丕鄭
冬、秦に留まり様子を伺っていた丕鄭は行動を起こした。
彼が里克と手を組んで君を弑したのは、己の利益と地位を得るためであり、晋を己の思い通りにするためである。しかしながら現実として彼には死が迫っている。
(まだ、死にたくない)
もしかしたら、秦に対し、己の身柄を引き渡すよう命じるかもしれないのだ。その前に動かなければ殺されてしまう。
そのため彼は秦の穆公に謁見し、言った。
「晋人は夷吾を支持しておりません。実際は重耳の即位を望んでおります。呂甥、郤称、郤芮は秦に土地を譲ることに反対しています。里克を殺したのも呂甥・郤芮の計によるものでございます。もし重い礼で彼らを招いて秦に留めておき、私が夷吾を駆逐して貴君が重耳を入れれば、必ず成功しましょう」
穆公は最初この策に乗ろうとは思わなかった。
(この程度の男に策がなるだろうか)
そう思うからである。
(しかし、晋君の不義は見逃すわけにはいかない)
「良かろう。やってみせよ」
「感謝致します」
穆公は早速、三人を招くために大夫・泠至を使者として晋に出し、それに丕鄭が密かに同行した。
丕鄭は晋に入る前、泠至と別れ、同士である共華に会った。
「このまま晋に入っても大丈夫か?」
「大丈夫です。郤芮たちは我々に対し何ら対策をとっておりません」
彼の言葉を信じて、彼はそのまま晋に入った。
秦からの使者がやってきたことを知った郤芮は使者の持ち込んだ礼物が多く、使用人に使者の言動を聞く。
その後、彼は呂甥らに会って、言った。
「秦の使者は幣(礼物)が重く甘言である。これは我々を誘き出そうとする策略であろう」
彼らはその意見に頷くと皆で恵公の元を訪れ進言した。
「丕鄭が秦に赴いた際、礼物は薄かったのにも関わらず、秦からの答礼が厚すぎます。これは丕鄭が秦に我々を誘い出すように謀ったためでしょう。彼を殺さなければ国に禍いを起こしましょう」
恵公は頷き、丕鄭を殺すよう命じた。
晋で同士を集めていた丕鄭は晋兵に捕らえられて殺された。
「里克、丕鄭一派はこれを気に残らず、始末すべき」
郤芮らはそう主張し、恵公もそれに同意すると一気に動き出した。
それを知った共華の友人である大夫・共賜は急いで彼の元に行くと逃げることを進めた。だが、彼は首を振り、逃げようとしない。
「何故、逃げないのですか? 禍が迫っているのですよ」
「丕大夫を国に入れたのは私だ。私は禍難を待つ」
「そのことは誰も知りません。逃げましょう」
「それはいけない。自分で知っていながらそれに背くは不信。他者のため謀り、逆に難を及ぼすのは不智。人を害して自分が死から逃れようとするのは無勇。この三つの大悪を背負ってどこに行けというのだ。君は逃げよ。私はここで死を待つ」
こうして、共賜は逃げ、祁挙及び七輿大夫(共華、賈華、叔堅、騅歂、累虎、特宮、山祁)は殺された。
「丕鄭は殺されたか……」
「はい、同時に丕鄭と通じていた者たちも殺害されました」
泠至の言葉を聞き、穆公は舌打ちする。丕鄭だけならばいざ知らず、晋で利用できる連中を一層されたのは痛い。
(丕鄭め、己だけが死んでいれば良いものを)
「これにより、郤芮らは権力を増しました」
「しばらくは放っておくしかあるまい」
穆公は下がるよう命じた。すると泠至は立ち去らず、言った。
「実は君に進言したいと申している者がおります」
「誰だ」
「丕鄭の子。丕豹でございます」
「ほう、良かろう会おう」
泠至は拝礼し、下がると少しして、丕豹が入ってきた。
(若く目つきの鋭い男だな)
「秦君に拝謁致します」
「表を上げよ」
「感謝致します」
丕豹はひと呼吸おいて言った。
「此度、私は秦君に策を献じたいと思い参上致しました」
「言ってみよ」
「晋君は恩義ある秦を裏切り小さな怨みをもって憎み、里克を殺したため、民心を失いました。今また我が父と七輿大夫を殺したため、彼を支持する者は国の半分に過ぎません。今、晋を攻めれば必ず晋君を駆逐できましょう」
穆公はすぐに答えを出さなかった。彼の策には……
(父の仇を討ちたいという私情があるのではないのか)
そのような私情で国を動かせば、必ず失敗するものである。そのためそう簡単に彼の進言を取り上げることはできない。だが、
(晋君の不義は許すことができない)
という感情も穆公にはある。そのため彼の感情に共感できる。それでも穆公は国君なのだ。
「民心を失っているのであればなぜ多くの大臣を殺すことができたのだ。大臣を誅殺することができたのは、国君と百姓が和しているためである。晋君の罪は死に値しない。死に値する罪を犯せば、国に留まることができないはずだ。勝敗とは予測がつかないものであり。そもそも、晋侯による禍を受ける恐れがある者が全て国を離れれば、誰が国君を追い出すというのだ。汝は私の決断を待て」
そう言って、彼を下がらせた。
しかし、丕豹の表情に落胆の色はない。
(秦君は最後に決断を待つよう言ってくれた。秦君に晋を討つ考えをお持ちなのだ)
彼の思った通りで穆公は以後、彼を寵愛していくことになるのである。




