韓原の戦い
「晋の不義はとても赦されることではない」
秦の穆公は全軍に向かって、言う。
「正義は我らにある。故にこの戦は必ずや勝利するだろう。皆の奮闘に期待する」
兵士たちは穆公の言葉に腕を上に向かって突き出し、大声で答える。
「先鋒は丕豹と公孫枝とする」
「御意」
二人が揃って答える。それに頷き、穆公は自ら戦鼓を叩き、全軍に命じる。
「全軍、出陣」
戦鼓の音が響き、秦と晋は激突した。後に言う「韓原の戦い」である。
晋の恵公の軍に向かって、丕豹と公孫枝の率いる先鋒が突っ込む。
特に晋への怨みが深い丕豹の活躍は目覚しく、晋の兵を蹴散らしていく。彼らの勢いに押され、晋軍は後退していく。
それを見て、穆公は晋の兵は弱く、勝利は確実であると考えた。
そこに油断があった。
晋には良将がいないわけではないのである。その良将とは韓簡という。
彼は敢えて、恵公へ援軍を出さず、穆公に向かって、軍を突っ込ませたのである。虚を突かれた形になった穆公はそれほど焦ってはいなかった。
(晋の兵は弱兵である)
秦兵に押されまくっている晋兵を見ていればわかる。そのため彼の指揮に焦りはなく、問題はなかったはずであった。
だが、相手は韓簡なのである。彼の祖父は晋の武公と共に戦場を駆けた韓万であり、彼が磨いた軍才は孫である韓簡にしっかりと受け継がれていると言っていい。
そのため穆公の予想に反して、苦戦を強いられてしまう。
(ただの晋兵ではないのか)
穆公は油断したことに舌打ちする。
彼は必死に指揮をする。だが、韓簡の兵は強兵である。次第に追い込まれていく。
「君よ。一時、後退し先鋒部隊に救援を求めるべきかと」
御者が穆公に向かって進言する。彼としては国君である穆公をここで死なせるわけにはいかないのである。
「ならん。ここで退いてはならんのだ」
先鋒部隊は深く、恵公の軍を攻めており、優勢である。そんな彼らを退かせては折角の彼らの活躍を無駄にすることになる。
(ここは耐えなければならん)
穆公は戦鼓を叩き、兵を鼓舞する。
「度胸がある」
そんな穆公を見て、韓簡は彼を称えた。同時にここで捕らえることができれば国にとって必要であると思った。
(確実に仕留める)
更に攻勢を激しくさせる。
必死に耐える穆公だが、韓簡の兵を強さに押し負け始め、ついに己の車にまで兵が来るようになった。
穆公の車右が彼らを車から切り捨てていくが、一人の兵の矛が服に引っかかり、車右を車から引きずり下ろした。そして、よってたかって彼に襲い掛かり殺した。
御者はそれを見るや否や、車を後退させる。しかし、韓簡の兵は執拗に追いかけてくる。一人の兵が矢を放ち、その矢は穆公の腕に刺さった。
(まさか、ここで負けるのか)
秦に正義のある戦であったはずのこの戦で負ける。そのようなありえないことがあると言うのか。
(天よ。正義ある者が負けるのですか)
穆公は天を見上げ、睨む。そして、遂に兵に追いつかれると思ったその時であった。穆公を庇うように兵が現れた。しかし、彼らの姿は正式な秦兵の姿ではなく、野人に等しい姿の者ばかりであった。
彼らは晋兵に一斉に襲い掛かり、穆公を守る。
「彼らは……」
穆公には彼らの姿に見覚えがあった。
かつて穆公は岐山の近くで自分の良馬に逃げられ、岐山の麓に住んでいた野人たちにその馬を食べられるということがあった。
国君の馬を食うなどあってはならないことであるため、穆公の配下は彼らを捕らえ処刑しようとした。
それを穆公は止めて言った。
「君子というもの家畜のために人を害さないものである。良馬の肉を食べながら酒を飲まないようでは体に悪いとも言う」
そう言って彼らに酒を振舞って釈放した。この穆公の態度に感動した彼らは晋との戦に参加したのである。
彼らは穆公のために死ぬ覚悟ができており、その強さは死兵そのものであった。
それを見て、韓簡は舌打ちしつつ、配下に無理をせず攻めるよう命じた。
穆公が必死に耐えている間、丕豹と公孫枝の先鋒部隊は恵公の兵をほぼ壊滅させ、恵公を追いかけてた。
恵公は必死に逃げていたが、なんと馬が突然暴れだし、御者である歩揚は車から投げ出される。そして、馬は泥沼に突っ込んだ。それにより、恵公の車は動かなくなってしまった。
「早くここから抜け出せ」
そう言われ、家僕・徒は車を泥沼から出そうとするが、馬は落ち着かず言うことを聞かない。馬の扱いに慣れているはずの歩揚は車から投げ出されたことで頭を打ち亡くなっていた。
しかし、車を一人だけで動かすことはできない。その時、彼らに近づいた車がいた。
最初、敵将かと身構えたが、車上にいる人物を見て、ほっとした。
「慶鄭殿」
「慶鄭よ。私を車に乗せよ」
恵公は彼に向かって叫ぶ。だが、そんな恵公を見る彼の目は冷めていた。
(愚かなことだ)
慶鄭はふっと微笑すると恵公に向かって言った。
「善を忘れ、徳に背き、諫言を聞かず、卜にも逆らい私を車右にしなかった。敗北は決定的であるにも関わらず、今更、私の車に乗ってどこに逃げようというのですかな」
突然の言葉に恵公は唖然としていると慶鄭はそのまま立ち去った。
「慶鄭、貴様」
苛立ちを現わにする恵公の元に今度こそ、秦の兵がやってきた。
ここで恵公にとって運が良かったのは公孫枝であったことである。もし、ここで丕豹が来ていれば有無を言わせず、恵公を殺したであろう。
「晋君でございますな。私は秦の臣であります公孫枝でございます。御同行願いますかな」
恵公は静かに頷いた。
この時、韓簡は思わない苦戦もあったが、穆公を追い詰めており、穆公を捕らえることもできそうであった。
そこに慶鄭がやって来て、叫んだ。
「主君が敵に囲まれている。救援に行くべし」
彼の言葉に韓簡の軍に混乱が生まれる。
「急いで助けに行かねばならん」
御者を務める梁由靡が彼に進言する。
「いや、このまま秦君を捕らえる」
韓簡としては慶鄭の言葉の真偽が不明であり、穆公を捕らえる好機を逃すわけにもいかない。また……
(ここから救援に出向いたとしても間に合わないだろう)
もし、恵公が囚われたのであれば穆公を捕らえて交渉も可能である。
(このまま秦君を捕らえた方が吉だ)
「いや、私も梁由靡と同じく主君を助けるべきと考える」
車右を務める虢射がそう言う。
彼らの言葉と目を見て、韓簡はふうぅとため息をつくと言った。
「わかった。主君を助けに行こう」
こうして、彼らは救援に向かったが既に恵公は囚われており、先鋒部隊は穆公と合流を果たしていた。
結果、韓原の戦いは晋の恵公が囚われるという晋の大敗で終わった。




