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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第四章 天命を受けし者

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里克

 紀元前650年


 夏、周の襄王じょうおうが周公・忌父きほ、王子・とうを晋に派遣し、斉の隰朋しゅうほう、秦の百里奚ひゃくりけいと共に晋の恵公けいこうの即位を正式に認めた。


 晋の恵公の即位がこうして認められたわけだが、彼の即位に最も貢献したはずの秦の穆公ぼくこうは彼に対し、怒りを現わにしていた。


「これはどういう事であろうか?」


 穆公は目の前にいる丕鄭ひていに対し、言った。


 丕鄭は深々と頭を下げ、恵公の言葉を述べる。


「夷吾は河外の地を貴君に譲ることを約束し、幸いにも帰国し即位することができました。しかし大臣達は『河外の地は先君以来の土地であり、新君は国外に亡命しておりました。なぜ勝手に他国に与えることができるのだろうか』と述べて反対しております。私はそんな大臣達を納得させようと努力しておりますが、力が及びません。よって謝罪に来ました」


 彼の言葉を聞いて、穆公はすぐに嘘であると見抜いた。


 恵公には元々、河外の地を譲る気は更々無いのである。そして、あの男のたちの悪さはそれを隠そうとこのような使者を出してきたところである。


「我が国と晋は兄弟というべき国であり、そのため両国は助け合う関係であるため私は貴君の即位を助けたのだ。貴君はその際、私に河外の地を渡すことを申したのは貴君の方である。それにも関わらず、貴君はそれを破るというのか」


「滅相もございません。我が君はそのようなことは考えておりません」


 丕鄭は冷や汗を大量に流しながら、穆公の言葉を否定した。実は彼もまた、恵公に約束を反故にされていた。


 彼と里克りこくは恵公に土地を与えることを約束していた。それを信じて二人は彼の即位を助けたのである。だが、いくら待っても彼らに土地を与えられることはなく、それどころか……


(我々の権力を奪われようとしている)


 恵公は遂にその本性を見せ始めたと言っていいのだろう。


(このままでは不味いことになる)


 丕鄭はそのように考えている頃、恵公は牙を剥き出していた。








 即位することができ、斉や周にも国君として認められた恵公にとって、恐ろしい存在と言えるのは兄・重耳ちょうじである。


 国内で人望のある存在である彼を恵公は恐れた。


 それを感じ取った郤芮げきぜいは進言した。


「里克は貴方様を殺し、重耳を立てようとしております」


「それは誠か」


「里克らは国君を二人も殺しております。貴方様も殺そうとしていないと言えましょうか」


 恵公の恐れを利用して、郤芮は里克らを除くことを考えたのである。


「だが、里克は私の即位を助けた功績があるぞ」


 恵公は里克を殺す上での大義名分がないことを気にした。しかし、郤芮としては恵公が里克を殺したいと思えば良いのである。


「先ほど申した通り、里克は二君を殺しております。それさえあればよろしいのです」


 彼はそう言うと恵公にこのようにするよう言った。恵公はそれを聞いて、笑った。








 里克の屋敷に恵公の使者がやって来た。使者の手には剣がある。


「もし汝がいなければ、私はこの地位に即くことができなかった。しかし汝は二君と一大夫を殺している。汝の主君になるのは難しいように思う」


 使者は恵公の言葉を伝えると手にもっていた剣を彼に差し出した。この剣で死ねという意味である。


 里克はこれを受け取り、言った。


「二君を廃さなければ、主君は即位することができなかったではないか。それにも関わらず、私に罪を加えるというのであれば余計な事を言う必要はなく。私は命に従おう」


 彼は剣を鞘から抜くと剣に伏して死んだ。


 里克は申生しんせいを助ける立場にありながら、難を逃れるために彼から離れる道を選んだ。それにも関わらず、晋の献公けんこうが死ぬと二君を殺した。


 そして、重耳を招こうとしながらも土地を与えるという夷吾らの甘い言葉に踊らされ夷吾を招いた。


 それらの行動に何ら正しさがなく、己の利益を考えた行為ばかりであった。その点、献公の遺言を必死に守ろうとした荀息じゅんそくの方が人としての美しさを感じる。



 しかしながら、そんな形だけの功臣とはいえ、己の即位を助けた彼を殺した恵公は人として、里克に勝るかと言えるかどうか……








 里克の死は秦にも伝わった。


「里克を殺したということは次は私か」


 丕鄭はそれを知り、恐れて秦に留まった。


 また、それを知った穆公は恵公への不信感と苛立ちを表わにする。


(恵公には義理というものを知らない男だ)


 里克という功臣を殺し、隣国である秦を軽んじる。これらを見れば恵公という人の性質がよくわかる。


 また、この時このような歌が晋の間で歌われていた。


「偽善者(里克と丕鄭)は偽善者(恵公)に騙され、その土地を失い。詐欺師(穆公)は詐欺師(恵公)に騙され、賄賂を失う。貪欲に国を得た者、いずれ咎を受け、土地を失い、教訓を得ずして禍乱が起きる」


(晋公のせいで余計な汚名を被ったわ)


 穆公としては詐欺師という言葉は心外に等しい。彼は苛立ちながら一人の女を見た。


「汝の弟は碌な奴ではないな」


「ええ、誠に弟は愚かですわ」


 恵公のことを弟と言えるのはこの世に二人しか残ってはない。その一人たる穆公の妻である穆姫ぼくきは夫の言葉に同意した。


 あっさり同意した彼女のことに穆公は驚いた。血のつながりや家のつながりという物は当時最も大切なものであるのだ。それを知っている穆公は皮肉として彼女に言ったのである。


「君よ。弟を信じてはいけません。弟は己の親族さえも尊重し、慈しむことのできない人物です」


 彼女がこう言うには理由がある。


 恵公が秦から帰国する際、穆姫は申生の妃である賈君かくんを彼に託していた。また、彼女は彼にこうも言っていた。


「諸公子(申生、重耳、夷吾らの他に名は伝わってないが五人公子がいるはずである)を晋に迎え入れなさい」


 彼女の言葉には兄弟を始め、義理の姉さえも思いやる気持ちが彼女にはある。


 だが、即位した恵公は彼女の願いを無視し、諸公子を迎え入れるどころかなんと賈君と関係を持ったのである。


 そのことを知った彼女は激怒したのである。


「信用ならないか……」


 穆公は恵公のことを舐めていたのかもしれない。彼はそのことを理解し、晋との付き合い方を考え直さなければならなくなった。








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