運命の分かれ道
「聞いたぞ」
晋のある屋敷に一人の男が上がり込んで言った。
「重耳への使者を断ったそうだな」
男は屋敷の主……狐突に言う。狐突は男に頷く。
「里克どもは重耳を国君に据えようとしているが重耳はこれを引き受けるか?」
「それはお前がよく知っているだろう……郭偃」
その答えに男……郭偃はからからと笑う。
「その通りだな」
笑いながら彼は狐突に酒を渡す。
「取り敢えず飲もう狐突よ」
「ああ」
二人は互いの盃に酒を交わし、話し合う。
「晋はこれより先、混乱が続くことになる。その混乱を治められるのは重耳だけだろう」
狐突は頷く。
「その通りだ。だからこそ重耳様はここに戻らん」
「お前の息子たちが止めるか」
「ああ」
息子のことを思い出して狐突は笑った。
「今日来たのはお前に忠告があったためだ」
郭偃は彼に鋭い目つきを向ける。
「お前が里克らと組むことはないことは理解しておるし、心配していない。だが、里克どもの後だ。国政に参加せよ。それがお前の寿命を延ばすことになる」
「里克どもの後か……私は……参加する気はない」
「申生への義理か」
狐突は頷き、酒を煽る。
「それに私の後、家は残る。それで良いのだ」
彼は郭偃の盃に酒を注ぎながら言う。
「私も大司空も先君に見出された男たちの時代は終わった。次の時代の若者の時代だ。彼らが晋をより良くしてくれる」
「そうだな」
彼らはそれ以降、何も言わず酒を飲み続けた。
狄(翟)にいる重耳の元に使者がやって来た。
「昨今、国が乱れ民が不安定になっています。されど動乱こそ国を得る機会であり、不安定な民ほど治めやすいもの。我々は公子のために道を開き、国主となっていただきたい」
重耳は狄(翟)に長いこと亡命し、狄(翟)から娘を与えられ息子もできており、愛着を持ち始めていた。だが、故郷に帰れることに心が動いた。人にとって故郷というのはやはり特別な部分がある。
しかし、彼はその場での即答を避け、狐偃を呼んだ。
「先ほど里克からの使者がやって来て、私を招いている」
「いけません。堅い樹木を育てるには始めが大切と言います。基礎が固まっていなければ必ず枯れてしまうからです。国君とは、哀楽喜怒の礼節を弁えて、民を導くものです。喪を哀しむことなく国君の地位を求めれば成功は難しく。動乱の中、入国するのは危険です。喪を利用し、国を得おうとするのは喪を『楽』とすることになり、そこから『哀』が生まれることになります。また動乱を利用し、入国するのは、乱を『喜』とすることになります。乱を喜べば徳が疎かになります。このように哀楽喜怒の礼節に逆らいながら民を導くことができましょうか。民を導くことができないというのに国君になったと言えるのでしょうか」
「喪がなければ何時、機会があるというのだ。乱がないのに誰が私を迎え入れてくれるのか」
重耳は悲しそうに言う。
「喪と乱には大小があります。大喪大乱が起きている時は近づかないもの。父母の死は大喪であり、兄弟が讒言によって陥れられるのは大乱です。今はまさにその時なのです。よって成功するのは困難でしょう」
狐偃の言葉を聞き、重耳は顔を手で覆う。
彼は元々、優秀な兄である申生に養われ平和に暮らしたいと思っていた平凡な公子に過ぎなかったはずだった。しかし、現実は兄は死に、父には殺されかける。
(何故、このような苦しい目に遭わなければならないのだろうか?)
苦しい。それが彼の本音である。だが、ここで彼は狐偃に言った。
「わかった。君の言葉を信じてみよう」
彼は狐偃を信じた。狐偃が国君になるべきではないと言うのであればそれに従うべきだと信じたのだ。
「ご英断でございます」
狐偃は重耳の選択に感動した。恐らく、これよりも先、更なる困難が重耳を襲うことになるだろう。しかし、その困難が必ずや意味あるものになるはずなのだ。
(苦労せずに手に入れたものほど簡単に失くなってしまう)
それが彼の考えである。また、里克たちの扱いに苦しむことになるとも考えている。本来、国君を殺すという行為は大罪であり、処罰しなければならないが、彼らに従って国君となれば彼らの功を褒めなければならなくなる。
殺さなければ法に背き、殺せば恩知らずと罵られることになる。重耳をそのような国君にさせてはならないのだ。
重耳は使者に再び会い言った。
「あなたが亡人(出奔した者のこと)に過ぎない私に会いにきてくれたが、私は父上がご存命であった間、傍に仕えず、亡くなられてからも喪に臨むことができないでいる。この罪は大変重いものである。あなたの慰労に対してただ感謝するしかない。だが、此度のことを受け入れることはできない。国を安定させる者は民衆と親しみ、隣国との関係を善くし、民心に応じる必要があるものだ。民衆に利があり、隣国にも擁立され、大夫達も従う者を立てるべきだ。私は民意に背くことはできない」
このように彼は断った。
里克たちは重耳に断られたことを知り、苦悩していた。その隙に呂甥と郤称は梁に逃れていた夷吾に使者を出してこう言わせた。
「秦に厚い賄賂を贈ることで援けを求めるべきです。我々が公子の入国に協力します」
彼らは里克らが荀息らを殺したことで政権を握っているように見えたため、夷吾を立てて、自分たちが政権を担おうと考えたのである。
夷吾は郤芮を呼んだ。
「呂甥が私を招いている」
彼は使者の話を話した。
「国が乱れ、民が安定していない時は、大夫の考えも纏まっておりません。この機会を失ってはなりません。動乱がなければ入国することはできず、民に危難がなければそれを安定させる必要もありません。幸いにもあなたは先君の子なので新たな国君に選ばれました。動乱の中であなたを拒む者はおらず、大夫の考えも纏まってないので、あなた様に従うでしょう。あなた様は国の全ての財物を他国に贈るべきです。国庫を惜しまず入国できれば、後日、改めて財物を集めることができるのですから」
狐偃は国君となった後のことを考えたが郤芮は国君になることを優先させた。国君になればなるようになるという考え方が彼にあり、それが同じ公子に仕えている身分ながら違う進言になったのである。
夷吾は彼の進言に頷くと使者に再度稽首し、国君となることに同意した。




