管仲
春秋時代を通して、最高の宰相は誰かという問をされた時、この時代の者たちは一様にこの名を上げるだろう。
管仲であると……
そんな最高の宰相を讃えられた管仲は遂にその生涯を終えようとしていた。
斉の桓公が病のため横になっている管仲の元にやって来て聞いた。
「仲父よ。汝の病は重くもはや隠すこともできない。汝が去った後、誰に政治を担わせるべきだろうか?」
だが、この問に管仲は答えない。そのため桓公は言った。
「鮑叔はどうだろうか?」
横になりながら管仲は首を振る。
「鮑叔は君子です。彼は千乗の国(大国)でも、正当な道から外れて彼に与えようとしても彼は受け取らない男です。私の後を継ごうとはしないでしょう。しかし、そんな彼を無理に政治を任せてはなりません。彼は善を好み悪を嫌いますが、悪を嫌う事において、度が過ぎるところがあります。一つの悪を見つけたら一生忘れることのできない男です。故に政治を担わせてはなりません」
政治は正しさだけでは運営できないそれを管仲はよく知っている。
「ならば誰が良いのか?」
「隰朋ならば良いでしょう。彼は知識を好み、虚心になって下の者に尋ねることができます。徳を他者に与えることのできるのを仁、財を人に与えることを良と申します。善行によって人を制しようとすれば人は心服しませんが、善行によりて人を養おうとすれば、服さない者はいません。国を治める際には知る必要のない政事と申しますことがございます。また、家を治める時も知る必要のない家事もあります。これができるのが隰朋なのです。また、彼は家にいても公事を忘れず、公事にいても家を忘れず、君に仕えれば二心を持たず、しかも自身を大切にすることもできます。かつて彼は国財を用いて道を家とする難民五十家を援けましたが、誰も彼のおかげであることを知りません。これは大仁というものです。これができるのが隰朋なのです」
彼の言葉に頷くと桓公は再び問いかけた。
「不幸にも仲父を失えば我が国の大夫で国を安定させることができるだろうか?」
「鮑叔牙は実直を好み、賓胥無は善を好み、甯戚は能事があり、曹孫宿は弁舌に優れております。彼らを上手く用いれていれば大丈夫です」
管仲は四人の大夫を挙げた。
「確かにこの四人のうち一人を得るのも難しいものの、私は四人とも臣下としている。されど国を安定することはできているとは言えない。それはなぜだろうか?」
「鮑叔は実直過ぎるため、賓胥無は善を好みすぎるため、融通がききません。甯戚は能事ですが、適度なところで止まることができません。曹孫宿は弁舌ですが、失敗すれば沈黙してしまいます。彼らは技量に粗があります。消長や満ち欠けの形成に従い、百姓と共に臨機応変に柔軟な判断をすれば、国を安定できると申します。隰朋にはこれができます。隰朋は、行動する時には必ず自身の力量を把握し、事を起こす時には必ず自身の技量をわきまえることができるからです」
ここまで言って彼はため息をつき、呟く。
「天が隰朋を現に産んだのは、この私の舌とするためだ。身が死んで舌だけが生きることはないだろうな」
「うん、何か言ったか?」
彼の呟きは小さく、桓公に聞こえてはいなかった。
「いえ、なんでもありません」
そう言うと彼は話題を変える。
「江と黄の両国は楚からは近く、我が国からは遠方にございます。私が死んだら両国を楚に服属させてください。もしも楚に譲らなければ、楚は必ずこの両国を併吞しようと軍を動かします。楚が併吞しようとすれば我が国は両国を援けなければなりません。両国を援けるために楚と戦ったら禍乱が始まることでしょう」
「わかった」
桓公は頷くと管仲の部屋を出た。
後日、桓公は再び、管仲の元に出向き、訪ねた。
「仲父の病はますます重い。私に言い残したことはないだろうか?」
管仲は少し、言うか迷ったが言った。
「主公が私を訪ねて来なくとも、私には話すべきことがありました……しかしながら私はそれを聞き入れないのではないかと心配しており、言い出せませんでした」
桓公はまるで心外という表情をして言う。
「仲父が私に東に行けと申せば私は東に行くだろう。私に西に行けと申せば私は西に行くだろう。私は仲父の命に逆らうことはない」
桓公の言葉を聞き、管仲は寝所から立ち上がり、衣服と冠を正して坐り、言った。
「東郭(東城)に犬がおり、いつも牙をむき、人を噛もうとするため、私はこれを繋いで自由を奪いました。主公の寵臣・易牙は美食を提供することで主公に仕えています。されど主公のために自分の子も犠牲にしました。自分の子を愛することもできない者が主君を本当に愛することができるでしょうか」
易牙は桓公に仕える料理人で、その腕前は中々のものであった。しかしながらある日、桓公が食べたことのないものを食べたいと言ったことがあった。
そこで彼は息子を蒸したものを出したことがあった。
「北郭(北城)に犬がおり、いつも牙をむき、人を噛もうとするため、私はこれを繋いで自由を奪いました。主公は女色を愛しすぎるために宮内の嫉妬を招いていました。そこで竪刁は自ら刑を施し(去勢するということ)主公に仕え、宮内を管理しました。竪刁は主公の寵臣となりましたが、自分の身体を愛することもできない者が誠に主君を愛することができるでしょうか?」
桓公には愛姫が多く、彼は女色を好むところがあった。そのため、女たちは桓公の寵愛を受けようと争うことも多くなかった。
そんな宮中をまとめたのが竪刁であった。
「西郭(西城)に犬がおり、いつも牙をむき、人を噛もうするため、私はこれを繋いで自由を奪いました。主公の寵臣である衛の公子・開方は衛の公子という地位を棄てて主公に臣事しました。彼は主公に仕えることで衛で過ごすよりも大きな利益を欲しているのです。また、彼は十五年も自分の国に帰国していません。斉と衛は近く、帰国するにもそれほど日数を要しないのに、親族を愛そうとしません。親族を愛することができない者が本当に主君を愛することができるでしょうか」
開方という男は衛が滅亡に瀕した際、斉に逃れると桓公の元に控えるようになり、甘言ばかり述べている男である。
これら三人は皆、桓公からの寵愛を受け、それを利用して、権威を得ようとしているのである。そんな彼らを押さえつけていたのが、
「嘘偽りは長続きせず、真面目に生きない者は終わりを全うできないと申します。主公は彼等を遠ざけるべきです」
桓公は少し悩んだ後、答えた。
「仲父の言葉に従おう」
「ご英断でございます」
その後、桓公は退出すると、桓公は再び横になった。
「主公は私の言葉に本当に従うだろうか……主公は……私の言葉をよく聞いてくださる方だ。きっと……従って下さるはずだろう……そうであってもらいたいものだ……」
彼は目を閉じる。すると今まで歩んできた人生の記憶が蘇ってきた。
実家の貧しさに苦しみ、兄と対立した記憶。
貧しさから脱して、偉くなろうと必死に学問に打ち込む記憶。
生涯の友となる鮑叔と共に旅をする記憶。
(鮑叔とは国のことをよく話したものだ……彼と共に商売をしたこともあったな)
そんな彼と共に斉に仕えた。しかし、ここで運命の悪戯というのだろうか。それぞれ別々の公子に仕え、後継者争いをすることになった記憶。
(糾様、あなた様に仕えたというのにあなた様を国君とすることができなかったこと申し訳ない。召忽、あなたとはもっと話し合うべきであったな)
公子・糾と召忽と過ごした日々の記憶。
桓公に矢を射て、殺害できなかった記憶。
そして、争いに敗れた自分を宰相に任じた時の記憶。
(宰相となってからはあっという間であったな)
魯との対立。国政改革。人材探索。諸侯との外交。楚との戦い。
(様々なことがあったものだ)
大変な思いをいくつもしてきた。
(だが、それ以上に楽しいことも多かったものだ)
桓公という名君に会い、鮑叔という生涯の友と出会った。
(私の人生は良きものであった)
彼は笑った。そして……しばらくして、息を引き取った……
管仲は桓公を覇者として押上げ、春秋五覇の一人に数えさせた名臣であり、政治においては多くの改革を行い、国民の生活を豊かに変えた。
そして、楚と戦い、一歩も引くこともなく、斉だけでなく。中原の諸侯たちに安定をもたらし、彼のあり方は常に弱者の味方になろうとするものであり、弱者に寄り添った政治を行った。
弱者を労わり、慈しむこと。それを人は仁と言う。
管仲とはまさしく仁の人であった。
彼ほどの宰相は以後、現れることはない……




