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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第四章 天命を受けし者

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蛆虫が湧く

 紀元前643年


 春、斉は徐と共に英を攻めた。二年前の婁林の戦いへの報復である。


 この時、軍中にいた斉の桓公かんこうは不快な表情を浮かべていた。


「魯が勝手に項を滅ぼしただと」


 彼はいらついた。ただでさえ自分たちが引き上げた後に淮夷を討伐したことも不快であったのに、勝手なことをした魯を許せなかった。


「魯め……魯君はまだ、帰国していないのだな」


「はい、左様でございます」


 桓公の問いに臣下が答える。


「良し、項に行き、魯君を捕らえる」


 彼はそう言うと軍を率いて項へ向かった。








「斉より使者が参っただと」


 項を攻め滅ぼしたため直接、慰撫していた魯の僖公きこうの元に斉が使者を出してきた。


「通せ」


 彼がそう言うと兵は使者を案内してきた。使者は拝礼を行うと書簡を取り出し、開くと言った。


「此度の項を勝手に項を攻め滅ぼしたことに我は大いにこれに憤る。盟主としてこれを見逃すわけにはいかない。すぐさま出頭せよ」


「なっ、それはおかしいではありませんか」


 公孫敖こうそんごうが食ってかかろうとすると僖公がこれを止める。そして、使者に拝礼し言った。


「承知したと斉君にお伝えください」


 彼の言葉に使者は頷くと僖公を連れ、桓公の元に戻っていく。


「どうすれば良いだろうか」


 公孫敖は臧孫辰ぞうそんしんに問うと彼は答える。


「国に戻り、奥方様に君をお返しすることを願い出ましょう」


 僖公の妻は声姜せいきょうと言い、桓公の娘である。


「娘の言葉であれば斉君も聞くだろうか?」


「それはわかりません。ただ、それに賭けるしかないでしょう」


 彼は憂いを秘めた表情で言った。










 夏、晋の太子・ぎょが人質として、秦に入った。それに対し、秦は河東の地を晋に返し、更に太子に娘の懐嬴かいえいを嫁がせた。


 しかしながら圉(人に制御されるという意味がある)とは変わった名前であるが、妹もしょうとこれまた変わった名前である。このような名前がついたのには理由がある。


 晋の恵公けいこうが亡命して梁にいた頃のことである。梁伯りょうはく梁贏りょうえいを彼に嫁がせ、梁贏は妊娠したのだが、予定日を過ぎても子が産まれなかった。


 流石に心配になった梁伯は卜の名人で有名であった卜招父ぼくしょうほとその息子を呼び卜わせた。すると息子がこう言った。


「奥方様は一男一女をお産みになります」


 続けて卜招父が言う。


「男は人臣となり、女は人妾となるでしょう」


 はっきり言えば不吉な卜である。特に恵公の息子は太子であるため彼が人臣になるということは、国が亡ぶか人質になるということである。


 しかしながらこの時代の考え方では卜で不吉な卦が出た時、あえて不吉な名をつけて、それを防ぐという考え方があった。


 そこで産まれてきたに男児は圉と命名され、女児は妾と命名したのである。


 だが、わざわざこのような名にした二人の子だが、成長すると結局、圉は秦の人質となり、妾は宦女(侍女)になることになった。










 秋、魯の僖公を解放してもらうため、臧孫辰は声姜に斉に出向き、説得してもらいたいと乞うた。


「わかりました。父を説得してみましょう」


「感謝いたします」


 彼は頭を下げると共に斉に向かった。


 斉の卞という地で桓公に会い、声姜は説得した。


「私は斉と魯の友好のために嫁ぎました。それにも関わらず、父上は夫を捕らえ、処罰しようとしております。これは斉と魯の友好を損ねる行いでございます。願わくば、夫を解放していただきたい。もし、これを受け入れなければ私は国母として別の者を国君としなければなりません。新たな魯君が父上に従うかどうか不明であるのに今、友好的な存在であります夫を解放しないのは国にとって不利益をもたらすのではありませんか?」


 しばらく桓公は黙っていたが、頷くと言った。


「良かろう。魯君は解放する」


「感謝いたします。父上」


 こうして僖公は解放された。


「良くやってくれた臧孫辰よ」


 彼の手をぐっと握る。


「いえ、奥方様のおかげでございます。私は何もしてはおりません」


 謙遜する臧孫辰に対し、僖公は首を振る。


「いや、汝のおかげで私はこうしていられるのだ」


 そこまで言うと彼は顔を厳しくして言った。


「臧孫辰よ、実は話がある」


「何でしょう?」


「国に戻ったら、兵の準備をしてもらいたい」


「何故でしょうか?」


 彼は目を細めていった。


「恐らく、斉で乱が起きる」


「乱でございますか」


「ああ、それも大乱だ」


 僖公は囚われている間、桓公やその配下の者たちを観察していた。彼らを見て、乱が起きると直観したのである。


「斉君が亡くなった後、斉は相当に荒れる。それための備えをしたい」


「承知しました」


 彼は拝礼を行い、答えた。そして、頭の中で斉が頼りにならなくなった後の外交を考え始めた。












 十月、斉に乱が起きた。


 乱の経緯について、説明する。


 斉の桓公には夫人(正室)が三人いた。王姫おうき徐嬴じょえい蔡姫さいき(彼女は離婚している)である。しかしながら彼女らとの間には子は産まれなかった。


 だが、桓公は色を好み、愛妾も多くいた。その愛妾との間に子が産まれていた。


 長衛姫ちょうえいきとの間には公子・武孟ぶもうが、彼女の妹である少衛姫しょうえいきとは公子・げんが産まれ、鄭姫ていきとの間には公子・しょうを、葛嬴かつえいとははんが産まれて、密姫みつきとは商人しょうにんを産み、宋華子そうかしとは公子・ようが産まれている。


 桓公と管仲かんちゅうは公子・昭を太子に立て、宋の襄公じょうこうに後見役を託していた。


 そんな中、易牙えきが竪刁じょちょうは長衛姫に信頼され寵愛されており、彼らは公子・武孟を後継者に立てるように桓公に進言し始めた。


 桓公もまた、彼らを寵愛していたため、これに同意したのである。


 だが、桓公がそうする前に管仲が彼らを追放させたため、正式に公子・昭は太子の座を降りることはなかった。しかし、管仲が亡くなると追放された彼らは戻ってきた。


 これにより、公子・昭は廃されるかと思われたが、ここで桓公は曖昧な態度を取り出す。いつの時代も後継者を決める時、曖昧な態度でいると乱が起きるもの。


 この曖昧な態度により、国君になれるのではないかと思った公子・昭以外の五人の公子は徒党を組み、桓公が病に倒れ、指一本まともに動かせなくなっていくと彼らは後継者の座を目指し激しく争い始めた。


 この間、桓公は寝室に放っておかれており、桓公は飢えを訴えると侍女がやって来た。


「何故、料理が運ばれ来ないのだ」


「今、公子方が後継者の座を巡り、争っております。易牙、竪刁、公子・開方かいほうがこれに参加し、道を塞ぎ、物資の動きを停滞させております。故に料理どころか食料しかありません」


 彼女はそう言うとその場を立ち去った。桓公は涙を流しながら言った。


「ああ、聖人(管仲)の言とは優れたものであった。死者に知覚がなければ良いが、もしも死者に知覚があるならば、私はどの顔をして地下で仲父に会えばいいのだろうか」


 後悔先に立たず、その後、桓公の寝室にやって来る者はおらず、餓死した。また、その死はしばらく誰も知ることはなく、彼の体から蛆虫が湧く約一か月後まで誰にも気づかれることはなかった。


 これが春秋五覇の一人で、覇者として諸侯をまとめていた男の最後である。


 彼は鮑叔ほうしゅくを信じることで国君となれ、管仲を信じたからこそ覇者になれた。それにも関わらず、彼は彼らの死後、彼らの言葉を信じず、愚かな佞臣の言葉を信じた結果、このような結末と相成ったのであった。


 公子・昭は五公子たちとの争いに敗れ、宋に逃亡した。そして、易牙、竪刁は公子・武孟ぶもうを擁立した。


 だが、これで乱が収まったわけではなく、大国であった斉は大きく、その力を失っていくことになる。
















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