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誰も導かなかった世界で、俺たちは答えを与えなかった 救わない勇者たちが世界を変えた理由  作者: 慈架太子


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それでも許せない

男は、そこに立っていた。


石畳の上に踏ん張った両足は微動だにせず、全身の筋肉が鋼のように硬直している。

その両手は、白くなるほど強く握り締められていた。

拳は、そこにある。

かつてなら迷わず相手の顔面を砕き、その命が消えるまで叩きつけていたであろう、暴力の塊としての拳。


目の前には、一人の相手が立っている。

かつて自分からすべてを奪った者、あるいはその片棒を担いだ者。

相手は何もしていない。武器も持たず、防備も固めず、ただ男の怒りを受け止めるように、力なく立ち尽くしている。


それでも。


「……」


男の息は、獣のように荒かった。

喉の奥からせり上がってくる熱い塊が、視界を赤く染めようとしている。

復讐。報復。落とし前。

昨日までの世界なら、それらは生存のための正当な権利であり、この街で生きる者が唯一信じられる「正義」だった。


周りは、ひどく静かだった。

かつてのように、殺せと囃し立てる群衆はいない。

他人の不幸を娯楽として消費する冷酷な視線も、今はどこにもなかった。

だが、同時に、必死になって彼を羽交い締めにし、制止しようとする者もいない。


「……やめろ」


誰かが、遠くでぽつりと漏らした。

強制ではない。命令でもない。ただ、祈りに似た静かな響き。

男は、動かない。


「……もう、終わってるんだ」


別の声が届く。

戦争は終わった。略奪も、強制も、公式にはもう存在しない。

腹は満たされ、明日を耕す仕事がある。

それだけで、すべてが洗い流されたかのように振る舞う世界。

それでも、男は動かなかった。


「……分かってる」


低く、押し殺した声が男の唇から漏れる。

分かっている。今さらこいつを殺したところで、死んだ家族が戻るわけではない。

今さらこいつを殴ったところで、この街の再生が早まるわけでもない。

頭では、理解している。

「正しさ」がどこにあるのか、そんなことは一分子の疑いもなく理解している。


「……でも」


言葉が、湿った土のように重く詰まる。

胸の奥で渦巻く黒い泥のような感情が、逃げ場を失って暴れている。


「……許せないんだ」


沈黙。

その告白を、誰も否定しなかった。

「許せ」と説く神官も、「忘れろ」と諭す役人もいない。

彼が抱えている傷の深さを、誰もが自分の痛みとして知っていたからだ。


目の前の相手は、何も言わない。

謝罪の言葉も、弁明の言葉も口にしない。

ただ、そこに立っている。

その沈黙が、男の怒りをさらに鋭く研ぎ澄ませていく。


「……」


男は、一歩だけ踏み出した。

拳が持ち上がり、肩が大きく波打つ。

今、この腕を振り下ろせば。

かつての自分に戻れる。憎しみに身を任せ、思考を止めていた、あの楽な地獄に戻れる。


止まる。

拳が、激しく震えている。

男の脳裏には、過去があった。

焼かれた家、奪われた糧、冷たくなった隣人の顔。

それは消えない。どれほど新しい布を織り、どれほど豊かな土を掘り起こしても、過去という事実は一分子も揺らがない。戻ることは、決してない。


「……」


長く、長く、肺の底にある熱をすべて吐き出すように息をつく。

握り締められていた拳が、指先からゆっくりと解け、力なく下ろされた。


それでも。

目は逸らさない。

相手の瞳の奥にある、かつての影を、そして今の空虚さを、真っ直ぐに見据える。


「……許さない」


自分自身に誓うように、言い直す。

握り拳を解いたからといって、すべてを水に流したわけではない。

理解することと、許容することは、別のことだ。

男は、憎しみを抱えたまま、この男と同じ街で生きていくことを、自分の意志で選んだのだ。


それで、いい。

誰も、彼を責めない。

不寛容だと罵る者もいなければ、慈悲深いと慰める者もいない。

ただ、一人の人間が、爆発しそうな感情を自らの理性で繋ぎ止めたという、あまりにも重い事実だけがそこに残った。


別の場所。

同じように、二人の人間が向き合っていた。

一人は奪った側であり、一人は奪われた側だ。

彼らもまた、動かない。


「……終わってるんだぞ」


誰かが通りすがりに言う。

「……知ってる」

一拍。

「……それでも、俺はあいつを信じない」

言葉は、どこも同じだった。

劇的な和解も、美しい握手も、そこにはない。

解決しない問題。まとまらない感情。

清算できない過去を抱えたまま、それでも彼らは、互いの存在を認め、同じ空気を吸っている。


カイは、その光景を時計塔の陰から見つめていた。

何も言わない。

彼が人々に与えたのは「生存」であって「救済」ではない。

心の中の地獄まで消し去る力など、誰にもないことを、彼は痛いほど知っていた。


ミーナは、静かに目を伏せた。

和解という名の嘘を強いるより、許せないまま隣に立つという残酷な誠実さを、彼女は尊んでいた。


マーガレットは、動きを止めない。

許されない側である彼女は、向けられる憎悪の視線を、すべて自分の背中で受け止める。

石を運び、道を掃く。その単調な繰り返しだけが、彼女を支えていた。


アリアは、石柱に背を預け、静かに見守っていた。

法という名の画一的な正義。

それだけでは決して統治できない、人間の心の深淵。

彼女の知る「正しさ」が、個人の「感情」という巨大な壁の前で、一分子の力も持たず立ち尽くしていた。


ユークスが、薬草の袋を整理しながら、低く呟いた。


「……残るな。傷が塞がっても、中の毒は消えない。それが生きているということだ」


リーヴは何も言わず、風の音を聴いていた。

ガルドは、無造作に新しい道具を置き去る。


時間は、静かに、重厚に過ぎていく。

何も解決していない。

謝罪もなく、許しもなく、憎しみは今も街の至る所におりのように溜まっている。


それでも。


殴らなかった。

殺さなかった。

かつてのように、感情のままに命を奪うことを、彼らは自らの意志で拒絶した。

憎んだまま、許さないまま、それでも相手を「人間」としてそこに居させる。

それは、どんな和解よりも困難で、冷徹な理性の勝利だった。


許せない。

それでも、止まっている。

その静止こそが、新しい世界の最も強固な境界線だった。


その日。

正しさは、揃っていた。

「争うべきではない」という論理に、異を唱える者は誰もいなかった。

だが、感情は決して揃わなかった。

誰が誰を憎み、誰が誰を許さないか。その不揃いな感情の欠片たちが、街を埋め尽くしていた。


そして。

それでも、世界は壊れなかった。

すべてが美しく調和しなくても、人々は憎しみを抱えたまま、同じ大地を耕し、同じ太陽の下で汗を流すことができる。

その不格好で、不器用で、しかし確かな共存。

憎しみさえも自分自身の一部として背負い、彼らは一歩、また一歩と、明日へと歩みを進めていた。

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