百里奚
遅くなりました。
PV一万超えました。ありがとうございます
「侍臣の数が足りない様に見えるのだが、どういうことだろうか?」
秦の穆公は夫人の警護を行っていた兵に問いかけた。
「道中で逃走したようでして……」
「捜索はしたのか?」
「多少はしましたが……」
それを聞いて、彼は眉間に皺を寄せる。晋の誠実さを感じられないからである。他国に娘を送る上で捕虜となった者を侍臣にして、寄こす態度も気に入らないが、逃走を許してしまうこととほとんど捜索もしないのはどうなのか。
(晋という国はこういう国か)
晋の献公は名君と聞いていたが、このような感じであるとその評価は偽りかもしれないと思った。
そう思いながら、妻となる女性に付けられた侍臣たちを見る。はっきり言って、質はそれほど良いものを感じなかった。
(娘を貶めているようなものではないか。己の子を殺そうとする男であるからそういうものなのかもしれないが)
己の子に対しては情はなく、他国に対しては誠実ではない。決して褒められた人ではないのがわかる。
「その逃走した男の名は何と言う?」
「百里奚と申します」
兵は戦々恐々としながら言った。
「いや、此度は婚姻という目出度きことですので、私どもはあなた方に対して何ら言うつもりはない。ただ、逃走したという男の名をし知りたかっただけのことである」
「左様でございましたか。それは良かった」
「晋君には此度の婚姻を元に両国の友好を深められることを願うとお伝えいただきたい」
「承知しました」
穆公は彼らを別室に行かせるよう使用人に伝えた後、公孫枝を呼ぶよう命じた。
「お呼びでしょうか?」
「逃走したという男のことを知りたい」
彼に穆公は晋の兵との話を話した。
「承知しました。されど、何故その男を知りたいのですか?」
「夫人の侍臣たちよりも逃走した男の方がましと思っただけだ」
彼にとっては気まぐれに過ぎなかったが、この気まぐれが自国に大いに福をもたらすことになる。
「爺さんは牛を育てるのが上手いなあ」
百里奚と同じく奴隷にされている若い男たちに彼は褒められていた。彼に育てられた牛は皆、良く肥えていた牛ばかりであった。
「規則正しい食事をさせ、無理をさせないようにしているだけだ」
彼は笑みを浮かべながら、答えた。
捕らえられた彼は奴隷として、生活を送り、主に牛の世話を命じられていた。しかし、その生活を送っていても彼は何ら文句を述べることはなく、淡々と仕事を行っていたため、雇い主から信頼も寄せられるようになっていた。
奴隷となってしまった彼だが、精神的には穏やかであった。
(奴隷となってもこのように穏やかであれるのだな)
雇い主が人使いの荒い人ではないということもあるが牛を育て、他の奴隷と共に働くことに、今、生きていることに感謝する日々を送っていた。
牛と対話し、天地と会話する。そのような境地にさえ至っていた。
そんな姿を見ていた男がいた。その男はしばらく見た後、その場を立ち去った。
「主公よ。百里奚という方は賢臣いや、聖人のような方です」
公孫枝が穆公に彼を絶賛しながら言った。
「ほう誠か。して、その方はどこにいるのだ」
穆公は公孫枝のことを信頼しており、彼もまた賢臣であると考えている。そのため、百里奚が賢臣であることを信じた。
「百里奚は今、楚で奴隷となっています」
「奴隷か……よし、大金を用意して招こう」
彼がそう言うと公孫枝は首を振った。
「それはお止めになったの方がよろしいかと」
「何故だ。他国の者であろうと奴隷の者であっても賢臣であれば礼を尽くして招くべきだ」
古の名君である商の湯王は料理人であった伊尹を登用している。賢臣であれば身分に関係無く登用するのが名君のあり方であるはずであると彼は考えている。
「そのことについては何ら問題ありません。しかし、奴隷を買うにあたり、一国の主が大金を出せば楚は不信に思い、もしかしたらあの方を招くかもしれません」
「なるほど。それは思いもつかなかった。ならばどうすれば良いのか?」
穆公が問いかけると彼は拝礼して答える。
「全て私にお任せ下さい」
「良し、わかった。頼むぞ」
「御意」
公孫枝は再拝し、退室した。
「主人。ここに百里奚という者がいるか?」
公孫枝は苑の商人の元に出向き、言った。
「百里奚ですか? 居りますが……何故とお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「実は先日、我が国の媵臣が逃げてしまってな。その者が百里奚でな。そのため連れ戻しに参ったのだ」
「左様でございますか……」
商人は顔を顰める。
「ちゃんと買うつもりだ」
彼はそれを見て、言うと商人はぱっと笑顔になり、話しだした。
「左様でございましたか。すぐさま呼んでまいります。では会計については……」
「五羖(五頭の黒い牝羊のこと)の皮で買いたい」
この時代、まだ物々交換の時代である。
「ふむ」
商人はそれを手に取り、眺める。五羖の皮にしては質が良いと思いつつ、彼は頷いた。
「承知しました。これで商談をまとめましょう」
彼は部下を呼び、百里奚を引渡しの用意をさせた。
(ついにこの日が来たか)
百里奚は車の天井を見ながら思う。このまま秦に行けば、逃走の罪は重いため、処刑されることになる。
(所詮私はこの程度の男であったということか……)
そう思いながら、車に揺られる。
「ここから出てください。百里奚殿」
突然、車の戸が開き、男が彼を招く。
(もう着いたか)
到着するには早いと思いつつ、彼は車から出る。
「こちらへ」
男は彼を別の車へ誘導する。
「これは……」
目の前にある車は飾りが付けられ、貴族の乗る車であった。
「さあ、どうぞ」
「いや、私は……」
何故、貴族の車に乗るのかと動揺しているが、男はそんな彼を車に乗せる。
車に乗った彼が見た景色は案外、そこまで高く感じず、広くも感じなかった。
(私は今、管仲が乗っていたような車に乗っている。しかし、このようなものだったのだな)
車は走り、やがて、大きな城壁が見えた。
(あれが秦の都か)
近づくに連れ、大きな門が見えてきた。すると、門には男とその後ろに兵がいる。男は百里奚らを見ると笑みを浮かべる。
「良くぞ、参られた百里奚殿」
男は彼が乗る車に近づき、彼の手を取り、城に招く。
「あなたは……」
「私はこの地を治めている者でございます」
男……秦の穆公は言った。
「私はあなたに国政を担ってもらいたいと考えている」
穆公は穏やかな表情を浮かべながら、言う。そんな彼を見て、感動をしつつ百里奚は拝礼し答える。
「私は亡国の臣に過ぎません。そのような者が国政に関わったところで何の役に立つのでしょうか?」
「虞君があなたを用いなかったために滅んだのだ。あなたの罪ではない」
穆公と百里奚は三日間国について語り合った。穆公は百里奚を大いに気に入り、彼をなんと宰相に任じた。
かつて、奴隷にまで堕ちた男が宰相になったことはなく。まさに前代未聞であったそのため反感を覚える者も少なくなかったが、彼は謙虚に人々に接し、清廉潔白で、冬でも外套を着ず、国内を巡察するときは衛兵に武器を持たせずに巡察していった。
彼が政治を行ってから、秦の領土は千里ほど増え、国力は増し、人々はこの善政を喜んだ。
また、彼は穆公に進言した。
「私の才は友の蹇叔に及びません。蹇叔は賢人ですが、世の人はそれを知りません。かつて私は斉に遊歴して困窮し、食を乞いていました。その時、彼と出会い、命を救ってくれたばかりか私を養ってくれました。私はかつて、斉の公孫無知に仕えようとしましたが、蹇叔が私を止めたため、斉の乱から逃れることができました。その後、私は周に入り、周の子頽は牛を好むと聞き、私は牛を養う技術で仕官しようとしました。ところが、王子頽が私を用いようとした時、彼はまた、私を止めました。そのため私は周を去り、誅殺から免れることができました。虞君に仕える時も蹇叔は私を止めました。私も虞君が臣下の意見を用いる方ではないのを知っていましたが、禄爵の利のために暫く留まりました。私は彼の言を二度聞き入れて難から逃れ、一度聞かなかったばかりに虞君の難に及んでしまいました。そのおかげで私は彼の賢を知ることができたのですどうか蹇叔を招いてください」
穆公は同意し、彼を招いた。
「百里奚。君は仕えるべき主に出会えたのだな」
蹇叔はそう言うと百里奚は頷き言った。
「全ては君のおかげだ。君にとっても主は仕えるべき主のはずだ。どうか私と共に支えてくれ」
「ああ、わかっているとも」
こうして、百里奚に続き、蹇叔をも得た秦は一気に大国へと成り、歴史の表舞台に穆公は立ち上がることができたのである。
百里奚が世を去ったのは約十年後くらいである。
彼が亡くなると秦の人々は皆、涙を流し、子供は歌声を挙げなかったという。