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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第四章 天命を受けし者

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志ある者に困難を

 紀元前638年


 春、魯の僖公きこうは邾に制圧されていた須句を取り返し、須句君を国君の座に戻した。


 斉の桓公かんこうの行ったように一度滅ぼした国を復国させたことで魯の僖公は大いに満足した。


 三月、鄭の文公ぶんこうは楚に入朝した。これは正式に楚に従うことを表明したことに等しく、反楚の考えを持っている宋の襄公じょうこうはこれに怒ると夏、衛の文公ぶんこう、許、滕と共に鄭を攻めた。


 目夷もくいはこれを散々止めた。宋は前年の孟の会で、名声は失墜しており、このような戦を行うよりは徳を積むことが必要なはずなのだ。


「禍いはここにあるだろう」


 今、宋は天の裁きを受けようとしている。それを逃れるには天からの許しを得るまで我慢する必要がある。しかし、襄公はその我慢するべき時を無駄にしている。


 報いを受ける時は近い……










 この頃、晋の恵公けいこうは病に倒れた。それを秦で人質になっている太子・ぎょが知った。


「もう、私は駄目だろう」


「何故ですか?」


 そう尋ねるのは妻の懐嬴かいえいである。彼女は秦の穆公ぼくこうの娘でもある。このように娘を与えていると優遇しているように見えるが、実際は監視の意味が強いだろう。


「梁は私の母の国だ(圉の母は梁伯の娘)。しかし秦がそれを滅ぼしてしまった。(紀元前641年のこと)そのため私には頼りとする勢力がない。そして、私には兄弟が多い。国君(恵公)の死後、秦は梁の母を持つ私を帰国させようとはせず、晋も私を軽んじて他の公子を国君に立てるだろう」


 彼は泣いた。自分の運命を呪ったと言っていい。彼は懐嬴の方を向いて、言った。


「私は汝と共に晋に還ろうと思う」


 国君の座を得るには行動するしかない。それに彼女を誘ったのは彼は彼女を愛していたからと言っていい。


 だが、彼女は首を振り言った。


「あなた様は晋の太子ですが、秦で人質になっています。帰るのは相応しくないでしょう。我が君(穆公)が婢子(私)をあなたに仕えさせ、巾や櫛を持たせているのは、あなた様を安心させるため。あなた様に従い、晋に帰れば君命を捨てることになりますので、あなた様に従うわけにはいきません。しかし、あなた様がそれでも去るというのであれば、そのことを公言致しません」


「そうか……」


 彼は少し考えた後、晋に帰国することを伝えた。彼女よりも国君となる道を選んだのである。


「わかりました。実行する上で早い方が宜しいと思います。さあ、衛兵に気づかれる前に城を出てください」


 彼女の言葉に頷くと彼は数人の臣下と共に秦を出た。












 翌日、秦の兵が様子を見に来ると太子・圉がいないため、大騒ぎになった。事情を一番知っているはずの懐嬴は何も話そうとしないため、彼らは困ってしまった。


 このことは秦の穆公にも伝えられた。


「そうか、ならば娘をここに呼べ」


 穆公に言われ、臣下は懐嬴を連れてくると彼らを穆公は部屋から出るように命じ、部屋には穆公と懐嬴の二人だけとなった。


「晋の太子はどこに行った?」


 穆公が尋ねるものの彼女は答えない。


「では、質問を変えよう」


 そんな彼女が可笑しいのか少し笑いながら穆公は言った。


「お前の選択に後悔は無いか?」


 この言葉に彼女は頷いた。


「そうか、そうか……まあ良い」


 彼は目を細める、


「お前は母に似て気が強く、優しい子だ。今回は許そう。だが、これからはこう言った真似は許さんぞ」


「わかりました」


 彼女が頷くのを見ると穆公は臣下を呼び、彼女を自室に戻すよう命じた。彼らが去ると公孫枝こうそんしがやって来た。


「あれはどうだ」


 あれとは太子・圉のことである。


「正直、期待はできないでしょう」


「そうか……結局あやつを国君に立てることになるだろうか?」


「そうなりましょう」


「今、どうしている?」


「斉におります」


「斉か……まあ良かろう」


 そう言うと穆公は政務に戻った。



















 斉の桓公という強大な存在がいなくなったことで天下は大いに騒がしくなっていたが、この男の周りは静かであった。


 その男の名を重耳ちょうじという。晋の公子で、晋の恵公の兄に当たる。彼は弟の恵公との後継者争いを避け、斉に滞在していた。


 しかしながら今の彼には以前あった気概のようなものはなく。今の安寧に満足していた。元々彼は偉大な兄と才気活発な弟の間におり、平凡な公族として、静かに暮らすものだと考えていた。彼には本来、国君になろうということを考えはいなかったのである。


 さて、そんな重耳を苦々しく思っていたのは重耳に従っていた狐偃こえんら臣下たちである。


 彼らは重耳が国君となる方であると信じ、ここまで付いてきたのだ。それなのに重耳は今の生活に満足し、国君になろうとしない。


 そんな重耳を優遇してるように見える斉の孝公こうこうだが、それは父・桓公に優遇されたことへの警戒であり、決して善意で優遇しているわけではない。ある意味、飼い殺しに近かった。それもまた、彼らにとっては苦々しいこの上なかった。


 そのためどうにか斉から出ることを彼らは桑の木の下で話し合った。


「斉から一刻も早く出るべきだが、主は動こうとなさらない。どうすれば良いだろうか?」


 狐偃は少し苛立ちながら言う。


「今は待つしかない」


 趙衰ちょうしがそう言うと狐偃が反論する。


「ならばこのまま飼い殺しにされていろと言うのか」


「止せ、偃」


 狐毛こもうは弟を宥める。


「取り敢えず、主の御心がお変りになられるまで待つべきだ」


「変わらないようであれば如何にする?」


 狐偃の言葉に趙衰は目を細めると言った。


「その時は無理やりでも斉から出よう」


 彼らのこの会話を木の上で聞いていたものがいた。蚕妾さんしょうという。主に蚕の養殖を行う奴隷であるが、重耳の妻・姜氏きょうしに仕えている侍女でもある。


(もし、公子が斉を出て行ってしまっては姫様が責められてしまう)


 そう考えた彼女は彼らが木から離れると急いで姜氏の元に行き、彼らの話しを伝えた。


「そうですか……」


 彼女の話しを聞くと姜氏は目を瞑り、考え込んだ。


「すぐさま、主公にお伝えするべきです」


 蚕妾が詰め寄ると彼女は首を振る。


「いえ、それには及びません。あなたはこのことを他言してはなりませんよ」


「しかし……」


「いいですね」


 食い下がる彼女を姜氏は強い口調で止める。


「わかりました」


 蚕妾は渋々、同意すると姜氏の元を離れた。それから少しして、姜氏は近くの兵を呼んだ。


「どうなさいましたか?」


「蚕妾が無礼を働きました。斬りなさい」


「無礼とは?」


 心優しい彼女の言葉とは思えなかったため、兵はそう訪ねた。


「良いから斬りなさい」


 普段の言動からは想像できない強い口調で言う彼女の言葉に兵は驚きつつも同意し、蚕妾を殺しに向かった。


 再び部屋に沈黙が訪れ、少し経った後、彼女は重耳の元に向かった。彼女のこの動きが重耳を苦難と栄光の道へと歩ませることになる。










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