闘章
紀元前646年
春、斉を中心とする諸侯が縁陵に築城し、杞を遷都させた。杞が淮夷の脅威にさらされていたためである。
また、斉の桓公は杞に車百乗と甲兵千人を与えている。
八月、晋の沙鹿山が崩れた。
それを見た郭偃は言った。
「一年後、我が国は大咎に襲われ、亡びそうになるだろう」
山とは神聖な場所であるとされていた時代。山が崩れるなど異変があった時は大抵、国に変事が起きるものと信じられていた。
この年、秦は前年の晋と同じような大飢饉が起きた。そのため秦の穆公は晋に食料を求めた。
前年、あれほどの食料を与えたのである。食料は十分にあるはずなのだ。だが、晋の恵公はこれを断った。
大夫・慶鄭が諫言した。
「恩恵を受けておきながら裏切れば親しいものを失い、他者の難を喜べば不仁となり、自らが大切にする物に対し、貪欲にであれば不祥となって、隣国の怒りを買えば不義と言われるようになります。これら四徳を失って国を守ることができるでしょうか」
恵公の母の兄弟に当たる虢射がこれに対して言った。
「皮がないのに毛だけがあっても意味がない」
変わった表現である。これの意味は努力しても意味がないとするものがあるが、前年、秦に食料を与えてもらっているため食料がないというわけではないはずなのだ。
そのため、この言葉の皮というのは以前、秦に譲るとしていた河外の地を指し、それを譲っていないため怨みを既に買っている。故にここで毛、つまり食料を与えて怨みを買っても変わらないという意味であろうと思われる。
これに慶鄭は反論する。
「信を捨て、隣国を裏切れば誰が困難な時に我々を援けるのでしょうか。信がなければ憂いが生まれ、援けがなければ国は倒れますぞ」
「食糧を与えようも相手の怨みを減らすことはできず、逆に力をつけることになる。食糧を与えるべきではない」
「恩恵に裏切れば災いを喜ぶ。これは民が最も嫌うことである。親しい者でもそのような事があれば仇となる。敵国ならばなおさらではないか」
国に力をつけさせるとか、怨みは減らないとかの問題ではないのだ。国の危機に対して、援助してくれた国を裏切ることが問題なのだ。
国が国足り得るのは信義が必要なのだ。それを失えば国は滅ぶ。
だが、恵公は虢射の意見を採用した。恵公という人は親しい者の言葉を優先する性質の持ち主であり、目の前の利益にばかり目が向く。
退出した慶鄭は言った。
「必ずや国君は後悔することになるだろう」
この慶鄭が晋と秦の戦の運命を握ることになるのだが、恵公はそれを知らない。
晋の使者がやって来て、断られた穆公は拳をわなわなと震わせる。
「晋の不義、これほどとは……」
穆公は使者から渡された書簡を床に叩きつけ、群臣に宣言した。
「戦の準備をせよ。晋を討つ」
「御意」
秦の群臣たちは一斉にこれに答え、戦の準備を始めた。彼らも晋への怒りを高まらせており、晋への戦に気合は十分であった。
紀元前645年
一方、英、六を滅ぼした楚は徐へ侵攻した。
徐が斉と婚姻を結び、中原諸侯に近づいたためである。
三月、それを憂いた斉の桓公、魯の僖公、宋の襄公、陳の穆公、衛の文公、許の僖公、曹の共公が牡丘で盟した。蔡丘の盟の内容を再確認し、徐を援けるためである。
話し合いの結果、魯の公孫敖を中心に諸国の大夫を率いて、徐の救援に向かい、衛の匡の地に駐屯した。
七月、斉、曹は厲を攻めた。厲は楚の属国であるため、この国を攻めることで楚を徐から話すという目的があった。
しかしながら楚はそれに釣られることなかった。
冬、宋が曹を攻めた。以前、曹に攻め込まれたため、その怨みを晴らすためである。それにしても曹が攻め込んだのは紀元前680年のことであり、怨みを晴らすには時間が経っている。
しかしながら宋の襄公という人は形に拘るところがあるため、怨みを晴らすという形に拘った結果なのかもしれない。
その頃、諸侯の救援を受けられることを知り、喜んだ徐はもうすぐ、楚が立ち去ると思い、気を抜いた。
それを知った楚の大夫・闘章が楚の成王に進言した。
「徐は中原諸侯の救援を宛にして、気を抜いております。そのため、我らがわざと軍を退く振りをすれば彼らは釣られて打って出るでしょう。それを破ればよろしいかと」
成王はこの意見を採用し、軍を退いた。
それを見た徐は中原諸侯にいい顔を見せたいため、徐は打って出た。
「報告します。徐軍、打って出ました」
「良し、ご苦労」
闘章は兵を労うと成王に進言する。
「向かい打つのは婁林の地で宜しいかと」
成王はこれに頷き、全軍、迎撃の準備をさせた。
徐は婁林に至ると楚の軍が待ち構えていたため動揺し、楚に大敗した。
楚は完全に徐を滅ぼすことなく、軍を退いた。そして、徐の大敗を聞いた諸侯は悔しがった。徐を巡る駆け引きは楚に軍配が上がった。




