臧孫辰
紀元前640年
春、魯の僖公が都の南門を改築した。
この改築は農事に影響が出るほどの大規模なものであったらしく僖公らしくない失策であったと言えよう。
夏、鄭の属国であった滑が背き、衛についた。
楚に安々となびいた鄭のあり方に不満を持ったためであり、信義の無さを非難したのである。
これに怒った鄭の文公は息子の公子・士と洩堵寇に滑を攻めさせた。属国でしか生き抜けないほど国力が無い滑は鄭の攻撃を受けると帰順した。
ひとまず鄭の文公は帰順に納得し、軍を返した。
一方、滑が鄭に攻め込まれている間、援軍を出さなかった衛はというと前年に引き続き、邢に攻め込んでいた。その脅威に恐れた邢は狄と斉に援けを求める。ここで斉に援けを求めたことに注目したい。
元々狄は斉の孝公の即位も認めず、斉に出兵しており、狄と同盟関係であった邢は斉とは対立関係であったはずである。しかしながらここで斉に援けを求めるということは斉との関係は修復されたということである。
斉は前年、魯・陳・蔡・鄭・楚と会盟を行った。これもおかしなことである。前年の会盟は陳が宋のやり方に不満を持ち、行った会盟で実質、楚との関係を強化するものであった。
斉の孝公は宋の襄公が後見人であるから、宋を非難する会盟に参加するのはおかしなことである。斉の孝公という人には宋に従いたくないという意思がある。恐らく斉の孝公は未だに自分が諸侯の盟主であると考えているのではないのか。そのため諸侯の覇者気取りの宋の襄公を嫌った。
そのため斉は楚の方に関係を持ち始めた。それにより、楚に近い狄と邢と友好をもったのだろう。
秋、斉、狄、邢は斉の地で会盟を行った。
この頃、楚で随が漢水の東の諸侯と共に背いた。
楚の成王は子文に討伐を命じ、冬、子文は軍を率いて随と戦い講和した。
これを知った宋の襄公はこれ以上、楚の勢いが増すことを恐れ、再び諸侯を集めようとした。これを知った臧孫辰はため息をつくと言った。
「己の欲を他者に従わせる(他者と同じ欲を持つ)ことは良いことだが、他者を己の欲に従わせようとするのは、難しいことである」
かつて彼は宋の襄公の父である宋の桓公の言葉を聞いただけで国君に相応しいと褒めたことがある。そんな宋の桓公の息子である今の襄公の姿に幻滅したのである。
(素晴らしい親を持っても子が父に並ぶことは無いものだな)
ふと彼は自分の影を見た。自分も臧孫達という偉大な祖父がいた。
(私も宋君と対して変わらんか)
そう彼は自嘲した。
紀元前639年
春、狄は邢を援けるため衛に攻め込んだ。衛も負けじと狄と戦闘を行う。
そんな中、宋、斉、楚が宋の鹿上で会盟を行った。この会盟で宋の襄公は楚の成王に、楚に従っている諸侯を宋に従うように命じろと要求した。
この宋の襄公に成王は内心笑い、目夷は頭を抱えただろう。
宋の襄公は本来、斉の孝公の後見人なのだ。それならば斉の孝公に従うよう命じろと要求するのであれば、まだ理屈は通る。もっと言えば本来、天下を治めるべきは周王なのだ。宋も斉も本来は周の諸侯であるはずなのだから。
しかし、ここで宋の襄公は自分に従えと要求している。しかも斉の孝公の前でそれを言っているのだ。斉の孝公は自分が決して諸侯の盟主をやめたなどは思っていないのだ。そこが彼の若さとも言えるがそれ以上に宋の襄公の図々しさが際立っている。
楚の成王は斉の桓公と張り合ったことのある実力者である。そんな彼が小国に等しい宋に従える理由は無いのである。だが、楚の成王には強かさがある。
この会盟で宋の襄公の要求に同意したのである。それを見て、宋の襄公は頷く。楚の成王からすれば実に滑稽であった。
会盟が終わった後、目夷は呟いた。
「小国が大国と盟を争えば禍を招く。宋は滅ぶだろう。滅びを遅くすることができれば、それだけでも幸いなことだ」
名臣とはもっとも早く国の滅びを予見できる。ここに名臣であるが故の不幸がある。
春、魯に大旱が起こった。
魯の僖公は雨乞いを巫女を呼び、させていたがちっとも雨が降らないため、巫女を焼き殺すことで雨を降らそうとした。
残酷な行為だが、古代よりこの風習はあったようで常識に近かった。それを諌めたのは臧孫達である。
「それでは旱の対策にはなりません。城郭を修築し(飢饉に乗じて攻撃してくる敵に備える必要があるため)、飲食を節約し、農業に励み、施しを行うことこそ、今やるべきことなのです。たかが巫女に何ができるでしょうか。天が巫女を殺そうするのであれば、始めから産み出すことはないでしょう。また、もしも巫女の類に旱を起こす力があるのであれば、焼き殺してしまえばもっと被害を大きくするのではないでしょうか」
この彼の言葉に納得した僖公はこれに従った。結果、この年、食糧難ではあったが国に被害はなかった。どんな自然現象による災害が起きようともしっかりとした対策と準備を行えば被害を最小にすることはできるのである。それを彼は知っていた。
これが臧孫辰の数多くの功績の一つである。




