封禅の儀
晋での後継問題に一定の成果を出したと見た斉の桓公は封禅の儀を行おうとした。
封禅の「封」は天を祀る儀式のことを言い、「禅」は地を祀る儀式のことである。そして、その儀式は泰山で行うとされている。これは本来、聖賢な帝王だけが行える祭祀であり、当時であれば周王のみが行える儀式であった。
しかし、最早、周王朝の権威は失墜しており、斉、楚、晋、秦といった四方の諸侯が台頭しており、特に斉の桓公は周王の代わりに諸侯を集め、会盟を行いまとめていた。
そのため彼は天下の盟主であると自負し、かつての帝王に並んだと思った。よって彼は封禅の儀式を行おうとしたのである。だが、それを管仲が諌める。
「かつて、泰山を封じ、梁父(泰山の麓にある丘)を禅した者は七十二家にいると言われておりますが、私が記憶している者は十二家しかおりません。無懐氏は泰山を封じ、云云山(梁父の東にある地)を禅しました。伏羲氏も泰山を封じ、云云山を禅しました。神農氏も泰山を封じ、云云山を禅しました。炎帝氏(神農氏の子孫)も泰山を封じ、云云山を封じました。黄帝は泰山を封じ、亭亭山を禅しました。顓頊は泰山を封じ、云云山を禅しました。帝嚳も泰山を封じ、云云山を禅しました。堯も泰山を封じ、云云山を禅しました。舜も泰山を封じ、云云山を禅しました。禹(夏王朝の始祖)は泰山を封じ、会稽を禅しました。湯王は泰山を封じ、云云山を禅しました。周の成王は泰山を封じ、社首山を禅しました。これらの帝王は皆、天命を受けてから封禅を行いました」
管仲は歴代の帝王は皆、天命を受けてからした封禅の儀式をあなたは天命を受けていないのにするべきではないと言ったに等しい。
桓公はこれにむっとして答えた。
「私は山戎を北伐して令支・孤竹を破った。晋陽を西伐して流沙を渡り、険阻な太行山や辟耳山に至ってから還っておる。南伐して召陵に至り熊耳山に登り、江漢(長江・漢水)を眺めた。兵車の会を三回(陽穀の会、首止の会、葵丘の会)、乗車の会を四回(北杏の会、鄄の会(二回やっている)、檉の会)開き、諸侯を九合して天下を正している。諸侯で私に逆ろうとしている者はなく。古の三代(夏・商・周)が天命を受けたが、私の功績はこれと変わらないではないか」
彼は今までの戦、会盟を行ったことを誇り、かつての帝王と並ぶと主張した。
天命での説得は難しいと考えた管仲は封禅の儀式を行う上での困難を述べた。
「かつての封禅は鄗山の黍と北里の禾を祭祀に供える食事とし、長江と淮水の間に生える茅草を蓆とし、東海から比目魚(一つ目の魚としているが恐らくヒラメやカレイのたぐい)を、西海から鶼鶼(伝説の鳥)を得て、更に求めずとも自然に十五の吉祥が現れてから行いました。今は鳳凰も麒麟も現れず、嘉穀も生えず、雑草が茂り、鴟梟(凶鳥とされる鳥。ふくろうのこと)がしばしば訪れております。これでは封禅を行うのは相応しくなく、難しいと考えます」
彼の言葉に桓公は遂に折れて、封禅の儀を取りやめた。
桓公が封禅の儀を強行したのは彼に緩みが生まれつつあったからだったかもしれない。管仲はそれを同時に諌めたのである。
桓公の緩みについてこのような話がある。
ある日、桓公は管仲を宴に誘った。彼はその宴のために新しい井戸を掘り、十日間斎戒した。
宴が始まり管仲が来ると、桓公は酒器を持ち、夫人に酒器を持って、彼に酒を勧めるよう命じた。しかし酒が三巡すると管仲は何も言わず退席した。
それを見て、桓公は怒りを表す。
「私は十日も斎戒し、仲父を招いた。これほど礼を尽くしているのに仲父は何も言わずに退席した。これはなぜだ」
桓公の怒りを見て、拙いと思った鮑叔と隰朋が管仲を追いかけ、桓公が怒っていることを伝えた。
すると管仲は宮中に戻り、門内の屏風の前に立った。しかし桓公は何も言わず、彼が中庭に入っても口を開こうとしない。
彼が堂まで進むと桓公がやっと口を開いた。
「私は斎戒を十日もしてからあなたを宴に招いた。私には誤りはないと思っている。それにも関わらずあなたが去ったのはなぜだ」
彼がそう言うと管仲は恭しく拝礼をし、答える。
「享楽に浸る者は憂患に陥り、美味を求める者は徳を失い、朝政を怠ける者は政治を疎かになり、国家を害する者は社稷を危うくする。そのため私は退席しました」
桓公が堂から下りて言った。
「私は自分の安逸を目的にしたのではなく、仲父が年長者であり、私も老いた。そのため時には仲父を慰労したいと考えたのだ」
「壮年の者は怠らず、老年の者は怠けず、天道に従えば終わりを全うできると申します。三王(夏の桀王・商の紂王・周の幽王)の失敗は一朝にして生まれたのではないのです。主君たる者が怠けてはならないのです」
これほどのことを言うのはとても勇気がいる。なんせ己の主にして天下の盟主と言っていい桓公に怠けるなと叱ったのである。
もし、他の国の君臣の間でこのようなことがあれば国君はそのことを言った臣下を切るだろう。
しかし、管仲が帰る時、桓公は賓客の礼で再拝して送り出した。管仲の言葉は桓公の心を大きく揺さぶったと言っていい。
他の君臣と違う結果になるのは、桓公という人と管仲の相性も勿論あるが、それでも桓公と管仲の関係は君臣の間を超えており、一種の奇跡の関係と言っていいのである。
そういう関係は歴史の中では時々現れるものである。
翌日、管仲が入朝すると桓公が言った。
「私は君主の信について聞きたい」
「民が君を愛し、隣国が君と親しみ、天下が君を信用する。これを国君の信といいます」
「ならば信とは何から始めるべきか。」
「まず己の身を治め、次は国に及ぼし、最後は天下を治めます」
「己の身を治めるとはどういうことであろう」
「血気を正し、導くことで長寿を得ること、心を養い徳を施すこと。これが己の身を治めるということです」
「国を治めるとは」
「遠方の賢者を求め、百姓を愛し、亡国を援け、祭祀を復活させて、その子孫を起用すること。税を減らし刑罰を軽くする。これが国を治める大礼(法則)でございます」
「天下を治めるとは」
「法を行おうとも厳しすぎず、刑を簡潔であっても罪人を逃さず、有司(官員)は寛大で民を虐げず、困窮した者や隠者も法度の下に守られることで往来する者、全て拘束されることなく、民は世を楽しむことができる。これを天下を治めると申します」
桓公は頷き、身を慎み、益々管仲を尊重した。
斉という国が大国たるのは桓公と管仲がいるからであり、桓公が管仲を信じ続ける限り、斉は大国で有り続けるのである。




