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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第四章 天命を受けし者

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覇者とならんとする者

 紀元前641年


 宋の襄公じょうこうという人は責任感が強い人物である。その責任感の強さをもって斉の桓公かんこう管仲かんちゅうに信じられ、斉の孝公こうこうの後見人に選ばれたのである。


 故に襄公は桓公亡き後の状況を大いに憂いた。そのため彼は斉の動乱を積極的に収め、諸侯の混乱をなんとか鎮めようとした。


 そんな中、鄭が楚に奔ったことを知らされた。


(楚に奔る諸侯が出てくるとは……)


 楚は所詮、蛮族であるという見方は彼にはある。


(斉君がご顕在であればそのようなことは許されなかっただろう)


 しかしながら斉の孝公にはもはや諸侯をまとめる力は失っているため、諸侯の盟主にはなれない。だが、楚の脅威には諸侯をまとめる盟主が必要である。


(私がやるしかない)


 斉の動乱を鎮めたという実績が彼に自信を与えている彼は斉の桓公の代わりに諸侯をまとめる盟主になることを決めた。


 三月、彼の元にとう宣公せんこうが楚に近づこうとしているという話が届いた。


「これ以上、楚に奔る諸侯を出してはならない」


 彼はそう言うと滕に出兵することを決定した。


 それを目夷もくいが止める。


「主公よ。滕君が楚になびこうとしているのは真偽の沙汰がはっきりしておりません。無闇に軍を動かすわけにはいけません」


 目夷の諫言を彼は聞き入れることは無く、滕へ出兵し宣公を捕らえた。


 宣公を捕らえた彼は他の諸侯が楚になびくことを恐れ、楚に近い東夷をまとめることを考える。


 六月、宋の襄公は会を開き、曹の南の地で曹、邾と盟を結んだ。しかしながらこの会に鄫も参加する予定であったが遅れ、ちゅうの地で盟を結んだ。


 この鄫に態度に彼は舐められたと感じ、邾の文公ぶんこうに鄫君を捕らえ、殺すよう命じ、滕の宣公も殺すとその遺体を次睢の社(淮水沿いにある土地神の祠で、東夷に祀られていた)の祭祀で用いる犠牲として捧げた。


 鄫君と滕の宣公を犠牲として捧げることによって東夷に武威を示そうとしたのである。


 これを止めようと目夷は何度も諫言したが、彼が聞き入れることはなかった。目夷は天を仰ぎ言った。


「古の祭祀では六畜(馬・牛・羊・豚・犬・鶏)を共に用いず、小事(小さい祭祀や行事)に大牲(大きな犠牲)を使うこともなかった。人を捧げるなどもっての外である。祭祀は人のために行うものであり、民は神の主だ。それにも関わらず、人を犠牲にして何の神を祀るのか。斉の桓公は三つの亡国(慶父によって内乱が起きた魯および狄に滅ぼされた邢と衛のこと)を諸侯に復国しても、天下の義士はまだその徳が薄いと非難した。ところが今、主公は一回の会盟で二国の君(滕の宣公と鄫君)を虐げ、淫昏の鬼(次睢の社。妖神だったらしい)を祀る犠牲に使った。霸を求めてもその実現は難しい。まともな死を得ることができるのであれば、それだけでも幸せなことだ」


 宋の襄公の行為は完全に裏目に出ることになった。このことを知った曹が宋から離れ始めたためである。宋のやり方に残酷さと傲慢さを見たためである。


「曹を攻める」


 だが、そのことを反省するということができないのが宋の襄公である。自分のやっていることは正しいという傲慢さがここにある。そんな彼を目夷は諌める。


「かつて周の文王は崇侯・の徳が乱れていると聞き討伐しましたが、三旬(三十日)攻めても降すことができないでおりました。そこで兵を還し、教化を行い、徳を修めて再び討伐しますと文王が営塁を築いただけで崇は投降したと言います。『詩経(大雅・思斉)』にはこう書かれています。『妻の前で范を示し、兄弟達の模範とならん。このようであれば家と国を治めることができるだろう』今、主公の徳は完全ではありません。それなのに人を討伐して如何にすると申せられますのか。まずは己の徳を反省し、欠陥がなくなってから動くべきではありませんか?」


 しかし、宋の襄公は彼の言葉を聞き入れず、そのまま曹に侵攻したがそれほど成果を得ることはなかった。









 一方、衛は邢に侵攻した。昨年、邢が狄と共に衛の菟圃に攻め込んだことに報復するためである。


 当時、衛は大旱に襲われており、戦を行える状態ではなかった。衛の文公ぶんこうは山川の祭祀を卜うと不吉と出た。


 それを見て、報復を考えていた文公は戦を今年の侵攻をやめようと考えたが甯速ねいそくが進言する。


「かつて、周に飢饉が襲った時、商に勝って豊作となりました。今、邢は無道で諸侯には伯(覇者)がいません。天は衛に邢を討伐させようとお命じになっているのではないのでしょうか?」


 文公は彼の意見に頷くと邢に侵攻し、勝利した。すると衛に雨が降り出した。


 天の意思に従えば、祝福を受け、逆らえば災いが起きる。


 それが当時の考えであった。それを踏まえて、宋の襄公は天の意思に従っているのかと言えるのかどうか……


 少なくとも陳の穆公ぼくこうは宋の襄公のあり方に反感を覚え、斉の桓公の頃の友好を再び結ぶため、会盟を開いた。


 しかし、陳はそれほど大国とは言えず、会盟を開くような力は無いように思える。つまり、史書では陳が主導に行われたこの会盟の裏で陳を支援した存在がいる。


 冬、この会盟に魯・陳・蔡・楚・鄭・斉が斉で会盟を行った。


 この会盟で、楚が参加した諸国に影響をもたらした。楚こそが恐らくこの会盟の本当の主導者であろう。


 斉の桓公という覇者を失った諸侯をまとめようと宋の襄公、楚の成王せいおうが覇者とならんとし、武威を示そうとしていた。故にこの二国の対立は大きくなっていくことになる。













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