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誰も導かなかった世界で、俺たちは答えを与えなかった 救わない勇者たちが世界を変えた理由  作者: 慈架太子


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命令がなくても動く人間

誰も、命じていない。


それなのに、街の至る所で微かな、しかし確かな胎動が続いていた。

昨日までこの場所を支配していたのは、絶対的な「恐怖」か、あるいは「強制」だった。

誰かに喉元を突きつけられなければ、人は動かなかった。

奪うため、あるいは奪われないため。

生存という名の重すぎる命令だけが、彼らの四肢を突き動かしてきた。


今は、その重圧がない。

腹が満たされ、静寂が訪れた時、最初は、誰もが止まっていた。

足の踏み出し方も、手の動かし方も、忘れてしまったかのように。

どう動けばいいか、分からなかったのだ。


広場に、路地に、畑の跡地に。

ただ立ったまま、空虚に時間が過ぎていく。


「……どうする」


同じ言葉が、あちこちで、壊れた機械のように繰り返される。

だが、その問いに対する明確な返事はない。

「何をすべきか」を教えてくれる上位者は、もうここには存在しなかった。


一人の男が、開墾され始めた畑の前に立っていた。

土を握りしめようとして、指先が微かに震え、止まる。

周囲を見渡しても、自分を監視する兵士も、ノルマを課す監督官もいない。

誰も見ていない。

それでも、彼は動けなかった。


「……やっていいのか」


誰に聞くでもない問いが、乾いた風にさらわれる。

答えは、どこからも返ってこない。

ただ、湿った土の匂いだけが鼻を突く。


しばらくして。

男は、吸い込まれるように膝をつき、土に両手を沈めた。

ゆっくりと、土の重みを確かめるように。

止める者はいない。

勝手な真似をするなと、背後から蹴り飛ばす者もいない。

怒る者など、どこにもいなかった。


少しだけ、深く土を掘り返す。

たったそれだけの動作で、男は長く、重い息を吐き出した。


「……いいのか」


もう一度、確認するように言う。

誰も答えない。

それでも、彼の手はもう止まらなかった。

誰の許可も得ず、自分の意志だけで土を弄るという行為。

それは、彼が生まれて初めて手に入れた「自由」という名の労働だった。


別の場所。

一人の女が、古びた織機の前で立ち尽くしていた。

経糸が張られたままの機械は、静かに彼女を拒絶しているようにも見えた。

昨日までは、細かな指示があった。

どの糸を使い、いつまでにどれだけ織るか。

今日は、何もない。


「……動かすか」


小さく、自分に言い聞かせるように言う。

彼女は踏み板に足を乗せ、ゆっくりと体重をかけた。


音が、鳴る。

ガタン、という乾いた木の衝突音。

あまりにもぎこちなく、リズムはすぐに途切れて、機械は止まる。

彼女は慌てて周りを見た。

勝手に機械を動かしたことを咎める視線を探した。

だが、誰も何も言わない。

隣の人間は自分の作業に没頭し、通り過ぎる者も彼女を一瞥するだけだ。


もう一度、踏み板を踏む。

今度は少しだけ、音が続いた。


「……いいのか」


また同じ言葉が漏れる。

しかし、彼女の足は三度目、四度目と踏み板を叩き続けた。

止めない。

誰のためでもない布が、一寸ずつ、形を成していく。


広場では。

一人の男が、何も持たずにただ突っ立っていた。

彼はしばらく、彫像のように動かなかった。

やがて、彼は周囲の「動き」を見始めた。


一心不乱に土を掘る背中。

不器用に、しかし絶え間なく鳴り続ける織機の音。

瓦礫を運び、道を作る人々の影。


「……やるか」


それだけをぼそりと零して、彼は歩き出した。

目的があるわけではない。ただ、その「流れ」の中に自分を置こうとしただけだ。


誰も、命じていない。

誰も、許可していない。

誰も、正解を教えていない。


それでも。

人は、動いている。


カイは、時計塔の影からその光景を静かに見つめていた。

何も言わない。

人々が自律し始める、そのもどかしくも尊い過程を、瞳に焼き付けている。


ミーナは、その横で少しだけ息を詰めていた。

「頑張れ」と声を出しそうになり、その唇を強く噛んで抑える。

ここで彼女が手を貸してしまえば、それは再び「与えられた動き」になってしまう。


マーガレットは、街の遠い場所で、変わらず瓦礫を片付け続けていた。

彼女もまた、誰の許可も得ず、ただ自らの役割を淡々とこなしている。


アリアは、広場の縁で立ったまま見ていた。

王としての手は、もう動かさない。

言葉で統率しなくても、世界は勝手に回り始めている。

その事実に、彼女はかすかな寂寥と、それ以上の畏怖を感じていた。


ユークスが、ゆっくりとした足取りで、人々を観察しながら歩く。


「……止めるな」


誰に言うでもなく、彼はそう呟いた。

この脆弱な自発性が、何かに遮られることのないように。


リーヴは、何も言わずに木陰で風を感じている。

ガルドは、相変わらず無造作に道具を置き、それを使う者が現れるのを待っている。


時間が、静かに過ぎていく。

人々の動きは、依然として遅い。

迷いも、不安も、あちこちに残っている。

一歩進んでは立ち止まり、周囲を伺うような、震える足取りだ。


それでも。

止まらない。


「……命令は?」


誰かが、まだ不安に耐えかねて聞いた。

その問いに、即座に返る言葉はない。

しばらくして、別の、少しだけ自信を帯びた声が返った。


「……ない」


一拍。


「……だから、やる」


その一言で、十分だった。

命令がないから、何もしないのではない。

命令がないからこそ、自分たちで始めるのだ。


命令がなくても、人は動く。


それは、決して強さではない。

ましてや、長年の習慣によるものでもない。


ただ、腹を満たした人間が、自分の人生をどう使うか。

その最初の一歩を、選び始めただけだった。

不恰好で、遅くて、それでも力強い。

名もなき意志が、街を動かしていた。

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