知らぬ、存ぜぬ
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「どこか行くのか、冬歌?」
教壇で数学教師の江藤先生と会話をしていた暦が、目聡く席を立った私に気づいて声をかけた。後ろに眼でもあるの、暦? 半ば本気で思った。
「保健室だろう。西城、体調が悪いみたいだからな」
「・・・よく、解りましたね」
素直に感心すれば、江藤先生は苦笑した。
「授業中、しきりに腹を抑える姿を見れば誰だって解るさ。今だって、ほら。腹を押さえてる」
「あ・・・」
無意識だったから、気づかなかった。
そんな私に江藤先生は近づき、ポンポンと子供をあやすように頭を撫でた。先生、これはお子さんにやってください。
職員室の自席にずらりと飾られた、家族写真を思い出して私は失笑した。
「体調には気をつけろよ、西城。俺の奥さんもここ最近、体調が思わしくないようで」
「それって先生。まさかの三人目が出来たとかじゃねーの?」
「確かに、可能性はあるな」
会話に乱入した夏目の言葉に、暦が頷いた。
逆に江藤先生は固まり、そして慌てて教室から走り去った。思い当たること節でもあったのだろうか。すでに子供が二人いるというのに、若いな先生。
「先生が廊下を走ったら、生徒の見本にならないんだが・・・。仕方がない」
仕方がないで済ませていいのか、風紀委員。
肩を竦めて、私は二人に声をかけた。
「私、保健室に行ってくるね」
「おー。二限目までには戻って来いよ」
「そのつもりだよ」
ひらひらと手を振って、教室から出る。その際、廊下で生徒会役員と話していた柏木と眼が合ったが、私は知らない振りをして通り過ぎた。
や、実際に私関係ないし。
これぞまさに、我関せず。・・・何か違うような。
(どうでもいっか)
あっさりと思考を放棄して、階段を下りる。昇降口に比較的近い位置にある保健室を目指し、のんびりと、けれど早足で歩いた。
移動教室やら廊下で談笑する他生徒がちらりと私を見て、すぐに興味を失ったように友達との会話に勤しむ。途中で聞こえる、柏木の名に反応しそうになった自分が恨めしい。
どうにも、柏木の名前に敏感になっている。縁を切りたいのに、これじゃあ駄目だ。首を横に振ってさて、どうしようかなんて思っていたら、目的地に辿り着いた。
「失礼します」
ドアをノックし、保健室のドアを開ける。
「成沢先生、胃薬ください」
「あらあら・・・、どうしたのかと思えば。八雲先生みたいなことを言うのね」
回転椅子を回し、艶やかな黒髪を垂らした成沢先生が私を振り返る。
同性すら魅了する妖艶なこの保険医。実は50歳を超えていると言ったら、どれだけの人間が信じるだろうか?
よくて30代後半にしか見えない美貌は、まさに美魔女。数多くの女子に圧倒的な支持を持ち、憧れの的であるのも納得できる。
ちなみに、八雲とは司書である伏見先生の下の名前だ。
「若いとかそう言うの関係なく、胃が痛いんです。穴があいたらどうしようって思うぐらいに、痛むんです」
「・・・そう」
私に憐れんだ眼を向けて、成沢先生は椅子から立ちあがった。
「ストレスでも溜まってるのなら、発散しないと駄目よ? 八雲先生みたいに胃痛持ちになったら大変なんだからね」
「伏見先生はヘタレだから胃が弱いと思います」
「まぁ、否定はしないわね」
くすくすと笑って、薬棚から目当ての物を探す成沢先生から視線を外し、私は二つあるベッドの内、手前にあるベッドに腰を降ろした。息をついて、ぱたりと身体を後ろに倒す。
どっと疲れが押し寄せてきた。
「こらこら、寝ないの」
「寝ませんから、大丈夫ですよ」
「本当かしら」
失笑する成沢先生に心外だと思うが・・・。寝転がったまま言っても、説得力はないよね。そうは思っても、起き上がるのが億劫で動けない。ああ、怠惰になりそう。
「失礼します。成沢先生、いますか?」
ベッドでだらけていると、保健室のドアが開いた。
聞き覚えのある声に、もぞもぞと身体を動かして声の主を見る。やっぱり、知った人だ。
「今日の放課後なんですけど・・・って、西城さん?」
「おはようございます、香坂先輩」
「はい、おはようございます。ところで・・・ベッドに横になって、具合でも悪いんですか?」
「胃が痛いだけなので、気にしないでください」
「はぁ・・・?」
私の言葉に、香坂先輩は気の抜けた声を出した。
「それならいいいけど・・・あまり無茶をしてはいけませんよ?」
「善処します」
私の言葉に香坂先輩が苦笑した。
ううむ。穏やかな雰囲気を纏う先輩に、苦笑はあまり似合わないな。
私は成沢先生と会話をする香坂先輩の背を見ながら、ぼんやりと思考した。
香坂先輩は柏木の本性を知りながらも、後輩として柏木を可愛がっている珍しい人だ。普通の対応に柏木自身も香坂先輩を慕っていて、たぶん、上級生の中で一番柏木と仲がいい。
そんな香坂先輩は保健委員だ。
が、保健委員でありながら香坂先輩は虚弱か?! と驚くくらい線が細い。細身と言えば聞こえはいいが、女子よりも細いから重い物を持っている先輩を見ると心配になる程だ。
けれど・・・。
(隠れマッチョらしいしなー、香坂先輩)
霧生が独自に掴んだ情報によると、そうらしい。
細身に見えて、実は筋肉隆々。人を見た眼で判断したらいけないらしいが、先輩。着痩せしすぎじゃないですか。
「裕太君は真面目で良い子ね」
「どうしたんですか、唐突に」
本当にね。
「何でもないわ。あ・・・あったあった。冬歌さんあったわよ、胃薬。それとお水、お水っと」
胃薬だけじゃなくて、飲み水まで汲んでくれるとは・・・申し訳ない。
「はい、どうぞ。薬を飲んだら、教室に戻りなさいね」
「わかってますよ」
成沢先生から薬と水を受け取って、流し込むように口に含んだ。
気分的にだが、これで大丈夫だろう。何せ、病は気からって言うし。
「薬、ありがとうございました」
ベッドから降り、コップを流し台に置こうと歩いたが。
「ああ、いいわよ。そこに置いておいて。それよりも早く教室に戻りなさい。チャイムが鳴るわよ?」
成沢先生が保健室の真ん中にあるテーブルを指差されたのと、二限目が始まる5分前をさしている時計に素直に従うことにした。
重ね重ね、申し訳ない。
「それじゃ、お邪魔しました」
さて、教室に戻るか。
二限目って・・・確か、歴史だったような。
「あ、待ってください。西城さん」
「何ですか、香坂先輩?」
「途中まで一緒に行きませんか」
疑問符がない時点で、決定事項じゃないですか香坂先輩。
「さ、行きましょうか」
そして私の返事を聞かない、と。
恭しく私の右手をとり、歩きだす香坂先輩に呆れた眼を向けた。成沢先生が楽しげに笑う。
「本当、紳士的よね。裕太君は」
紳士なら、返答ぐらい待ちませんか?
香坂先輩はその言葉に返答せず、ドアを開けると「では、失礼しました」と深々と頭を下げて退室した。無論、私を連れて。
ドアが完全に閉まる前に、羨ましそうに私を見る成沢先生と眼が合った。音もなく赤い唇が動いて、何故だか「頑張って」とエールを貰った。それに首を傾げて意味を考えるけど、さっぱり判らない。
(何を頑張れと・・・?)
この状況のことかな? 香坂先輩と繋ぐ手を見るが、何だか違う気がする。だって授業時間が迫っているから廊下に人気は少なく、目撃者は皆無に等しい。なのに「頑張れ」と? さっぱり解らない。
「大丈夫でしたか?」
「胃なら薬を飲んだので」
「いえ、そうではなくて」
足を止めて、振り返る香坂先輩に私は瞬く。
「校門で柏木君に抱きしめられていたので、女性から何かされなかったかと思いまして」
「・・・・・・・・・見てたんですか」
「ええ、柏木君が西城さんの耳元で何かを喋る姿も」
「忘れてください」
「努力はします。それで、大丈夫でしたか? 女性は恋をすると・・・いえ、男女共に恋をすると恐ろしいそうですからね」
遠い眼をしてしみじみと告げた香坂先輩に、過去、何があったのかと聞きたい。
「大丈夫ですよ。中学みたいなのは、流石にしないでしょうし」
「ああ、あの時は凄かったですね。言葉だけで相手を言い負かし、泣かせて『もうしません、すいませんでした』と謝らせる西城さんは」
「・・・・・・何だか、悪者みたいに聞こえるんですけど」
「それはすいません。ですが、――――よかった」
誠意のこもった謝罪をした香坂先輩は、心からほっとした顔で笑った。
私の手を掴むのとは逆の手で、私の頬を優しく触れる。それはまるで慈しむような触れかたで、何故だか柏木を思い出した。
・・・どうして、柏木の姿が浮かんだんだろう?
「西城さんが傷つく姿を見るのは、もう嫌なんです。貴女の美しい顔が涙で濡れるのも、見たくないんですよ。僕はね、西城さん。貴女に笑っていて欲しいんです」
辛そうに顔をしかめた香坂先輩に、あえて言おう。
「そう言うことは、恋人に言ってください」
間違っても、仲の良い後輩に言う台詞ではない。
「まったく。さらりとそんな台詞を言うから、香坂先輩は人誑しって言われるんですよ。男も女も関係なく、どうして恥ずかしげもなく言えるんですか」
「僕は思ったことを言っただけなんですが・・・」
「余計、悪いですよ」
勘違いした女子生徒数名が、香坂先輩を巡って恐ろしく醜い争いをしていたのはつい最近のことだと言うのに。余談だが、その中に男子生徒がいた。・・・彼は、道を誤ってしまったんだろう?
目撃した霧生も、流石に男子生徒の写真は撮らなかった。
逆にそれを見た悠乃は眼を輝かせ「まさかBLを現実で見るなんてっ!」と一人、はしゃいでいたけど。
やれやれと肩を竦める私に、香坂先輩は困ったように笑う。
「・・・・・・まったく相手にされないとは、柏木君も手古摺るはずですね」
「何かいいましたか?」
「いいえ、何も」
「はぁ、そうですか」
妙に良い笑顔なのが気になるけど、追及を逃れるように歩き出した香坂先輩に言葉の変わりに疑わしい眼を向けてみた。気のせいじゃないなら、焦っているようにも見える。
手を引かれるまま廊下を歩き、階段を上る。
握り直された手に力が加わって、思わず足が止まった。
香坂先輩も足を止めて、一段上から私を見下ろす。逆光のせいか、先輩が怖いと感じた。
「ねぇ、西城さん」
先とは違う、低い声音に肩がはねた。
「貴女は残酷な女性ですね」
言葉の意味がよくわからない。
「知らぬ、存ぜぬで相手の心を傷つけているんですから」
「香坂、先輩・・・?」
掴んだ手を引かれ、階段を一歩上がる。
香坂先輩と距離が縮まるどころか、その胸に飛び込む形になって慌てた。離れようとする私を、香坂先輩は片手で抑え込む。見た眼と裏腹の力強さに、恐怖を抱いた。
恐れを帯びた眼で先輩を見上げれば、薄らと笑う姿が視界に映る。
「西城さん、僕はね」
耳元で香坂先輩が囁く。
「貴女の望みが叶わないことを願っているんですよ」
「それ・・・って」
「さぁ、教室に行きましょうか。もう少しでチャイムも鳴るでしょうし、急ぎましょう」
不吉な言葉に二の句を告げない私を穏やかに見つめ、香坂先輩は私から身体を放した。右手を引かれ、促されるままに足を動かす。
けれど私の頭で香坂先輩の言葉が繰り返し流れ、私を混乱の海に落とす。
(先輩は『貴女の望みが叶わないことを願っている』って言ったけど、どうして)
困惑に香坂先輩の背中を見るけど、言葉がくるはずもなく。
眼を伏せて、息を吐き出した。考えても、解らないなら時間の無駄だ。
「面倒くさい」
ぽつりと呟いた言葉は、どうやら先輩には聞こえてなかったらしい。
「ところで西城さん、知っていますか?」
「何を、ですか」
「僕も偶然知ったんですけど、近々、転校生が来るそうです」
「はぁ、そうですか」
正直、だからどうした。としか思わない。
「興味なさそうですね。けど、僕はその転校生が来ることによって、良い風が吹けばと思っているんですよ」
「はぁ。風、ですか」
「転校生が女性にしろ、男性にしろ、西城さんの周りは賑やかになりそうですよ」
「はぁ・・・」
「貴女はもう少し、向けられる感情に反応すべきですよ」
「はぁ・・・・・・はい?」
適当に相槌を打って話を聞き流していたせいで、話題が変わったことに気づくのが遅れた。え、どう言うことですか。それ?
「鈍感と言う訳じゃないのに・・・。西城さんは自分にそんな感情が向けられるはずがない、あり得ないと言う思い込みが強すぎるんですよ」
・・・そう、だろうか?
「そんな風に続けていたら、痺れを切らした狼に食べられますよ」
「狼って・・・。ありえませんよ、絶対に」
「何を言うんですか。男は皆、狼なんですよ。西城さんなんて、美味しく食べられてしまいます」
力説して言おう。――間違ってもそんなことはない。
と言うよりも、食べるって・・・。何だか表現がアレで嫌だな。
「そもそも、私相手に狼になる男なんていませんよ」
肩を竦めて告げた私を、香坂先輩が振り返って信じられないとばかりに凝視する。
唖然と開いた口から、何とも先輩らしから間抜けな声が発せられた。え、そこまで驚くことですか? ちょっとだけ、怯む。
「それは流石に、可哀想ですよ」
「誰がですか、誰が」
「・・・・・・・・・本当、向けられる感情に反応した方がいいですよ。ええ、西城さんの貞操のために」
空いた手で先輩は顔を覆い、深く溜息をついた。
「柏木君に同情しますね、これは」
「柏木、関係ないと思うんですけど」
「・・・冗談、ですよね?」
むしろそうであって欲しいと言うような先輩の表情だが、生憎と私は真面目だ。
沈黙したことでそれが真実だと知ったのか、香坂先輩が遠い眼をした。憐れむ視線は、話題に出た柏木に向けたのだろう。私には心底、どうでもいいことだ。
「本当、残酷な女性ですよ」
「そうですか」
「開き直らないでください」
香坂先輩が呆れたように呟いて、私から手を放した。
話している間に、二年の教室がある階まで来ていたらしい。・・・って、先輩。一段余計に階段上ってるんですけど、よかったの?
「でもね、西城さん。いつまでも知らぬ、存ぜぬでいられないんですよ」
私の傍を通り過ぎ、階段を下りる先輩がぽつりと告げた。
「狼は、貴女を逃がす気はないようですからね」
「・・・なら、捕まらないように気をつけますよ。ご忠告、ありがとうございます」
「清々しいまでの笑顔。・・・まったく。西城さんは何時まで、感情から眼をそむけ続けるんですかね。――では、また」
・・・それって、私が柏木に向ける感情のことだろうか?
だとしたらはっきりしている。柏木関係が面倒。柏木と離れたい。この二つだけれども、何故だろう。それとは別のことを言われたような気がするが、何かあっただろうか?
首を傾げて唸っても、思い当たる節はない。
(先輩は一体、何を言いたかったんだろう?)
階段を下りて行く香坂先輩を見送り、私は心の中で白旗を上げた。いや、考えることを放棄した。と言った方が正しいだろう。
何だかそれすらも面倒くさい気がして、私はすぐさま思考を捨てることを選んだ。
「っひ」
教室に戻ろうと身体を反転させると、腕組をして壁に寄り掛かる人物がいて叫んでしまった。いやだって、柏木が何だか凄く不機嫌な表情でじぃぃぃぃっと私を見ているんだよ? 恐怖と感じて何が悪い。
恋する乙女ならばきっと、「私を待っていてくれたのかしら」か「もしかして嫉妬?」と脳内お花畑にするんだろうけど、私にそんな愉快な思考回路はない。って、話が脱線した。
無言で私を見つめる柏木に、居心地悪さを感じて視線を逸らす。
眼を合わせたら、石化しそうで怖い。
「大丈夫なのか?」
「へ・・・?」
「体調が悪くて保健室に行ったんだろう? 大丈夫なのか」
「ああうん、薬飲んだから大丈夫だけど・・・。何で、保健室に行ったって解るの?」
ストーカーか、おのれは。
「香坂先輩が教えてくれた」
ポケットからスマホを取り出して、私の前でちらつかせる。
何時の間に、メールしたんだろう。気づかなかった。数分前のことを思い出してみるが、見ていた限り香坂先輩がスマホを弄っていたとは記憶していない。ううん、謎だ。
「・・・柏木、この手は何?」
俗に言う、恋人繋ぎを強制的にされた右手を見下ろしながら、私は柏木に問いかけた。
「大丈夫なら、教室に戻るぞ」
「ちょっ、だからこの手は何。放して!」
「断る」
何ですとっ。
人気のない廊下はともかく、教室なんて人目を集める場所で柏木と手を繋いで行きたくない。必死で抵抗するけど、悲しいかな。男女の力の差に負けてしまう。
柏木に引きずられるように歩き、近づく教室に眼頭が熱くなった。
こんな姿を見せたら一部から囃し立てられ、一部から恨まれる。胃薬を飲んだのに、また胃が痛くなりそう。無意識にお腹に手を当てた。
「早く教室に来た麻生先生が、暇だからって幕末志士を熱く語りだしたから俺達のことを誰も注目しないよ。麻生先生、歴史が絡むと人格が変わって怖いからな」
ああ、確かに。
普段は物静かで温厚、好々爺な麻生先生だけど好きな歴史が絡むと人格が豹変する。授業の度に口調も覇気も変貌し、荒々しく語りだすのだから恐ろしい。一年の時に夏目が麻生先生の授業で居眠りをしてしまったことがあるが、あの時の麻生先生は怖かった。
思い出したら恐怖で足が竦んだ。
「冬歌?」
いや、だけど上級生に口酸っぱく「麻生先生の授業で下手な真似をするな」と忠告を受けたにも関わらず、寝てしまった夏目が悪い。そして同じようなことをした、名も知らぬ同級生も悪い。
うう、でも夏目と名も知らぬ同級生が仕出かしてくれたおかげで、麻生先生の怖さが解ったんだと思うと・・・。責めるに責められない。実際、あの時も責めなかった。むしろ同情的で、身体を振わせて顔面蒼白になった夏目を皆して宥めていたっけ。
「やっぱり、体調が悪いのか?」
「・・・・・・・へ?」
「熱はないし、顔色も悪くない」
「っ!?」
意識を他に飛ばしていたせいで、柏木の接近に気づかなかった。
私の額に額を合わせた柏木の顔が、当たり前だけど近い。言葉を聞く限り、熱を測るための行動のようだけど・・・違う方法にして欲しかった。逃げようと、空いた手で柏木の身体を押す。
ぴくりとも動かないどころか、その手すら柏木の手に捕まる。
指を絡め、柏木が眼を細めた。
何だが凄く、デジャブを感じる雰囲気。――図書室の二の舞か!?
「なぁ、冬歌」
熱っぽい瞳が私を射抜いて、逃げろと訴える意思に反して身体が動かない。
「俺はお前を逃がすつもりはないから」
ぞくりと背筋が震えた。
「絶対に、冬歌の全てを手に入れる。俺以外の誰かのモノになんて、させない」
「・・・子供の頃の約束を言ってるなら、無効だと思うんだけど」
怯む心を叱咤し、虚勢を張って告げれば柏木が妖しく笑った。
するりと額を擦る様に動かし、屈めていた身体を元に戻す。遠ざかる柏木の顔に、ほっと安堵した。そんな気を抜いた瞬間、指を絡められた手が柏木の口元に誘導される。
「っな?!」
「有効だよ」
人差し指が柏木の口に銜えられ、舌で舐められる。
「無効になんて、させるはずがない」
軽く指を噛まれ、身体がはねた。
羞恥の限界を達し、私は柏木の右足を力一杯に踏んだ。が、予想していたのか柏木は私の攻撃をあっさりと避け、名残惜しげに両手を放す。
即座に柏木から距離をとり、警戒をした私に柏木が凄艶に笑う。
「俺は冬歌しか、愛せないんだから」
真っ直ぐに向けられる感情に、私は口を噤んだ。
「ああ、チャイムが鳴った。教室に行こうか、冬歌」
瞳に浮かべていた恋情の熱を消し、柏木が私に手を伸ばした。
私はその手をとらず、柏木を置いて教室に向かう。背後で柏木が押し殺すように笑った声がしたが、あえて無視した。これ以上、柏木に振り回されるのはごめんだ。
さっきのことはそう、記憶から綺麗に忘却しよう。そう思って息を吐き出し、頭を横に振る。よし、忘れた・・・はず!
教室のドアを開けた瞬間、麻生先生の声が聞こえた。
「西城、柏木。早く席に戻りなさい。遅刻にしますよ」
クラスメイトの視線が一瞬だけこちらを見て、すぐさま教卓に向かう。
麻生先生が黒板に書いた文字を消していく。おそらく、幕末時代のことを休み時間中に書いたのだろう。「勿体ない」と呟きながら消す姿は、異様だった。
「・・・・・・・・・ああ、勿体ない」
告げて、麻生先生がくるりと振り返った。
「さて、授業を始めようか。号令」
覇気のある声と共に、日直が号令をかける。
「では、前の続きの――――――」
私は教科書とノートを広げ、無意識にお腹を撫でていた手に気づいて苦笑した。
(本当、胃薬とお友達は勘弁)
短く溜息をついて、黒板に書かれた文字を写す作業に取り掛かった。