天よりの下賜
「食料を燃やされたか……」
放浪の身としては痛い状況である。
「申し訳ございませぬ」
賈佗は膝をつき、謝る。
披らとの戦いに際して、最後に火矢を放たれ燃やされてしまったのである。
「賈佗に怪我がなくて良かった」
「勿体無きお言葉でございます」
彼は深く頭を下げる。
「主よ。衛君に食料を求めるためにも急いで衛に入りましょう」
狐毛が重耳に言った。
「では、急ごう」
重耳らは衛に急いで向かった。
「お断り致しますとのことでした」
「何故ですか」
衛の都の門にて、重耳らは衛の門兵に詰め寄る。
「私は上からの言葉を伝えただけです」
「貴様、この方を晋の公子と知っての言葉か」
苛立ちを表わにする魏犨に対し、兵は冷眼を向ける。
「晋の公子と言えども主の許可が無ければ食料をお渡しすることも城に入れることもできません」
そう言って、取り合わなかった。
「てめぇふざけたことを言うんじゃねぇ」
「止さんか、顛頡」
今にも飛び出して、兵に襲いかからんとする顛頡を先軫が止める。
「仕方ありません。ここを離れましょう」
狐偃がそう言うと苛立ちながら重耳は頷き、衛の都を離れることになった。
「狐偃殿、衛君は英主ではなかったのではなかったのか」
怒りが抑えられない顛頡は言う。
「止せ、顛頡」
魏犨が彼をたしなめるが、狐偃は彼に同意するように重耳に頭を下げる。
「衛君の器量を見誤りました私の責任です」
「謝らなくとも良い、狐偃よ」
重耳はそう言うが、その表情は暗い。
「しかし、衛君から食料すら援助してもらえないとなると、どうするべきか?」
「取りあえずは斉に向かいましょう。斉君ならば保護してくれることでしょう」
狐毛が進言する。彼の進言に狐偃や趙衰が同意する。
「それしかないか……良し、斉に向かおう」
重耳は拳を握って言った。
斉に向かう重耳一行は東へ進んだ。しかしながら、食料を燃やされたことで食料を失い、衛からの援助もうけることができなかったため、深刻な食料不足に陥っていた。
「このままでは飢え死にしてしまう」
「我慢せよ、顛頡」
飢えのため苛立っている彼を狐毛がたしなめる。
「しかし、狐毛殿。このままでは限界が来てしまいますぞ」
いつもは顛頡をたしなめる方が多い魏犨も苛立ちを表わにしていた。それだけ食料がないとも言える。そこに賈佗が駆けてきた。
「この先は五鹿という地で、村も近いそうです」
「そうかご苦労。主よ。その村で食料を分けてもらいましょう」
狐毛がそう言うと重耳は静かに頷いた。声を出せないほど疲労が溜まっていた。
「では、行きましょう」
彼らは村へ向かった。
「お断りします」
そう言って、村人は扉を閉める。
「これで四件目か……」
先軫は暗い表情を浮かべながらため息をつき、皆の所へ戻ると皆も同じように暗い表情を浮かべていた。
「だめです。誰も食料を分けてくれません」
「こっちもです」
「連中、誰も食料を分けてくれんぞ」
苦労して、村に辿り着いた重耳たちであったが、村の住民たちは食料を分けようとはしなかった。
「主は晋の公子なのだぞ、それなのに食料を分けないとはどういう了見か」
かっかする顛頡だが、それを皆、たしなめようとはしなかった。それだけの元気ももはや失われていたのだ。
だが、そこに魏犨が駆け込んできた。
「主よ。こちらへ食料を分けてくれるようです」
「真か」
彼の言葉を聞き、皆に笑顔が戻る。
「天は私を見捨てはいなかったか」
重耳は涙を流し喜んだ。
「魏犨、どこだ」
「こっちです」
彼にぼろぼろの家へ案内された。
「主人よ。先ほど来たものだ。食料を分けてほしい」
魏犨の言葉に答えて、家から男が出てきた。
「へい、へい、分かっておりまする」
男はお椀を取り出し、彼に渡した。だが、お椀の中に入っている物を見て、魏犨は呆気にとられた。
「これは何の冗談だろうか?」
お椀の中に入っているのは食料の類ではなく、土くれであった。土くれを食うことなのど人にはできない。
「あんたらにはこれでいいだろ」
男はそう言うと、勢い良く、扉を閉めた。
「おのれ、許さん」
この男の態度に真っ先に激昂したのは重耳であった。彼は鞭を手に取り、男の家に入って男を打とうとした。
「主よお待ちください」
「左様、落ち着かれよ」
狐偃と趙衰が彼の手を掴み、止めようとする。
「止めるな、流石の私もこれには我慢ならん。離せ」
重耳は二人を強引に剥がそうとし、周りの者はあまりの彼の剣幕に驚いていた。
「これは天が主に下賜したものなのです」
そんな彼に趙衰は言った。
「それはどういう意味だ」
激昂していても重耳という人は冷静に言葉の意味を汲み取ろうとするところがある。それに続いて狐偃が言う。
「趙衰の申す通りです。これは天が主に下賜したものなのです。民が人に土を献上するのはその人への服従を意味しております。これ以上、何をお求めになる必要がございましょうか。天が定めた事には必ず象(予兆)があります。恐らく十二年後にこの地を得ることができるでしょう。歳星が寿星と鶉尾に来た年(本年)、我々はこの地の土を手に入れました。天がその命を明らかにしたからです。再び歳星が寿星に至った時(十二年後のこと)、必ず諸侯に擁戴されることになりましょう。天道(天の道理)は十二年で一巡するのです。天命はこの塊から始まったので、この地を得るのは戊申の日でしょう。戊は土を象徴し、申は土地を拡大することを意味するからです」
狐偃の言葉を聞き、重耳は鞭を離し、暴れるのをやめた。
「これが天の意思だと言うのか……」
目の前にある土の塊をじっと見つめ、やがて土の塊に稽首して手に取ると車に乗せた。
「私は天命に従う。行こう斉へ」
彼の言葉に皆、拝礼し、村を出た。
この時の衛でのこの出来事は余程辛かったためか、重耳はやがて国君になると狐偃の言う通り、衛を攻め、土地を得ることになる。
ならば、その事態を招いた衛の文公は果たして愚かだったかと言うとそうではない。
重耳たちが衛にやって来た時、衛は一度滅ぼされた際の爪あとが残っており、彼らに援助する余裕が無かった。そもそもそんな余裕が無いのに他国の者を優先すれば国民から非難されることになる。
もう一つ、彼らを援助しなかった理由としては彼が晋の公子でしかも今の晋の恵公に恨まれていることであろう。
ただでさえ復興中の衛において、無用な火種を国に持ち込みたくはなかったのである。
そう言ったことを考えなければならないのが歴史を見ることの難しさであろうか。歴史は勝者と作者の視点で書かれる。そこにはほんの少しの嘘と贔屓があることを忘れてはならない。
しかしながら、せめて重耳に対して、休む場を設けるなどの多少の配慮が必要であったのではないか……そのように思った者がいる。
正卿の甯速である。彼は文公に諫言した。
「礼とは国の綱紀であり、親(親しむこと)とは民を結ぶものであり、善とは徳を建てるものです。国に綱紀がなければ良い結果がなく、民が団結できなければ固まることができず、徳を建てなければ大事を成すことはできません。この三者を慎んで行うべきです。晋の公子は君子であり、衛の親族でもあります(晋も衛もどちらも周から別れ、姫姓である)親族に対して礼を用いないのは、三徳(紀・親・善)を棄てることになります。康叔(衛の祖)は周の文王の子であり、唐叔は周の武王の子にあたります。周の大功は武王によって成し遂げられたため、天祚(天の保護)は武王の子孫に与えられます。姫姓が周室を保つことができ、天から与えられた財富を守るのは必ず武王の子孫です。子孫の中では晋だけが栄えており、晋の子孫の中で、最も公子(重耳)に徳があります。今、晋国内には道がありません。天は徳がある者を守るもの。そして、徳が最もあるのが公子であるのならば晋の祭祀を受け継ぐことができるのは公子になりましょう。公子が帰国して徳を修め、その民を鎮撫いたしましたら、諸侯を得て覇者になります。その時、晋は無礼な国を討伐しようとするでしょう。主君が早く対応を考えなければ、衛は晋に討伐されるでしょう。私はそれを恐れ、こうして意を尽くして進言いたしました」
しかし、文公はこれを聞き入れることはなかった。
今の弱者が重耳だとすればかつて、滅亡の危機に瀕していた衛を救った斉の桓公の度量に比べると衛の文公の度量は少々劣るかもしれない。
さて、衛を出て、斉に向かう重耳一行だが、この時、斉では巨星が落ちようとしていた。




