晋の恵公
十一月、晋の相次ぐ裏切り行為に怒った秦の穆公は公孫枝、丕豹と共に晋へ侵攻した。
戦に出る前、穆公は卜徒父に筮で占わせると吉と出た。
「吉です。黄河を渡り、侯の車が壊れるという辞が出ました」
「どういう意味だ」
彼の言う辞が吉とは思えないからである。
「吉も吉、大吉でございます。三度破れて晋君を捕えることができます。その卦に蠱と出ており、それには千の兵車、三度駆られ、その末に、雄の狐を得るとあります。狐とは晋君のことを指し、蠱卦の下部の巽は風に当たり、上部の昆は山に当たります。秋ともなれば、こちらは風で敵の実を落とし、敵の木材を得られます。それで勝利ができると申したのです。実が落ちて、木材を奪われれば、破れるほかありません」
穆公は納得し、進軍した。
秦の先鋒を勤めている丕豹は晋との戦を大いに気合を出し、活躍した。そのため晋は占い通り三敗し、韓原にまで退いた。
晋の恵公はこの事態を憂いて、慶鄭に聞いた。
「敵が深く侵入してしまった。どうするべきだろうか?」
(この方は何を言っているのだろうか)
全て恵公の身から出た錆なのである。しかしながら彼にはそのような意識はない。
(馬鹿馬鹿しい、このような方のために意見を述べなければならないのか)
「主君が敵の怨みを深くしたのです。その進攻がこれで止まることはありません。それは私が知るところではありません。虢射にでも聞いてください」
慶鄭という人は真っ直ぐな性格であり、恵公への悪感情からこのような言葉を発したのであろう。しかし、それは恵公の神経を逆なでる行為であり、
「不遜ではないか。私は国君であるぞ」
案の定、恵公は激怒した。だが、慶鄭はどこ吹く風で謝罪することはない。恵公も慶鄭も感情的になりやすいため、このようなことになった時、折り合いをつけることが難しい。
益々恵公は怒り、彼を追い出した。その後、彼は自分の車に共に乗る車右を誰にするべきか占った。
占者は言った。
「慶鄭様が吉です」
それを聞いて、恵公は顔を歪める。
「慶鄭は不遜だ。そのような男を車右にしたくない」
そう言って、彼は車右に家僕・徒を、御者に歩揚を任命した。そして、車を牽かせる馬を鄭から与えられた小駟という馬にした。
それを知り、頭を冷やした慶鄭が諫言する。
「かつてより国の大事(戦争のこと)においては必ず自国で生まれた馬を使いました。馬はその地の水土に生まれ、その地の人心を知っているため調教しやすく、道に慣れているのでどこに居ようとも指示に従います。されど主君は他国の馬を戦事に従わせようとしています。他国の馬は恐怖すると簡単に平静を失い、指示を聞かなくなります。そして、その馬は気が荒い性格です。これは狡猾で憤っているからです。血が体中を巡り、脈が膨れあがっているのは、外は強くても中が乾いているからです。進退に窮して動けなくなるでしょう。必ずや後悔しましょう」
しかし、慶鄭に対しての悪感情を忘れることのできない恵公はこの諫言を無視した。
それを見て、慶鄭は失言であったと悔やんだが、もう遅かった。
こうして、晋軍は秦軍に向かって、出陣した。恵公の後ろを韓簡(韓万の孫)が続く、韓簡の車右を虢射が御者を梁由靡が務める。
両軍は韓原の地で対峙した。
恵公は韓簡に視察するよう命じた。少しして韓簡が戻ってきて言った。
「兵の数こそ我が軍より少数ですが、闘士は我が軍の倍おります」
「それはどういうことか?」
「主君は晋から出奔した際、秦の援けを得ました。晋に帰国した時は秦に擁立されました。飢饉の時は食糧を提供されました。このように三回も秦から恩恵を施されております。されど我々はそれに報いておりません。その罪を彼等は攻めて来たのです。それに対して、我々は迎撃しようとしています。我々がやるべきことをしないから秦は憤っているのです。彼等の闘士は我が軍の倍どころではありません」
晋と秦のどちらに正義があるのか。それを問われた時、他国の者たちは皆、秦に正義があると言うだろう。それは晋が秦の助けを借り、恩義があるのにそれに報いようとしないからである。
しかしながら恵公という人は自分のしていることは自国を大きくするための謀であると思っており、結局のところ自分は父と同じようにしているだけであると考えている。
それに抗おうとするものは潰す。それだけであろう。
「汝の言う通りかもしれない。しかし、我々が迎撃しなければ、秦は今後我々を軽視することになる。匹夫でも軽視されることを避けるもの。一国においてはなおさらではないか」
それを聞いて、韓簡は恵公が先君・献公に及ばないことを悟った。献公という人は確かに諸国に戦を仕掛け、その際に様々な謀略も行った。
しかし、献公の行っている謀略と恵公の謀略とを比べると恵公の謀略はあまりにも稚拙である。しかし、恵公は謀略とも言えない謀略を好む人である。その割にはそれを隠そうとする人でもある。
(そのような人が今の晋の国君である)
晋という国の不幸がここにある。
だが、韓簡という人はそのような感情を顔にも言葉にも出さない人であり、進言はしても強い諫言をする人ではない。
「韓簡よ。汝に秦への戦を仕掛けることを知らせに向かってもらう」
この時代、戦を行う際には事前にそのことを伝えてから戦を行う。戦においても礼儀があるのである。
「御意」
韓簡はあっさりと承知した。
例え、己の主君が間違いを行っていてもそれを無理に正そうとはしない人だからである。それを狡さと見るか強かさと見るかは人による。
韓簡は秦の陣幕に出向き、穆公に言った。
「かつて貴君からお受けしました恩恵を、私(ここでは恵公のこと)は忘れたことはありません。しかし私は不才のため、兵を集めることはできても解散させることはできません。貴君が兵を還すのなら、それは私の願いです。もしも貴君が兵を還さないとしても、逃げることはありません」
穆公は返答の使者として晋の陣幕に出向き、応じた。
「貴君が帰国するまでは、私(穆公)は貴君の将来を心配していた。貴君が帰国しても国君の位が定まらなかったためである。私はそのため憂慮した。されど、すでに国君の地位が定まってるのだから、貴君の命に逆らうことはない」
つまり、この戦は恵公から仕掛けてきた戦である。我らはそれに対して、堂々と戦うと言ったのである。
晋と秦の戦は最早、避けられないものとなった。
軍議を退いた韓簡は晋の大敗を悟りながら呟いた。
「戦死することなく捕虜になれるのであれば幸いだろう」




