは生臭くてまずい肉を食べる必要ないではありませんか」


 彼は戈を手放し、この男の舌には勝てないとため息をついた。そして、彼は後ろを振り向いた。斉の都は見えない。


「姜氏も関わっているのか?」


「協力してくださいました」


「そうか……」


(姜氏よ。汝は私に国君になれと言うのだな)


 彼は斉の方角に向け、拝礼した。そして、斉での思い出をかみしめると前を向いた。そこには広大なる大地が広がっている。


 この大地はどこまで広がっているのだろうか、と彼は思った。後にこの広大なる大地に大きな影響力を持つ男の旅はまだまだ続く。





























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