放課後に 2
誤字脱字を見つけ次第、直します。
珈琲を飲んで幸せな気分は、眼の前に広げられた数学の教科書を見た時点で急下降した。
「数学なんて・・・数学なんて」
親の敵のように眼の前の数字を見つめるも、まったくもって意味が解らない。この公式、どうやって解けと? いや、そもそもこんな公式、生活で絶対に使わない。
足し算と引き算、時々、掛け算と割り算が出来れば問題ないじゃないか! こんなの・・・こんな、意味の解らない文字の羅列、日常では必要ない!
よって、私は数学を覚える必要性はない!!
「学生には単位が必要だろう。うだうだ言ってないで、手を動かす」
「心を読むなぁぁ・・・」
「口に出してたんだよ」
なんと吃驚。
「冬歌は複雑に考えすぎなんだよ。数学なんて、公式さえ覚えれば簡単に解けるだろうに」
「その公式が覚えられないんだから、無理!」
「胸を張って言う台詞か?」
「・・・やけだよ」
自嘲すれば、嘆くような視線を向けられた。
やめて、そんな眼で私を見ないで。
泣きたくなるから。
自暴自棄になりそうだから。
視線を柏木からそらし、窓を見やる。外を歩くのは同じ学校の制服を着た、名も知らぬ生徒。時々、見知った人間を見るがこちらに気づいた様子はない。・・・あ、ありさと浅都だ。
ハートを乱舞させ、ピンク色のオーラを発する二人は・・・周囲の羨ましげな、妬ましげな視線に気づいていない。ありさはきっと、気づいていながら放置しているんだろう。性格、ちょっと悪いし。
「依久達か・・・。また放課後デートか、仲がいいことで」
「それも部活動がない時だけだよ。ありさは浅都が部活に専念できるよう、我慢してるからね」
「我慢・・・してたのか?」
「そうみたい。そんでもって、休日とか部活がない時は甘えて、なんだか激しい日になるって言ってたけど・・・。激しい日って何?」
「知りたい?」
「ううん、いいや」
何かを企んだような、意地の悪い顔を見たら知りたくなくなった。これはきっと、いや、たぶんどころか確実に、聞いたら駄目な奴だ。
残念と呟く柏木の表情は、まったく残念がってないのがまたなんとも。
「まぁ、冬歌もそのうちに知ることになるだろうし。その時に解ればいいんだよ」
そんな時がこないことを願おう。
切実に!
「ところでさ、柏木」
ああ、本当。真面目に数学爆発してくれないかな?
こうも意味不明な問題文ばかりだと、かーなーり、うんざりしてくる。
「お願いって、何を頼むつもりだったの? 変なことだったら、殴って警察に通報するよ」
「冬歌にとっての変なことってなんだよ」
「セクハラ?」
「疑問形かよ・・・」
柏木を見つつ、首を傾げて言えば苦笑された。
「セクハラね・・・。まぁ、とりあえずそんなことはないと思うから安心しろ」
「まったく、これっぽっちも安心できないんだけど」
「信用ないな、俺」
「柏木の何を信用しろと?」
ここ最近の行動を、胸に手を当てて思い出してみろ! 過剰なスキンシップが多いでしょうーが!!
あ、後・・・不意打ちに・・・・・・・・・不意打ち、の・・・・・・・・・・・・・・・。うん、ああ言う、羞恥心を爆発させることは止めて欲しい。思い出すだけで恥ずかしい。消えたい。
「顔が赤いけど、どうした」
「煩い馬鹿、ほっとけ阿呆」
全部、柏木のせいだ!
「ここ、計算ミスってるぞ」
「滅せよ、数学」
「怖い顔で恐ろしいことを言うなよ」
「爆発すればいい」
「無理だろ、それは」
呆れた顔の柏木が、何を思ったのか私の頭を撫でた。と、思ったら滑る様に頬を、そして首元を撫でる。
自然な動作に、思わず身体が固まってしまった。ついでに、思考も一瞬だが止まった。
「柏・・・木?」
どうしたのかと問うも無言で、柏木はシャーペンを持つ手を持ち上げ・・・。
「っ!?」
指先に口付けた。
「かし、柏木?!」
だけじゃなく、舌で舐められた上に人差し指を噛まれた。何で?!
いや、この状況は一体何? 何があってこうなった!? ひぃ、歯型を舌でなぞらないでよ変態!
くそっ、掴まれた手を振り払いたいのに、まったくもって放れてくれない。これが男女の力の差か・・・っ。ええい、こうなったら柏木を殴ろう。平手打ちしても大丈夫!
だって、悪いのは柏木だからね!
「ここ、怪我してたんだな」
「へ・・・・・・・・・?」
「人差し指、赤くなってたからまさかと思ったけど・・・。案の定、血の味がした」
「え、怪我? あ・・・」
本当だ、じゃなくて!
「だったら口で言ってよ、口で! 変態行動禁止!」
「こっちが手っ取り早かったからな・・・あーっと、確か絆創膏があったはず」
手っ取り早いからって、舐めたり噛んだりするか普通。
疑いの眼差しで柏木を見れば、慣れた手つきで絆創膏を貼っていた。・・・私、そんなもの常備してないんだけど。もしかしなくても、女子失格? いやいや、柏木が準備万端なだけで、私はそんな・・・。
うん、考えるのはやーめよ!
「それに、思い知らせるのにも最適だし」
「? 何か言った?」
「怪我しないよう、気をつけろよ」
「どこで怪我したのか判らないのに、気をつけれないよ」
「なら、俺が気をつけるから安心しろ」
「何をどう安心しろと?」
嫌な予感しかしないが、聞いてみたらいい笑顔を向けられた。
「将来」
「すいません、珈琲お代わりください」
聞こえなかったことにしたら、「つれないな、本当」と言われたが気にしない。視線も向けない。私は何も知らない。
見猿・聞か猿で行こう。
「ところで、だ」
柏木が私じゃない、誰かに呟いたようで・・・ん? 誰か?
「何をしてるんだ、佐伯」
「悠乃?」
どこにいるのと視線をめぐらせたら、以外に近くにいた。
しかも、メニュー表で顔を隠した状態で。
「・・・ふ、ばれちゃったら仕方がないわね! 相席させてもらうわね」
演技かかった動作をし、返答を言う前に何食わぬ顔で私の隣に相席して、あまつさえ、「カフェオレください!」と注文した悠乃にもう、私は言葉を失った。絶句だ、絶句。
何でここにいるの、とか。
どうして相席なのさ、とか。
にやにやと締りのない顔をするな、とか。
隠れてた意味は何、とか。
色々と聞きたいことは多々あるのに、言葉がない。
・・・あ、これって絶句より唖然の方があってるかも。
「ストーカーか、趣味の悪い」
「失礼ね、私にそんな趣味はないわよ」
胸を張って威張るなよ、悠乃。
「それより柏木君」
にやりと、悪人顔負けに笑って悠乃が柏木に人差し指を突き付けた。
「随分と大胆なことをするわね。イケメンだから許される行為だけど、公衆の面前でやるのはどうかと思うわよ。見てて眼福物で、思わずスマホで写真とる程の、まさに乙女ゲーム的展開に相応しい行為だったけど」
「はいはい。黙ろっか、ゲーム脳」
「痛いっ!?」
うわ・・・悠乃の指の骨がありえない方向に向きそう。
必死に柏木から逃れようともがく悠乃は、けれど口を閉ざさずさらに言葉を続ける。・・・うん、ある意味勇者だ。そして馬鹿だ。
「でもそんな行為も効果抜群だったわね! まさかあの場面を目撃するなんて夢にも思わなかったでしょう――――藍染さんも!」
「は?」
藍染・・・さん?
え、いたの?
理事長がそこにいたの!?
「窓を見てももういないわよ。何だか、この世に絶望したような顔で泣きながら走り去って言ったし。ふふ・・・あれは傑作だったわ。不愉快で理不尽な日々を過ごしてきた私が、心から爆笑出来るなんて素晴らしい! 嫌いだったけど、あの姿を見たらちょっとだけ好きになってもいいかもしれない。なんて思うほどにね」
「生き生きした声で言う台詞じゃない。それに・・・不愉快で理不尽な日々って何?」
「聞かないで」
真顔で言われた。
「おおかた、井上先輩だろう。今日も追いかけられて、熱烈なアプローチを受けてたらしいし」
「やめて言わないでっ!」
「ああ、それから貞操はちゃんと護っておけよ」
「いやぁぁぁぁぁぁああぁぁぁぁぁあぁぁぁぁっ!!!? な、なん、なんでそ、そんなことをっ! み、見たの? 見てたの? 見てたなら助けてよ非道、外道、鬼畜!」
けたたましい音をたてて悠乃が立ち上がり、大声で喚いた。その声に、先程からちらちらと煩わしそうにこちらを見ていた他の客達が、あからさまに苛立ちの眼を向けているんだけど。
絶対、悠乃は気づいていない。
髪をかきむしり、絶望したとばかりに叫んでいるから。
ここは、私が叱責すべきかな? 出入り禁止は嫌だし。
「お客様、店内ではお静かに」
「・・・ハイ、スイマセンデシタ」
静かな、けれど威圧的で有無を言わせぬマスターの言葉に、悠乃が恐怖からか片言で謝った。しかも、顔から大量の冷や汗を流して。身体を大げさなほどに震わせて。顔色を土気色にして。そっと、眼を彼方に向けている。
うん、言葉に殺気が籠っていたら、確かにそうなるわな。
しかし・・・貞操って、一体なにがあったの悠乃?
滂沱の涙を流して「勘忍してください」と呟く悠乃が、とても怖くてうかつに聞けないよ。
「人通りの少ない場所にいた佐伯が悪い。今度からは気をつけることだな」
「うう・・・そんなこと言うなら、助けてくれたっていいじゃない。私、あの時かなり必死で叫んで、足掻いて、もがいてたんだよ。酷い、外道。人でなしぃぃぃぃぃ」
「冬歌以外にかける情はない・・・が、一応、手はうったんだけどな。友人として」
「もう終わりだって時にタイミングよく現れた救世主は、柏木君の差し金か・・・。ふふふ、うっかり救世主に惚れるところだったよ。惚れなかったけど」
暗い表情で笑うのって、凄く怖いんだけど。
ねぇ・・・大丈夫、悠乃? 聞いても、空元気に「大丈夫」って言われそうだから口にしないけど。
しかし・・・うむ。
「ねぇ、柏木君」
「無理、却下」
「せめて話を聞いてよっ」
まったくもって、話の中に混じれない。
別にいいんだけどね、何だかこう・・・。イラっと言うか、ムッと言うか、奇妙な不愉快勘を感じてしまう。ついでに言えば、胃がむかむかする。珈琲の飲み過ぎだろうか? そんな馬鹿な!
頬杖をつき、ぼんやりと二人の遣り取りを見る。
どうしようもなく――――面白くない。
さっきまで私と会話をしていたのに、柏木は悠乃と喋ってこちらに視線すら向けてくれない。何だかつまらない。息をついて、シャーペンを握り直した。
・・・つまらないって、何が?
面白くないって、どう言う心境?
ああもう、自分の心なのにまったく解らない。
数学と同じぐらい、手に負えない。
「ああ、もう」
小さく呟いて、眼を閉じた。
「やってらんないよ」
こんな調子じゃあ、本当に縁なんて切れないじゃないか。




