臣を知る者は、君に勝る者無し
紀元前654年
春、重耳に逃げられた晋の献公は大夫・賈華に夷吾がいる屈を攻めさせた。
夷吾はこれに必死に抵抗する。
「公子。このままでは耐えきれません」
郤芮が降り注ぐ矢を防ぎながら叫ぶ。
「くっ仕方ないか」
彼は唇を噛みながら、屈から脱出することを決めた。
「私はこのまま殺されんぞ。必ずや、やつらに目にもの見せてくる」
夷吾はそう言うと郤芮らと共に屈から逃れた。
「郤芮よ。兄に従って狄(翟)に行くべきか?」
「いけません。兄君が既にいるのです。我々もそこに行けば、我が君は必ず兵を翟に遷すことになりましょう。翟が晋を畏れれば禍が我々に及ぶことになります。梁に奔るべきです。梁は秦に近く、秦は強国です。我が君がお亡くなりになった後、援けを得て帰国することができます」
梁は晋と秦の間にある国で、秦の力を借りやすい地である。それにより、警戒心をもたらすこともできる。
彼の言葉に夷吾は頷き、梁に逃れた。
夏、斉の桓公、魯の僖公、宋の桓公、陳の宣公、衛の文公、曹の昭公は軍を率いて、鄭を攻め入り、新密城を包囲した。
諸侯が鄭を攻めたのは鄭の文公が首止の会から勝手に逃げ帰ったためである。
鄭はこの事態により、楚に救援を求めた。
楚の成王は鄭の救援に答え、軍を動かした。しかし、彼は軍を鄭に向けず、許に軍を動かした。
「許に軍を動かしただと……」
「主公よ。許を救援するべきです」
管仲が進言する。
「許を救援しなければ盟主としての面目が立ちません」
「仕方ないか」
斉の桓公は諸侯に命じ親密の包囲を解き、許の救援に向かった。この際、管仲は鮑叔を呼んだ。
「恐らく、これで許は楚に奔る」
「今から行けば十分救援は間に合うと思うが」
「いや、許は楚に近い国だ。今回の楚の出兵で恐れて楚に奔る。遠い国より、隣国と結んだ方が良いと思ってな」
これが楚という大国に近い国の苦しみである。
「ならば、どうする?」
「正直、許は放っておく。代わりに君に任せたいのは鄭のことだ」
彼は詳しいことを鮑叔に話した。
「承知した」
鮑叔はその場を離れる。
諸侯らが許に向かうと楚は許の包囲を解き、武城に退いた。それを見て、管仲が進言する。
「武城の守りは堅く、攻めづらい地です。引き上げましょう」
「それでは許は楚に奔るぞ」
「諸侯の兵は疲弊しています。これでは長期間の戦は難しいでしょう」
斉の桓公は引き上げることを決めた。
冬、蔡の穆公は許の元に出向き、楚に付くことを進めた。許の僖公はそれに同意した。
二人は共に武城にいる楚の成王の元に出向いた。この時、許の僖公は肉袒(上半身を裸にすること)し、手を後ろに縛り、口に璧玉を咥えており、許の大夫たちは喪服を着て士は棺を担いで楚の成王に会った。
「これはどういう意味があるのだろうか?」
成王が大夫・逢伯に聞くと彼は答えた。
「かつて、周の武王が商に勝利した時、微子啓が同じ姿で投降しました。武王は自ら彼の縄をほどき、璧玉を受け取って凶を祓い、棺を焼き棄て、礼をもって命を下し、元の地位に戻したと言います」
「なるほどな」
成王は彼の言葉に従い、それに倣って許の僖公の縄を解いた。
紀元前653年
春、斉が鄭に侵攻した。
孔叔が鄭の文公に言った。
「諺にこうあります『張り合う心を持たないのに、なぜ恥を恐れるのか』強くもなれず、軟弱にもなれず、中途半端では国は滅びてしまいます。この国の危機を防ぐには斉に屈するべきです」
彼は元々、斉に従うべきという考えを持っていた人物である。
「斉がなぜ侵攻したのかわかっている。しばらく待て」
「このような緊急時になぜ待てと仰せられるのか」
彼は頭を抱えたくなった。文公には危機感や物事の機微が薄い。
だが、彼の心配を他所に文公は笑みを浮かべ、別室に向かった。そこには鮑叔がいた。
「ご決断されましたか?」
「うむ、我らは斉に従います」
「良き、ご決断でございます」
鮑叔は文公に対し、稽首した。
「また、斉との関係悪化に関わった者を其方に引き渡しましょう」
(関係を悪化させたのは鄭君自身であるのに別の者にその罪を着せるのか)
「承知しました」
思いを顔に出さず、彼は再び稽首した。
夏、鄭の文公は斉と関係を悪化させたとして、申公・伯を処刑した。彼を処刑した理由としては陳の大夫・轅濤塗の讒言も一因である。
申公・伯は元々、楚に使えており、楚の文王に寵愛されていた。しかし、楚の文王は亡くなる際、彼を国から追い出した。
この時、文王は彼に璧玉を与え、言った。
「私だけが汝を理解している。汝は利欲に飽くことがない。私は汝が求める物を何でも与え、それを咎めなかった。しかし私の後に位に即く者は汝に多くの財物を要求するようになり、汝は罪から逃れることができなくなるだろう。私が死ねば速やかに国を去れ。されど小国は汝を受け入れることができないから行ってはならんぞ」
そうして、彼は楚を離れた。しかし、仕えたのは鄭であった。
鄭の厲公には信任されたがその後継いだ文公には彼を扱える才はなく。結局、身を滅ぼすことになった。
申公・伯という人は欲深い人物ではあるが、才覚はあった。そのため楚の文王、鄭の厲公には寵愛された。されど文公により、殺されてしまった。
人を用いる上で器量の差というものは生まれるものである。
彼の処刑を知った楚の子文は言った。
「『臣を知る者は、君に勝る者無し』この古の言葉を変えることはできないものだな」




