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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第四章 天命を受けし者

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放浪の始まり

 忌々しい慶鄭けいていを殺した晋の恵公けいこうだが、韓原での戦いで相当な挫折を味わったのか政治を行うことに自信を失っていた。


 そのため彼は己の地位がいつ、脅かされることになるのかと恐れ、郤芮げきぜいを招き言った。


「余の地位を安定させるにはどうすれば良いのだろうか?」


「主公の地位を脅かすのは公子・重耳ちょうじでございましょう」


 恵公は目を細める。彼にとって兄・重耳は凡人であり、何も恐れるべき存在ではないと幼き日から思っていた。だが、人々の信望を集めているのは自分ではなく、兄・重耳である。


(なぜ、あのような凡人に……)


 彼にはそのことが理解できない。しかしながら現実はそうである。


「重耳を除きたい。誰に任すべきか?」


「寺人・にお任せすればよろしいかと」


「汝に任せよう」


 郤芮は拝礼し、部屋を出た。彼が去った後、恵公は一人呟く。


「私こそが国君であるべき者なのだ。兄などにこの地位を渡してたまるか」















「今日も良い天気であるな」


 太陽に照らされながら重耳は言った。


 彼が狄に奔ってから足掛け十三年である。この地での生活に充実し、公子の身分などは忘れていた。


「左様でございますね」


 彼の後ろからそう話しかけたのは季隗きかいといい、重耳の妻である。彼女との間には伯儵はくしゅう叔劉しゅくりゅうが産まれている。


「天気が良いと気持ち良いものだ」


 重耳は彼女に微笑みながら言う。そんな彼に彼女もまた、微笑み返す。


「失礼します」


 そんな二人の元にほっそりとした体の持ち主で太陽の光があたっても暗いと感じさせる男がやって来た。この男の名は趙衰ちょうしという。


「おお義兄上か、どうかしたか?」


「公子様。私のことは趙衰とお呼びください」


「そうはいかん。汝は我が妻の姉を娶っているのだ。義兄上と呼んで問題なかろう」


 季隗の姉は叔隗しゅくかいという。彼女は趙衰に嫁いでいた。


「されど私は一臣下に過ぎません。主に義理とはいえ、兄上と呼ばれるわけにはいきません」


(こやつは見かけの割には頑固だ)


 そう思いながら重耳はため息をつく。


「わかった。趙衰よ。どうしたのだ?」


狐偃こえん殿が至急来てもらいたいとのことです」


「わかった。では季隗よ。少々行って参る」


「承知しました」


 季隗は微笑みながら答える。それに重耳は頷くと趙衰と共に狐偃の元に向かった。














「都に居るものより、連絡がございました。晋君がこちらに兵を向けたとのことです」


 狐偃はすっかり伸びた髭を撫でながら言った。


「なぜ、今頃になって兵を向けるのか」


「晋君は去年の韓原での戦で秦に敗れており、この戦では臣下の裏切りによって敗れております。そのため己の地位を脅かされることを恐れているのでしょう」


「私は……国君になるつもりなどないのだがな……」


「主よ。時として存在していることが恐怖となることがあるのです」


 狐毛こもうが残念そうに言った。


(私という存在が生きているから弟は恐れるのか……)


 重耳にとって弟である恵公は才気に溢れ、多くの者にその将来を期待されていた人物であり、彼も期待していた。


(そんな弟と争わなけらばならない)


「主よ。ここから離れるべきです」


「ここを離れるのか」


「例え、ここに向かっている連中を退かせたとしても今度は軍を向けてきましょう。そうなればここで防ぐのは難しいと思います」


「左様か……」


 狐偃の意見は恐らく正しいのであろう。しかし、彼はここで過ごした日々を生活を早々と手放すのに躊躇した。


「ここには妻がいる」


「あなた様は公子であり、あなた様が国君に成られる方であると思い、我らはここまで従って来ました。されどあなた様はたかが女一人にのために死を選ばられるというのですか?」


 趙衰が淡々と言う。


「主よ。我らはあなた様を国君と成られる姿を夢見、己の才と知識をもって、言を申し上げています。そして、今回の狐偃の言はその最たるものでございます。願わくば狐偃殿の意見を採用していただきたい」


 彼を始め皆、重耳を見る。


(私は……恵まれているな。このような臣下がこんなにもいるのだから。こんな素晴らしい彼らにどのように報いるべきか)


 その答えは既に知っている。


「狐偃の申す通り、ここを離れよう。して、どこに行く」


「まずは安定している衛に向かいましょう」


 狐毛が提案する。


「よし、衛に行こう。出発はいつが良かろうか?」


「明日が良いかと」


「私も狐偃殿の意見に賛成します」


 狐偃と趙衰の意見に彼は頷く。


「では、出発は明日とする。準備を始めてくれ」










 翌日、重耳ら一行は出発しようとしていた。それを季隗らが見送る。


 重耳は彼女に近づくとこう言った。


「私が二十五年待っても帰って来なければ改嫁せよ」


 彼の言葉に季隗は笑うと返した。


「私は今年で二十五歳になります。更に二十五年待ってば木(棺)になってしまいましょう。私はあなた様の帰りをお待ちしております」


 彼女の言葉を聞き、重耳もまた、微笑む。


 それを少し、遠くで聞くのは趙衰と叔隗である。


「あんたの主は二十五年待ってくれってさ。私は何年待てばいいかい?」


 彼女は当時の女性の中で変わり者である。


「さあ、何年であろうか……私は主にどこまでも従うだけであるからな」


 彼女の軽口に趙衰はそう答える。


「そうかい、なら期待せずに待つとするかねぇ」


 叔隗はからからと笑う。そんな彼女を趙衰が横目で見る。


「子を頼む」


「ああ」


 趙衰は彼女との間に産まれた趙盾(ちょうとん)のことを託し、重耳の元へ行った。そんな彼を暫し、見た後叔隗は立ち去った。


「皆、揃ったな。出発するぞ」


 こうして、重耳ら一行の放浪の旅が始まった。この旅を経て重耳を始め、同行した者たちは大きな苦難に会いながらも成長していくことになる。








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