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誰も導かなかった世界で、俺たちは答えを与えなかった 救わない勇者たちが世界を変えた理由  作者: 慈架太子


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何人見捨てた

王は、座っていた。


かつては数千、数万の民がその威光を仰ぎ、一言で国を動かした玉座。黄金の装飾は黄昏

の光を鈍く弾き、広大な空間を支配する沈黙は、もはや神聖さではなく、生命の欠落を意

味していた。広間には、もう誰もいない。近衛兵も、執事も、媚びを売る廷臣たちも、す

べては幻のように消え去っていた。


その広間に、一つの足音が響く。

石畳を叩くその音は、迷いなく、真っ直ぐに王へと近づいてくる。

王の前に立つ者がいた。


カイだった。


彼は、かつて王の命令書に踊らされ、泥の中で喘いでいた名もなき民の一人。今は、その

不条理な支配を無効化した、静かなる破壊者。

カイは何も言わなかった。

ただ、一歩ずつ距離を詰めていく。

装飾された柱に反響する足音だけが、王の死にかけた自尊心を冷たく叩く。

王の数歩手前。そこで、足音が止まった。


王と、カイが向き合う。

一人は支配という名の虚無を纏い、一人は明日という名の重責を背負って。

長い沈黙。

その静寂を切り裂いたのは、カイの低く、研ぎ澄まされた声だった。


「……何人見捨てた」


短い言葉。

だが、その一言には、これまでこの街で失われてきた無数の溜息と、泥の中に埋もれた命

の重みがすべて凝縮されていた。


王は、動かない。

眉一つ動かさず、石像のように玉座に腰掛けている。

だが、視線だけが耐えきれずに揺れた。

正面からぶつかってくるカイの瞳の奥に、自分が今まで数字としてしか処理してこなかっ

た「個の生」を見てしまったからだ。


「……」


王は答えない。いや、答えを持っていなかった。


カイは、動かない。

瞬きすら惜しむように、王という名の残骸を見つめ続ける。

もう一度、さらに深く、魂を抉るように言う。


「……何人だ」


再びの沈黙。

それは広間の冷たい空気と同化し、王の肩に重くのしかかった。

やがて、王の乾いた唇がわずかに動く。


「……」


最初は音にならなかった。喉の奥にへばりついた後悔か、あるいは恐怖か。

膝の上で休んでいた王の手が、微かに、しかし激しく震え始める。


「……分からない」


小さく、掠れた声が出た。

カイは、目を逸らさない。王の逃げ場を塞ぐように、その瞳は冷徹な光を放ち続けている。


「……数は」


王が、言葉を継ぐ。

自らの存在を繋ぎ止めるための、最後の寄る辺としての「報告書」を思い出すように。


「……出せる。帳簿を見れば、損耗として、あるいは整理の対象として、幾らでも記録は

残っているはずだ」


一拍。

王の言葉が、不意に湿り気を帯びて止まる。


「……だが」


喉が鳴る。


「……」


王は、ゆっくりと目を閉じた。

瞼の裏に浮かぶのは、美しい宮廷の景色でも、威風堂々とした軍列でもない。ただの真っ

暗な闇。


「……知らない」


その言葉は、羽毛のように軽かった。

声高に叫ぶわけでも、涙ながらに謝罪するわけでもない。

それでも。

その一言は、どんな断罪の言葉よりも重く、この広場全体を押し潰すような絶望を伴って

いた。


カイは、一分子の揺らぎもなく、そこに立っている。


「……顔は」


王が、絞り出すように続ける。


「……一人として、覚えていない。私に届くのは常に整えられた文字であり、整理された

表だった。その裏側に、誰がいるのかなど」


沈黙。


「……名前も、知らない」


声が、地の底へと落ちていく。


「……見ていない。……見ないことが、王の務めだとすら思っていた」


広間が、完全に静まり返った。

風の音さえも、この場所を避けるように途絶えている。

カイは、ゆっくりと一歩踏み出した。

王の震える膝元。手が届く距離。


止まる。


「……それが、あんたの答えか」


王は、何も言わない。

否定することも、正当化することも、もはやできなかった。

しばらくして。

王は、ゆっくりと、すべてを諦めたように頷いた。


「……そうだ。私は、数え切れないほどの人間を、顔も知らぬままに見捨ててきた。それ

が私の、統治のすべてだ」


それで、終わった。

誰も、何も言わない。

かつてなら、ここで兵士がカイを捕らえ、あるいは王が怒号を上げていたはずだ。

だが今は、ただの虚しい空気だけが、二人の間に残っている。


カイは、立ったままだった。

視線を外さない。

王の罪を赦すわけでもなく、ただその醜さを、その空虚さを、一分子の漏れもなく見届け

ようとしている。

王は、目を伏せた。

その姿は、もう世界を支配する強大な王ではない。

自らが積み上げた数字の山に埋もれ、窒息しかけている一人の、哀れな老人に過ぎなかっ

た。


カイは、無言のまま背を向けた。

踵を返し、一歩、また一歩と出口へと歩き出す。

振り返ることは一度もない。

止まらない。


王は、動かない。

背後で遠ざかる足音を、自分の命の火が消えていく音のように聴きながら。

黄金の、誰もいない玉座の上で。

一人、残された。


答えは、出た。

王は自らの罪を認め、カイはその真実を引き出した。

だが。

その答えは、何も救わなかった。

死んだ者が生き返ることも、失われた時間が戻ることも、奪われた尊厳が癒えることもな

い。


その日。

数は、一分子の意味も持たなかった。

千人であれ、万人であれ、それはただの記号に過ぎない。

知ろうとしなかったこと。

目の前の命を「個」として見つめなかったこと。

それこそが、何にも代え難い、唯一にして最大の罪だった。


そして。

その罪の感触は、王の胸の中に、そしてカイの記憶の中に。

消えることのない冷たい影として、静かに残り続けた。

城の外では、新しい生活の音が響いている。

自分の名前を持ち、自分の顔を持つ人々が、誰に顧みられずとも、自らの足で歩き始めて

いる。

玉座に座る老人のことなど、もはや誰も、知ろうともしていなかった。




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