誘惑
「ちっせー!柔らけー!!」
ぎゅーぎゅーと抱きこまれ、身動きもままならない。
「はっはなして!」
今私は、私を絞殺しかねないこの男に連れられて、なぜか黒沢先輩の家にいる。
「何もしないって言ったじゃないですか!」
なんとか腕の中から出ようともがくが、私が戸村先輩から教えてもらった方法では、とてもじゃないが体格が違いすぎて無理だ。
「そうよ、浩ちゃん。女の子が嫌がることはしちゃダメよ」
やんわりと窘めたのは、黒沢先輩のお母さんだ。
強面の黒沢先輩からは想像もできない、それはそれは上品なお母さんだ。
「こればっかりは、おばさんでも譲れねー。ヒロが止めるなら考えてもいいけど。」
おばさん!そのしょうがないわねって顔は見間違いですよね?
「天ももうすぐ帰ってくると思うから、少しだけ我慢してね」
にっこりとほほ笑むと、お茶とお菓子をテーブルに残し、おばさんは部屋から出て行った。
ええっ!この状況で置いてかれた・・・。
まさかの事態にあせりつつも、黒沢先輩って名前天って言うんだ、はじめて知った。
と、どうでもいいことを考えていた。
そもそも、私を抱き込んでいるこの大きな男は、黒沢先輩の幼馴染らしい。
らしい、というのは自己紹介もされておらず、まだ名前も知らない。
勝手知ったる他人の家といった様子で、黒沢家に居ることからしてほぼ間違いないだろう。
駅のそばで、今のようにギャーギャー騒いでいると、黒沢先輩のお母さんが通りかかったのだ。
「あら、浩ちゃんこんなところで何やっているの?彼女が嫌がってるわよ?そういうことは二人っきりの時になさい。」
急にお上品な女性に話しかけられ、私は反応できなかったがその間にも二人の会話は交わされていく。
「ちげーよおばさん!俺の彼女じゃねー!」
「じゃあ、どうして抱きしめたりしてるの?それじゃ痴漢だわ。警察を呼んだ方がいいかしら?」
「こいつは、ヒロをビビらしてる女!こんなちっせーのに!」
「まぁ、こんなかわいらしい子が?」
始終、うふふと笑みを浮かべ突っ込みどころ満載な会話を交わしていた女性は、視線を私におろすとこう言った。
「私、ぜひあなたとお話してみたいわ!うちにいらして!」
そして、ペースは違うが押しがやたら強い二人になんだか良く分からないうちに、黒沢先輩の家に連れて行かれたのだ。しかも、家の表札を見てやっと『うち』が黒沢家と確信できた次第だ。
お話してみたいわ!といった割には、私はこの名前も知らない男に抱き込まれたまま、黒沢家のリビングに放置された訳である。
とりあえず、どうやったら私を拘束しているこの腕から逃れられるか思案していると、目の前に何かがずいっと差し出された。
それは、フォークに乗ったおばさんがテーブルに置いていったケーキだった。
「ほれ」
「・・・」
このケーキをどうしろと?まさか名前も知らない男の手ずから食えと?
固まっていると、子犬でも見守るような優しい目をした男に再度ケーキを差し出される。
「・・・ほれ、うまいぞ」
「・・・」
「・・・」
「・・・」
無言の圧力に負けたのは私だった。
思い切ってパクリとケーキを食べると、口の中で甘みが広がる。
「・・・おいし」
なにこれ、すごいおいしい!そこからは差し出されるケーキを躊躇なく口に入れる。
もうすぐ、2個目のケーキも終わりという時、リビングの扉が開いた。
私は口をあけ、今まさにケーキが口に入らんとしているときだった。
視線だけを音のした方へ無意識に向けると、そこには唖然とした黒沢先輩が立っていた。