慶鄭
「晋君よ。此度、我が君の恩情により帰国することを許された」
公孫枝が晋の恵公に対して言った。
「秦君の恩情感謝致します」
恵公は拝礼して答えた。
「帰国は翌日である。それまでお休みを」
公孫枝はそう言うとその場を離れた。すると、傍に控えていた家僕・徒が近づく。
「主公。これで帰国できますね」
「うむ、それもこれも郤芮や郤乞、呂甥のお陰だ」
恵公は安堵の表情を浮かべる。だが、その一方で恵公は吐き捨てるように言った。
「私がこのような屈辱を与えられたのは慶鄭の所為だ。絶対に許さん」
更に苛立ちながらこう続ける。
「それに姉上を嫁ぐ際に不吉と出ていたとか、それにも関わらず先君は姉上を嫁がせている。先君が占いに従っていればこのようなことはなかったであろう」
この話しは本当のことである。しかしながら恵公の身を案じ、己の命を引き換えに恵公を守ろうとした穆姫に対してこのようなことを言えるところに恵公という人間の愚かさがわかる。
そんな恵公に対して家僕・徒は何も言わなかった。
恵公が帰国することは晋に伝えられた。そのため大夫・蛾析が友人である慶鄭に言った。
「主君が囚われたのはあなたに原因があります。そして、今回帰国なさるとのこと、あなたはなぜ逃げないのですか?」
遠まわしに逃げろという意味がある。彼は友人想いである。だが、慶鄭は首を振り答えた。
「『軍が敗れたら軍のために死に、将が捕まれば将のために死ぬ』という。だが、私はどちらも行わなかった。しかも国君を援けようとした者を妨害したため、国君は捕虜になってしまった。これら大罪を私は三つも犯したのに、どこに逃げろというのか。そもそも、国君を敗戦に追いこみ、敗れさせながら死なず、刑を受けない。これでは臣といえない。臣でありながら臣らしくないようでは、どこに行こうとも受け入れられないだろう。国君が帰ってくるのなら私に刑を与えて国君の意志を満足させよう。国君が帰って来ないようならば私が一人で兵を率いて秦を討つ、それでも国君を得ることができなければ死ぬまでだ。これが私が逃げない理由だ。臣下が逃げて国君の意に背くのは犯(反逆の意味)である。国君が道に背いていようとも国を失うという懲らしめを受けるものだ。臣下ならなおさら刑を受けて当然ではないか」
そう言って彼は友人の言葉に従わなかった。
恵公が帰国したのは年が明けた紀元前645年の正月である。都に慶鄭がいることを知った恵公は家僕・徒を送り呼び出した。
「汝には罪があるにも関わらず、国に残っているのはどういうことか?」
慶鄭は稽首して答える。
「私は主君を怨んでいます。何故ならば主君が国に入ってから徳に報いていれば、国勢を下降させることはなく。国勢が下降してからも諫言を聞いていれば、戦を招くことはありませんでした。戦になっても良将を用いていれば敗れることはありませんでした。されど戦に敗れたのですから、罪人(敗戦の責任がある者)を誅殺しなければなりません。罪人を罰しなければ国は成り立ちません。故に私は刑を待ち、主君の政事を正すことにしたのです」
痛烈なる批判を堂々と恵公の前に述べたと言っていい。
恵公は激怒し、玉座より立ち上がるや否や、彼を指差し命じた。
「処刑せよ」
慶鄭は顔を上げて叫んだ。
「臣下が行うべきは直言することであり、上が直刑(的確な刑罰)を行うのは、国君の明というもの。臣下がやるべきことを行い、国君が英明であるのであれば国に利があります。主君が臣を処刑しないとしても、臣は自殺するつもりでした」
彼は兵に立ち上がらせられ、連行されようとした時、蛾析が待ったをかけた。
「自ら罪を認めて刑を受けようとする者は、赦して仇討に使うべきだといいます。主君は彼を赦して秦への報復のために用いるべきです」
それに反論するのは梁由靡である。
「いけません。我々が罪人を赦して仇討に用いれば秦も同じことをするでしょう。そもそも、戦に勝てないからといってこのような手段で報復するのは、武とは言えません。国を出て戦って勝てず、国に帰っても動揺を収めることができないこれでは智と言えません。講和が成立したのにも関わらず、裏切るのは信ではありません。刑罰を正しく用いず政治を乱せば威を失います。戦に勝てず国を治めることもできないようでは、国を衰退させて孺子(人質として秦に行くことになった太子・圉)を殺すことになります。刑を行うべきです」
彼には戦で慶鄭によって邪魔をされたという怨みもある。慶鄭を許せない存在である。
「慶鄭を斬れ。自殺させてはならない」
恵公が改めてそう命じると家僕・徒が言った。
「国君となる者は私怨を棄てることも必要です。臣下が死刑から逃げようとしなかったことは、美徳として称えるべきではありませんか。そのほうが処刑するよりも賢明ではないかと考えます」
意外にも彼は慶鄭への同情心がある。それに対してまたもや梁由靡が反論する。
「国君の制令刑律は民を治めるためにあるもの。命がないのに勝手に進退を決めるのは、制令を犯すことであり、己の満足のために国君を失うのは、刑律に背くことです。慶鄭は国を害し混乱を招いており、戦になっても勝手に退却し、逃走したのに自殺を許せば臣下を放縦にさせ、国君が刑を失うことになります。今後のためになりません」
彼は慶鄭への憎しみという私情もないわけではないが正論でもある。
「処刑せよ」
恵公の意思は変わらず、司馬・説に処刑を命じた。
司馬・説は三軍の兵を集め、慶鄭の罪を読み上げた。
「韓原の戦いにおける誓いはこのようであった。『秩序を失い軍令に背く者には死を』『将が捕えられても顔に傷がない者に死を』『虚言によって衆を誤らせる者に死を』慶鄭は秩序を乱して軍令に背いた。これが一つ目の罪である。慶鄭は勝手に進退を決定した。これが二つ目の罪である。慶鄭は梁由靡を誤らせ、秦公を逃してしまった。これが三つ目の罪である。国君が捕まったのに慶鄭の顔には傷がない。これが四つ目の罪である。よって慶鄭は処することとする」
「説よ、三軍の士がここに集まり、私は刑が行われるのを待っているのだから。なぜ顔が傷つくことを恐れると思うか。早く刑を行え」
こうして、慶鄭は斬首された。彼には国を想い、憂う気持ちがあり、それが言葉となりて恵公を諌めてきた。されど恵公は彼の言葉を用いることはなく、慶鄭を用いることはなかった。
彼はそのことに怒り、恵公に従わず、死んだのである。されどいくら怒りを覚えたと言っても臣下の道に外れた行いをさせ、戦に敗北をもたらし、多くの兵が犠牲になった。これは彼の責任であり、処刑されたのは妥当である。




