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悪役令嬢になったのは……

悪役令嬢になったのは、ずっと月白ふゆがそう動かしたから

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/04/20

本作は「悪役令嬢になったのは……」シリーズのメタ寄り番外編です。

各作品のヒロインたちが、作者の部屋にまとめて呼ばれてしまった夜の話になります。


シリーズ既読の方の方がより楽しめると思いますが、雰囲気だけでも拾っていただけたら嬉しいです。

少し騒がしくて、少し意地が悪くて、それでもどこか愛着のある夜になればと思います。

 北海道の春は、春の顔をして油断を誘うくせに、夜になると平気で冬へ戻る。


 昼間に少しだけ緩んだ雪が、夜にはまたしれっと白い顔をして窓の外へ張りついていた。アパート二階の小さな部屋は、古いストーブの熱でどうにか人間の住処を保っている。壁際の本棚は少し歪み、机の脚はわずかにぐらつき、安物のカーテンは隙間風にかすかに揺れていた。


 月白ふゆは、コートを脱ぐ前にまずマグカップへ手を伸ばした。朝に淹れて、飲みきれないまま出勤したコーヒーは、当然ながら冷えている。それでも一口飲む。仕事帰りの癖だった。介護の現場を一日ぶん引きずって戻ってきた頭には、熱いより先に苦味がほしい。


 今日は予定通りに終わらなかった日だった。転びそうになった利用者を支え、眠れないと訴える人の手を握り、食べられないと首を振る人へどうにか一口入れて、申し送りで言葉にしきれない小さな違和感をいくつも置いてきた。そういう日の身体には、腰や肩だけではない重さが残る。誰かの夜の不安まで、ポケットに入れたまま帰ってきてしまったような重さだ。


 椅子へ腰を下ろすと、机の上に広げっぱなしのメモが視界へ入る。そこには九人分の名前が並んでいた。


 グレイシア。

 マリアベルデ。

 絢音。

 リシェル。

 セレスティア。

 カティア。

 エルゼリア。

 セラフィーナ。

 エルミナ。


 名前の横には、作品名の断片と、性格の走り書きと、会話のメモと、消したはずなのに消えきらなかった文が、矢印と波線まみれで残っている。九人も揃うと圧がすごい。紙の上なのに、すでに文句を言われている気配がする。


 スマホには、なろうのマイページが開きっぱなしだった。プロフィール欄に書いた自己紹介文が、いま見ると少しだけ気取って見える。


 正義が少しズレた世界。善意が誰かを追い詰めてしまう瞬間。役割を外れた人間が、それでも生きていく話。世界は正しい顔をして、人をこぼすことがある――。


「……うわ」


 自分で書いておいて、自分で少し引いた。疲れている夜の文章は、どうしてこう、数時間後に読み返すと面倒くさい匂いがするのだろう。


 ふゆは両手で顔を覆い、それから机の上の九枚のメモへ視線を戻した。


 置かれるべき場所を知っていた女。

 受け入れていた女。

 数字を信じすぎた女。

 叱られなかった女。

 許されすぎた女。

 比べられ続けた長女。

 匙を握り続けた女。

 期待されすぎた女。

 切ってはいけなかった婚約者。


 誰ひとり同じではないのに、全員ひっくるめて悪役令嬢と呼ばれる。


「もういいから、まとめて来てよ……」


 独り言のつもりだった。誰に向けたのか自分でも分からない。窓の外の雪にでも、机の上の紙にでも、明日もまた出勤しなければならない自分にでもよかった。


 その時、ストーブが小さく鳴った。


 机の上の紙束が、風もないのに一枚だけめくれた。


 そこに書かれていた文字が、そのまま音になった。


 ――『悪役令嬢になったのは、ずっと聖女が王子に粉をかけていたから』、グレイシア・モルヴェン。


 次の瞬間、部屋の真ん中に女が立っていた。


 深い色の衣がよく似合う長身の女だった。立っているだけで、六畳の狭さに一本、まっすぐな線が通る。彼女はまず部屋の広さと窓と机と椅子の数を見て、それからふゆを見た。


「作品名まで読み上げるのね。趣味が悪いわ」


 ふゆはマグカップを持ったまま固まった。言い返す前に、また紙が鳴る。


 ――『悪役令嬢になったのは、ずっと比べられていたから』、カティア・ヴァルモン。


 今度現れた女は、グレイシアとは別の意味で背筋がきれいだった。華を削って整えてきた人の立ち方だと、見てすぐ分かる。部屋へ入った瞬間に椅子の数を数え、眉を寄せる。


「呼ぶなら椅子くらい増やしなさい」


「いや、呼んだつもりじゃ」


「その言い訳はあとで聞くわ」


 そこで終わらなかった。


 ――『悪役令嬢になったのは、ずっと受け入れていたから』、マリアベルデ・クランツェル。

 ――『悪役令嬢になったのは、ずっとカミの数字を信じていたから』、鷹宮絢音。

 ――『悪役令嬢になったのは、ずっと誰も叱ってくれなかったから』、リシェル・オルディア。

 ――『悪役令嬢になったのは、ずっと許されていたから』、セレスティア・ヴァルセイン。

 ――『悪役令嬢になったのは、ずっと銀の匙を使わされていたから』、エルゼリア・ヴァルトハイム。

 ――『悪役令嬢になったのは、ずっと期待されていたから』、セラフィーナ・オルディス。

 ――『悪役令嬢になったのは、ずっと隣国の姫に愛されていたから』、エルミナ・ヴァレンシュタイン。


 名前が読まれるたび、部屋の空気が少しずつ変わっていく。


 柔らかなのに芯を持った気配。

 現代の上流を歩いてきたような硬質さ。

 酒に弱そうなのに本人だけ平然としている静かな女。

 圧倒的に華があって、何もしていないのに人の視線を奪う女。

 銀の匙をいつのまにか手にしていて、それがごく自然に見える女。

 隙のない侯爵令嬢然とした女。

 削られてなお背筋を崩さない女。


 気づけば、部屋には九人の令嬢がいた。


 全員が初対面の相手を静かに見ている。誰も礼を失ってはいないのに、誰一人として気安く笑わない。空気が悪いというより、九方向へ引っ張られた糸がぴんと張っている感じだった。これが舞踏会の大広間ならまだしも、六畳のアパートでやられると圧がすごい。


 耐えきれなくなったふゆが、机の前でおそるおそる手を挙げる。


「あの、ちょっと待って。たぶんこのままだと、全員めんどくさいまま睨み合うから、せめて自己紹介だけしない?」


「めんどくさいまま、とは失礼ね」


 絢音が即座に言った。けれど否定はしない。


「合理的ではあるわ」


 グレイシアが腕を組む。「誰がどの程度面倒か、先に分かった方が早いもの」


「それもだいぶ失礼だけど、今は流す」


 ふゆは深呼吸した。「じゃあ……左から?」


「司会が曖昧すぎる」


 セラフィーナが静かに言ったが、グレイシアはもう口を開いていた。


「グレイシア・モルヴェン。王子だの聖女だの王だのの周辺で、長く厄介ごとを片づけていた女よ。場が回らないのは好きじゃないわ。あなたたちが誰であれ、そこは変わらない」


 続いたカティアは、少しだけ疲れた顔で会釈した。


「カティア・ヴァルモン。家の綻びを黙って縫わされていた長女よ。兄と妹と婚約者の後始末には慣れているけれど、今日はその役目をする気はないわ。……たぶん」


 そこでマリアベルデが小さく笑ってから頭を下げた。


「マリアベルデ・クランツェルと申します。領地のために王都へ通い続けていた伯爵令嬢でした。静かな方が好きですけれど、必要な時は黙りません。どうぞよろしくお願いいたします」


 絢音はスマホの画面を一度見てから、軽く肩をすくめた。


「鷹宮絢音。現代日本から来た財閥令嬢、と言うのがいちばん早いわね。数字と構造で物を見がちだから、綺麗事はあまり信用しない。あと、作者のプロフィール文は少し盛ってると思う」


「自己紹介で作者にダメ出し入るの?」


「必要なことなので」


 リシェルは壁際から少しだけ前へ出た。白い顔で、けれど言葉は整っている。


「リシェル・オルディアです。正しいことを言っているつもりで、そうではないと言われ続けてきました。……私、死んでますけどね」


 空気が一拍だけ止まった。


「そこ、そんなさらっと言うのね」


 ふゆが思わず言うと、リシェルはほんの少しだけ目を細めた。


「言わないと、あとで驚かれますから」


「それはそうだけど」


「あと、酒には弱いかもしれません」


「そっちの情報の方が大事かもしれないわね」


 セレスティアが妙に真面目な顔で頷いたあと、自分の番だと気づいたらしく、すっと背筋を伸ばした。


「セレスティア・ヴァルセインですわ。たぶん、ここにいる中でいちばん“止めてもらうのが遅かった女”ですの。今は学び直しの途中だから、勝手に物へ手を伸ばしたりは……しない、つもりよ」


「つもりなのね」


 カティアがぼそっと言った。


 エルゼリアはどこからともなく銀の匙を取り出していた。もはや誰もそこへは突っ込まない。


「エルゼリア・ヴァルトハイム。感じの悪い女と見られがちだけれど、だいたいその通りよ。ただし、そう見えるだけでは済まなかった事情もある。食事と酒は確認してから飲むから、先に言っておくわ」


 セラフィーナは最後まで一分の隙もない姿勢で言った。


「セラフィーナ・オルディス。期待され、厳しい役を担うよう育てられてきました。感情的な場は得意ではありませんけれど、必要な言葉は省きません。今日もおそらくそうします」


 最後にエルミナが、やわらかくも揺らがない目でふゆを見た。


「エルミナ・ヴァレンシュタイン。切ってはいけなかった婚約者、とでも言えば早いかしら。隣国の姫に愛されていたから、いまもこうして立っています。皆さま、どうぞよろしく」


 九人分の自己紹介が終わると、部屋にはまた妙な沈黙が落ちた。


 ふゆはその全員を見回して、確信する。普通の飲み会には絶対にならない。


「……で、たぶん皆、私に何かしら言いたいよね」


「ええ」


 最初に頷いたのはグレイシアだった。


「だいぶあるわ」


 カティアも即答する。


「苦情は三点に整理済みです」


 セラフィーナがそう言った瞬間、ふゆは頭を抱えた。


「待って、整理しなくていい。余計怖いから」


「まず私からでよろしいかしら」


 グレイシアは構わず言った。「確認するけれど。あなた、人を断罪の場に立たせるのが好きなの?」


「語弊がある」


「そう? かなり正確だと思うけれど」


 そこへマリアベルデが静かに手を挙げた。


「あの、私も一つ」


「はい……」


「四人は、少し多くありませんか」


 部屋の空気が止まり、次の瞬間、絢音が吹き出した。


「そこ、本人から来るのね」


「だって多いでしょう」


 マリアベルデは真顔だった。「必要だったのでしょうけれど、それにしても、もう少しこう……段階的な手心というものは」


 ふゆは反射で言い返しかけて、そこで口をつぐんだ。


「……だって、そこまで削れた時に何が残るのか見たかったから」


「……あなた」


「ひどいのは分かってる」


「ええ。よく分かるわ」


「でも、マリアベルデなら、削れた先でも何かを残すと思った」


「買いかぶりよ」


「たぶん、かなり」


 マリアベルデは少しだけ呆れたように、けれど完全には突き放さない目でふゆを見た。その視線の重さに、ふゆは自分がだいぶろくでもないことを言った自覚を改めて持つ。


 絢音が腕を組む。


「私もあるわ。慈善晩餐会で婚約破棄。だいぶ性格悪いわよ」


「そこは、舞台装置として」


「知ってる。しかもその上に広報、支持率、株価、再開発、監視社会。盛りすぎ」


「あなたなら処理できると思って」


「ほら、その言い方」


 絢音はため息をつく。「“現代版悪役令嬢ならこのくらい背負えるでしょ”って雑に投げてる」


 壁際から、リシェルの静かな声が落ちる。


「私、死んでますけどね」


 全員が一斉にそちらを見る。


「いや、それはさっき聞いた」


 ふゆが言うと、リシェルはほんの少しだけ目を細めた。


「そうではなくて。死ぬまで行かせるなら、もう少し早く誰かに叱らせてもよかったのでは」


「それは本当にそう」


 カティアが即答した。


 セレスティアが続く。


「わたくしも不服ですわ」


「何が」


「わたくしだけ、だいぶ“駄目な育ち方をした女”として書かれていないかしら」


「駄目だったじゃない」


 カティアが言う。


「でも今は学び直しているの!」


「そこは認める」


 エルゼリアが冷たく入る。「でも最初に手を伸ばしすぎよ」


「あなたに言われたくないわ。そちらだって、かなり感じの悪い女に見えるよう書かれていたじゃない」


「そうよ」


 エルゼリアがふゆを見る。「その件は苦情があります。最初、だいぶ嫌な女に見せたわよね」


「反転のためで」


「知ってる。でも趣味が悪いわ」


「はい」


「あと、匙の音で印象操作するのも感じが悪い」


「はい……」


 カティアが机を指で叩く。


「私もあるわよ。兄の後始末、妹の後始末、婚約者の後始末、全部やらせた挙句、“実は華がありました”で暴露に持っていくの、雑でしょう」


「そこはだいぶ大事な演出で」


「知ってるわよ。でも雑なものは雑」


 セラフィーナが静かに続けた。


「苦情は三点あります」


「やっぱり始まった」


「第一に、役目を背負わせる過程が精密すぎます。第二に、切られる場面の温度が冷たすぎます。第三に」


 そこでほんの少しだけ間を置いた。


「題を書く場面が、いちばん救いなのは少々悔しいです」


 ふゆが目を瞬くと、エルミナが静かに言った。


「わたくしは、二ヶ月半」


「はい」


「二ヶ月半の幽閉は必要でしたか」


「…………」


「必要だったのでしょうね」


 エルミナは自分で続けた。「迎えが来るためには」


 空気が一段沈む。ふゆは全員の顔を見回してから、小さく息を吸った。


「……もう無理。飲もう」


「逃げたわね」


 絢音が言う。


「ええ、逃げます。だって素面で受けるの無理でしょ」


「その点だけは同意するわ」


 グレイシアが先に棚へ手を伸ばした。


 そこからが本番だった。


 棚には買った覚えのない酒まで増えていた。日本酒、ウイスキー、ワイン、果実酒、見たことのない青い液体の瓶、異世界の酒蔵から運ばれてきたみたいな陶器の壺まである。空間が作者の都合で歪むなら、酒瓶くらい増えるのだろう。


「未開封を、目の前で開けて」


 エルゼリアが言う。


「その前にラベル」


 絢音が言う。


「糖度は控えめのものが一つ必要です」


 セラフィーナが言う。


「リシェル様には、あまり強くないものを」


 マリアベルデがすでに配慮に入っている。


「これ、可愛い」


 セレスティアが淡い果実酒の瓶へ目を輝かせる。


「あなたにはそれで十分でしょう」


 絢音が見もせずに言う。


「十分って何。子ども扱い?」


「適材適所」


「その言い方、ちょっとカチンとくるわ」


「でも図星でしょう」


 その横で、グレイシアは一番強そうな蒸留酒をもう選んでいた。瓶を持ち上げ、光を透かし、香りを見て、勝手に自分のグラスへ注ぐ。


「あなた、それも疑うのね」


 エルゼリアが少し意外そうに言う。


「疑うというより、選ぶだけよ」


「最初から信じないの?」


「何でも信じるほど暇ではないわ」


 その返しに、絢音が小さく笑った。


「気が合うわね」


「面倒くさい方向でね」


 椅子は足りず、グラスも揃わなかった。マグカップ、湯呑み、薄いワイングラス、ノベルティのタンブラーまで総動員される。セラフィーナが一瞬、本気で顔をしかめた。


「器の統一感がありません」


「ここ、普通の部屋だからね」


「呼ぶなら最低限整えなさい」


「二回目」


「覚えておいてください」


 カティアがやけに手際よくコップを配り始める。愚痴っていても動ける人の悲しさだった。


「ほら、これ。立ってると余計イライラするから、とりあえず持って」


「あなた、そうやってすぐ回す」


 グレイシアが言う。


「回さないと誰も回さないでしょう」


「それ、だいぶ染みついているわね」


「知ってるから腹立つのよ」


 最初に崩れたのは空気だった。


 セレスティアは果実酒を一口飲んで、ぱっと顔を明るくした。


「美味しい」


「分かりやすいわね」


 絢音が言う。


「素直でいいじゃない」


「素直すぎると、別の意味で危ないのよ」


 その横でエルゼリアは、酒そのものよりも自分の体調の変化を確かめるようにゆっくり飲んでいる。絢音はラベルと香りを見ながら喉へ落とし、グレイシアは最初から躊躇がない。セラフィーナは姿勢だけ正しく、でも飲む速度が地味に早い。リシェルは一口で耳が赤くなった。


「あなた、弱いのね」


 セレスティアが率直に言う。


「たぶん」


「たぶんって何」


「飲む前から分かることばかりではないので」


「妙に正しいわね」


「いつも正しいのよ、この人は」


 カティアが言う。「それで損するタイプの」


 乾杯も変だった。なぜかセラフィーナが「では、作者の責任の明確化と各自の損害確認を兼ねて」と言い出し、グレイシアが面倒になったらしく「乾杯」の一言で終わらせた。


 最初に意気投合したのは、予想通りグレイシアと絢音だった。どちらも、人の感情そのものより先に、構造や配置を見る側だからだ。数字と配置。見ているものは少し違うのに、噛み合う速度が妙に早い。


「あなた、数字で人を見るのね」


 グレイシアがグラスを揺らしながら言う。


「あなたは配置で人を見る」


 絢音が返す。


「似たようなものでしょう」


「少し違うわ。数字は死ぬけれど、配置は残るもの」


「面白い言い方するわね」


 絢音が少し笑う。「でも分かる。表に出る数値はすぐ変わる。けれど、誰をどこに置いたかの癖は、組織に残る」


「あなたの世界はその手の腐敗が多そうね」


「そちらほど露骨ではないけれど、優しい顔をしているぶん厄介」


 二人の会話が、妙に滑らかに回り始めたその横で、今度はエルゼリアが絢音へ視線を向けた。噛み合ったのは、また別の種類の警戒心だった。


「確認しないと飲めないの」


 エルゼリアが当然のように言う。


「分かる。信じるって、コスト高いもの」


 絢音が返す。


「あなたの世界でも?」


「むしろこっちの方がひどい時もあるわ。表向きの善意が増えるほど、確認項目が増える」


「面倒ね」


「面倒で済むなら安い方」


「……それはそう」


 妙なところで通じたのが面白かったのか、エルゼリアがほんの少しだけ口元を緩めた。ふゆはその瞬間を見逃さなかったが、たぶん言わない方がよかった。


 酒が二杯目へ進んだ頃、カティアの愚痴は本格的に始まった。


「だって本当に何なのよ、“優秀らしい兄”って。らしいって何。昼間は立派な顔してるくせに、夜になったらこっちが書類の封蝋から贈答の順序から全部直してるのよ。妹は妹で、可憐らしく失言して、私が場を繕ったあとに“お姉様が怖かった”で終わり。笑うしかないでしょ」


「笑えないわね」


 グレイシアが即答する。


「私もよ」


 セラフィーナが続ける。「優しい方を優しく見せるには、厳しい役が必要ですから」


 カティアが半目になる。


「あなた、そういうことをそんな綺麗な声で言うのずるいわ」


「事実確認です」


「それを恨み言って言うのよ」


「期待というのは便利な呪いです」


 セラフィーナは表情をほとんど変えずに言った。「かける側は善意のつもりでいられますから」


「当然視も同じよ」


 カティアが食い気味に返す。「できる方がやればいい、気が利く方が埋めればいい、ちゃんとしている方が黙ってやればいい。期待よりなお悪いわ」


「ですがあなたは“どうせ私がやる”で引き受けすぎる」


「あなたは“やるべき”を内面化しすぎ」


 互いへのダメ出しが早い。


「その通りね」


 グレイシアが横から楽しそうに言った。


「痛いわね」


 カティアが顔をしかめる。


「痛いことを言われる会なのでは?」


 セラフィーナは本気で不思議そうだった。


「あなた、酔ってもそれなのね」


「何がです」


「議事録の人」


「必要なので」


「ほんとに怖い」


 そのあとで、グレイシアが何でもない調子で言った。


「知ってるわ。だから、あなたみたいな人が先に削れるのよ」


 セラフィーナはすぐには返さなかった。酔っていても姿勢は崩れない。指先も、グラスの持ち方も、声の置き方も乱れない。けれど、その整い方そのものが、急に少しだけ痛々しく見えた。


「……役目に誠実すぎた、ということでしょうか」


 問いかけるような声音だった。誰かへ向けたというより、長く自分へ言わせてこなかった確認のように聞こえた。


「ええ。面倒なほどに」


「褒められている気がしません」


「していないもの」


 そこでようやく、セラフィーナはごくわずかに口元を緩めた。笑ったというより、きちんとしている顔のまま、少しだけ力が抜けた、という方が近かった。


 一方で、意外なところが繋がり始めていた。


 セレスティアが机の上の硝子ペンを見て、小さく呟く。


「綺麗」


 前のめりになりかけて、そこで止まる。


 その小さな動きを見ていたリシェルが、壁際からぽつりと言った。


「止まれたの」


 セレスティアが顔を上げる。


「ええ」


「すごい」


 セレスティアは目を瞬いた。褒められたのかどうかを判断しかねている顔だった。


「羨ましい、とは思わないけれど」


 リシェルは少し間を置いた。「でも、止められなかったことは少し似てる」


「何が」


「あなたは、手を伸ばしてはいけない時に止められなかった。私は、止まらなければいけない時に、誰にも止められなかった」


 セレスティアはグラスの縁を見つめる。


「叱られるの、嫌いだったの」


「私は」


 リシェルが静かに言う。「叱られないのは、問題がないからだと思ってた」


 部屋が一瞬で静かになる。その重さに耐えきれなかったのは、セレスティアだった。


「やめて。酔ってる時にその話は刺さりすぎるわ」


「じゃあ別の話する?」


 カティアが顔を上げる。「兄がね」


「それはもっと嫌」


 絢音が即答し、初めて全員が少し笑った。


 マリアベルデとエルミナは、派手ではないけれど、もっとも穏やかに話せる組み合わせだった。


「あなたは、削られても礼を失わないのですね」


 マリアベルデが言う。


「そちらも、耐えたあとでなお次を見ている」


 エルミナが返す。


「見ないと進めませんでしたから」


「ええ。わたくしもです」


 それだけの会話なのに、互いに分かるものがあるのが伝わる。耐えてきたことを美徳にせず、でも無かったことにもできない人間の静かな了解だった。


 ふゆは、その輪に自分が簡単には入れないのを少しだけ感じていた。書いたのは自分でも、その痛みの置き場所まで勝手に知った顔はできない。


 だから、プロフィール文を絢音が読み上げ始めた時、ふゆは本気で止めたかった。


「“世界は正しい顔をして、人をこぼすことがある”」


 絢音がスマホ画面を見て、面白がるように読む。


「ずいぶん綺麗に言うわね」


「やめて」


「“ざまぁを書いても、誰かを殴り倒す話にはなりません”」


「やめてって」


「“最後に残したいのは恐怖ではなく、余韻です”」


「もう本当にやめて」


「ブランド設計が入ってる」


「入るでしょプロフィールなんだから!」


「ちょっと格好つけすぎね」


 カティアが容赦なく言う。


「でも核はそこそこ正しいわ」


 グレイシアがグラスを傾ける。


「“正しい顔をして、人をこぼす”は、まあ、あなたらしい」


 エルゼリアが低く言う。


「趣味が悪いけれど、分かってはいるのね」


 セラフィーナはスマホを覗き込みながら冷静だった。


「自己評価が少し混ざっています」


「そこまで言う?」


「言います」


 セレスティアだけが素朴に首を傾げる。


「自己紹介で、そんなに深刻なことを言うの?」


「言いたくなる夜もあるんだよ」


「酔ってたのね」


「書いた時は素面」


「なお悪いわ」


 ふゆは机に額をつけたくなった。


「あなた、そういう顔するのね」


 グレイシアが見ている。


「どういう顔」


「本当に刺さった時の顔」


「自覚ない」


「でしょうね」


 その横で、絢音がふっと真面目な顔になった。


「でも、これは分かるわ」


 スマホの一文を指でなぞる。


「世界は正しい顔をして、人をこぼす。だから、私たちみたいなのを書くのね」


 ふゆは少しだけ言葉に詰まった。


「悪役令嬢って一言で片づけるの、便利すぎるから」


「便利よ」


 絢音は淡々と頷く。「現代のメディアもそういうの好きだし。複雑な事情を、分かりやすい悪役にまとめると数字が取れる」


「あなた、それ自分で言うと重いわね」


 カティアが言う。


「自分も加担してたもの」


 絢音はさらりと返す。「そこを無かったことにはしないでしょ」


 マリアベルデが静かにふゆを見る。


「私たちを動かしたのはあなたです」


「うん」


「使ったとも言える」


「うん」


「でも、置いていかなかった」


 ふゆは言葉に詰まる。


 ありがたい、だけではなかった。困っているのに、頭を抱えているのに、どこかでひどく嬉しいとも思っていた。紙の上でしか知らなかった女たちが、ちゃんとそれぞれ別の顔でここにいる。そのこと自体が、書いた側には少し反則なくらいの救いだった。


「……たぶん」


 ふゆは正直に言った。「置いていくつもりでは、なかった」


 エルミナが、そこへ少しだけ微笑んだ。


「置いていく書き方なら、ここまで嫌われないわ」


「嫌われてるんだ」


「だいぶ」


 グレイシアが即答した。


「でも、まったく嫌われていない人が書いた感じでもない」


 その評価はありがたくて、少し嫌だった。


 酒は進み、会話はさらに雑になる。


 グレイシアとカティアは、気づけば「仕上がっていたのに正しく置かれなかった女」同士の話になっていた。


「あなた、裏方で擦られすぎたわね」


 グレイシアが言う。


「あなたは最初から上に置かれるのが見えていたでしょう」


 カティアが返す。


「見えていたのではなく、見えるように動いたのよ」


「そういう言い方ができるの、腹立つわ」


「できるだけの位置にいたもの」


「私はいなかったのよ」


「ええ。そこが違うわね」


 終盤、なぜか全員の矛先がふゆへ戻ってきた。


「で」


 絢音が言う。「次はどうするの」


「次?」


「また書くのでしょう」


「そりゃ書くけど」


「だったら、もう少し椅子を用意しなさい」


 カティアが真顔で言う。


「最初から酒も」


 エルゼリアが続ける。


「未開封で」


「議題整理も事前に」


 セラフィーナが当然のように乗る。


「暖房の調整も」


 マリアベルデ。


「万年筆はしまっておいた方がいいわ」


 セレスティアが妙に親切そうに言う。


「あなたのためじゃなくて、わたくしのために」


「正直でよろしい」


 エルミナが静かに言い、リシェルは半分眠った声でぽつりとこぼす。


「叱るのは、引き受けること」


「まだ言うのね」


 ふゆが笑うと、リシェルは目を閉じたまま頷いた。


「大事だから」


 その一言で、妙に全部が締まってしまうのが、この人のずるいところだった。


 夜更けには、だいたい皆それぞれの崩れ方をしていた。


 カティアは机に突っ伏し、なお兄と妹への文句を寝言みたいに言っている。セレスティアは陽気だったのに途中から妙にしんみりして、今はクッションに頬を押しつけながらペン立てを見ているだけだ。リシェルは完全に眠そうで、マリアベルデが膝へ毛布を掛けている。セラフィーナは酔っても議事メモを書いていて、絢音は最後まで顔色ひとつ変えず、エルゼリアは最後の最後にだけ少し警戒を解いた。グレイシアとエルミナは崩れ切らず、ただ座る位置だけを選び直していた。


 ふゆは床に座ったまま、その光景を見ていた。


 悪役令嬢なんて一括りにしたくなくて書き始めたはずなのに、こうして並ぶと本当に誰一人同じ女ではない。置かれるべき場所を知っていた女。受け入れていた女。数字を信じすぎた女。叱られなかった女。許されすぎた女。比べられ続けた長女。匙を握り続けた女。期待されすぎた女。切ってはいけなかった婚約者。


 そしてその全部を、結局は自分が動かした。


「ねえ」


 ふゆが小さく言う。


「ごめん、は、ちょっと違う気がするんだけど」


 返事はない。眠っているのか、聞いているのか、分からない。


「でも、ありがとう、は、たぶん言いたい」


 その時だけ、エルミナかマリアベルデか、どちらか分からない静かな笑みがひとつだけ見えた。


 朝。


 目が覚めると、ストーブは消えていて、部屋は少しだけ寒かった。頭が重い。机に突っ伏して寝たらしく、頬に紙の跡がついている。


 九人の姿は、もうない。


 夢かと思ったが、机の上を見て、すぐに違うと分かった。


 洗われたグラス。閉じられた酒瓶の栓。並べ直されたコースター。元の位置に戻された万年筆。そして、何枚もの書き置き。


 まず一番上にあったのは、癖のない端正な字だった。


 椅子を増やしなさい。

 議題は整理済み。

 なお酒量と器の統一感については改善の余地があります。

 ――セラフィーナ


 次の紙は、少し力の入った字で、


 椅子が足りないし、酒の段取りも雑。

 でも、少しだけ楽だったから今回は見逃す。

 兄の件はまた今度聞いて。

 ――カティア


 柔らかい字で、


 暖房をもう少し調整してください。

 リシェル様が冷えていました。

 あと、夜勤明けにあの量は無茶です。

 ――マリアベルデ


 切れ味のある字で、


 プロフィール文は少し盛っています。

 ただし核は嘘ではなさそう。

 次回があるなら酒の銘柄は先に共有を。

 ――絢音


 揺れた字で、短く、


 叱るのは、引き受けること。

 忘れないで。

 ――リシェル


 異様に美しい字で、


 万年筆、欲しかったけれど我慢したわ。

 かなり偉いと思うの。

 褒めてもよろしくてよ。

 ――セレスティア


 冷たいけれど整った字で、


 未開封で用意すること。

 匙を使わせるような真似は減らしなさい。

 ――エルゼリア


 静かな字で、


 守ったことが返ってくる話は、書き続けてよいと思います。

 ただし迎えは、もう少し早く。

 ――エルミナ


 最後に、短く強い字で、


 悪役令嬢なんて、ひとつも同じ顔をしていなかったでしょう。

 次に呼ぶなら、それを忘れないこと。

 ――グレイシア


 ふゆは一枚ずつ読んで、最後に笑った。頭は痛いし、部屋は寒いし、生活は全然ドラマティックではない。


 けれど、机の上に残った九人分の筆跡には、夢よりずっと質量があった。


 新しいコーヒーを淹れ、ふゆはノートを開く。昨夜の続きへ、少しだけ迷ってから書き足した。


 世界は正しい顔をして、人をこぼすことがある。

 だから、こぼれたままの顔で終わらせたくなかった。

 ただし、呼ぶなら最初から酒を出す。


 最後の一行だけは、たぶん誰にも見せない。そう決めてから、ふゆはコーヒーをひと口飲んだ。


 その時だった。


 机の端に置いていた、昨夜は何も書かれていなかったはずの白紙が、一枚だけひとりでにめくれた。


「……え」


 ふゆはカップを置く。


 白紙の中央に、見覚えのない文字が、ゆっくりと浮かび上がっていく。


 ――『悪役令嬢になったのは、ずっと      から』


 肝心の理由だけが、まだ空白だった。


 その下に、まだ聞いたことのない名前が、一文字ずつ滲むように現れる。


 ふゆは思わず立ち上がった。


「ちょっと待って。誰」


 返事の代わりに、部屋の隅に置いた酒瓶の一本が、ことりと鳴る。


 昨夜、九人から散々言われたはずのその瓶は、未開封のままだった。


 見ている前で、封がひとりでに少しだけ持ち上がる。


 ふゆは本気で後ずさった。


「いやいやいや、待って。今日は無理。椅子も増やしてないし、議題整理もしてないし、何ならまだ酔いも残ってるし」


 紙の上の文字は、そんな言い訳を嘲るみたいに、さらに一行を足した。


 ――先に酒を用意しておきなさい。


 それは昨夜の九人とは、少し違う癖のある筆跡だった。


 知らない女の字だ。


 ふゆはしばらくその文字を見つめ、それから天井を仰いだ。


「……十人目、来るの……?」


 窓の外では、四月の雪が、何も知らない顔でまだ少しだけ残っていた。

 机の上では、空白を抱えたままのタイトルが、次の夜を待っている。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


今回はかなり変則的な一本でした。

「悪役令嬢になったのは……」シリーズのヒロインたちを、まとめて作者の部屋へ呼んでしまったらどうなるのか、という、だいぶメタで、だいぶ騒がしい番外編です。


ただ、単なる賑やかな飲み会にはしたくありませんでした。

このシリーズで書いてきた子たちは、誰も「悪役令嬢」の一言で片づく人たちではないので、ただ横並びにして騒がせるよりも、それぞれがどんなふうに削れ、どんな立場に置かれ、何を抱えたまま立っていたのかが、会話の端々にちゃんと滲む形にしたかったです。


書いていて改めて感じたのは、同じ型に押し込められていても、やはり全員まったく違うということでした。

置かれるべき場所を知っていた女。

受け入れていた女。

数字を信じすぎた女。

叱られなかった女。

許されすぎた女。

比べられ続けた長女。

匙を握り続けた女。

期待されすぎた女。

切ってはいけなかった婚約者。

ひとまとめにされる側を書いてきたからこそ、その一人ひとりを雑にひとまとめにしない話にしたかったのだと思います。


同時に、作者である自分も安全圏には置かないようにしました。

断罪の場へ立たせたこと。

削れるところまで削ったこと。

遅すぎる叱責や、遅すぎる救いを置いたこと。

そのあたりは、たぶん彼女たちに言われて当然だと思っています。

それでも、せめて「置いていかない」ことだけは守りたい。その確認の意味も、この話にはかなり入っています。


個人的に書いていて楽しかったのは、やはり会話の温度差です。

噛み合う相手には妙に早く噛み合い、刺し合う相手とはちゃんと刺し合い、でもどこかで「この人の痛みは少し分かる」に着地していく感じが、思った以上にそれぞれらしく動いてくれました。

強い子が強いままではなく、少しだけ緩む瞬間や、普段なら並ばない子同士が一言で通じる場面は、自分でもかなり好きです。


最後に十人目の気配を置いたのは、半分冗談で、半分本気です。

このシリーズはたぶん、まだ終わりません。

また誰かが「悪役令嬢」の側へ押し込められ、また別の理由でそこから零れていくのだと思います。

その時はまた、ちゃんと呼んで、ちゃんと酒を出して、できれば椅子も増やして迎えたいところです。


なお、作中の部屋まわりや生活感は、北国の夜と仕事帰りの空気を優先して、少しだけ演出強めに書いています。実際の私は、もう少しちゃんと暮らしています。


いつもの本編とは少し違う角度の話でしたが、少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

読んでくださって、ありがとうございました。

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