しつれん
目が合ってしまったら、もう駄目だった。
喉の奥が乾いて唾液がうまく飲み込めない。手がじっとりと汗ばんでハンカチに染みができていく。
部活動生の声が、いつもよりやけに遠く聞こえて夢と現実の区別がついているのか不安になる。
「どうした?大丈夫?」
「………っあ」
言葉をうまく紡ぐことができない。彼との距離は、心の距離よりは近く、席の距離よりは遠い。
彼には付き合っている人がいて、今、その人と一緒に帰る所で、
僕は一ヶ月前の失恋を乗り越えれていなくて。
誰が見てもわかる、お似合いのカップル。きっかけは部活動中の事故から助けてくれたという漫画のような出会いで、そこからトントン拍子に仲良くなって、クリスマスに告白し、付き合うという誰もが羨む関係。
彼の隣に相応しいような低身長に華奢な手に、歩くたびに揺れるポニーテールがチャームポイント。
一方僕は恋人の土俵にも立てないただの男。
何を悲しむことがあるのか。最初から分かりきっていたことじゃないか。彼は男で、僕も男。自分を客観的に見ても好かれる要素はどこにもない。
彼が彼女と何か話した後、彼は教室に入ってくる。
何を話したのだろう。せっかく二人になれたのにごめんなさい。今日でこの恋心ともおさらばしたいと思ってるから、ちょっとだけ、ゆるしてね。
長い足でさっと僕のそばまで歩いてくる。
やっぱりスタイルがいい。すらっとしている手足はしなやかに動く。同じ制服を着ているとは思えないほど似合っている。彼が着ればどんな服だってブランド品に見えることだろう。
「よねち?」
目と目が合う。
性格とは似て似つかない吊られた目尻と対照的に、見ているだけで吸い込まれそうにまんまるで、夕陽にあたってキラキラと光る瞳。
間近その瞳を見てしまうと、無理だった。
視界がグラグラと揺れる。身体中が燃えているように熱を帯びる。
「…ぁ…、えっと」
「ん?」
先ほどまで彼女といたからか、みんなの前とは少し違う、砂糖菓子のような声で僕に話しかける。
あぁ、そうだ。彼はもう、別の人の恋人で、普通の幸せを掴んでいるんだ。
ごめん、好きになってしまって。でも、それでも、僕は君のことが好きなんだ。好きだったんだ。
そう考えると無性に目の奥が痛く感じて、本音が溢れ落ちそうになる。
だめだ、言っちゃだめだ。好きなのに。いや、言うべきじゃない。でも、ぼくは、まだきみのことが、
「…………よねち」
彼がつけてくれたあだ名で呼んでくれるのも、今日が最後になるだろう。今の声色を忘れないように、心の奥で噛み締める。
喉が無常にもうまく仕事をしてくれないし、手は湿って気持ちが悪いし、目は本音を引き出そうとしてくるし、いまは絶対だめだけど、でも、もうここで終わらせてしまおう。
「………う、うみかわくん、」
声が裏返る。ただでさえ汚い声が二人きりの教室を支配する。
「…ぼ、くごめん、きみがすきだ、ごめんほんとに……ごめんなさい」
目の前が見えない。
勝手に流れてくる水のせいか、鼻先にあたっている身に慣れている感覚がいつのまにかどこかに行っていたからかはわからない。外した記憶がない、いつから外していたのか、外されたのか。
感情をぶつけたくせに相手の顔はみない、という最低な行動をしている自覚はあるが、そんなことを気にしているような余裕は、残念ながら僕にはない。
手に持っていたハンカチで涙を拭いても、治ることはない。
「…よねち、」
「…っ、ご、め」
これが最後かな。呼んでくれるのも。彼がつけたあだ名で。
クラスに馴染めてない僕にみんなが話しかけやすいようにってつけてくれたあだ名。僕が世界で一番呼ばれて嬉しい名前。優しいな、男に告白されたのに名前を呼んでくれて。喉から嗚咽がこぼれおちる。もっと汚らしい声を聞く前に帰って欲しい。振られることよりも、嫌われて軽蔑されることよりも。思いを終わらせることのほうが重要度が高かった。今日一日、いや、明日まで泣いて、泣きじゃくって、それからはもう考えないようにしよう。
彼が僕の首筋にそっと触れる。
なんで触れられているかわからない。涙と嗚咽に気を取られているせいで、彼の表情も、手も見ることができない。あーあ、こんなに近くで見られるにも今日が最初で最後なのに。残念。僕の熱が伝わるように、ひんやりとした彼の手の、指先の冷たさが伝わってくる。
「…よねち、ごめんね、おれ、っほんとは」
「…ぅ、まって、」
聞きたくない。こんなぐちゃぐちゃな状態で聞きたくない。もう少し、いやあと五分ぐらい待ってほしい。この、高校に入ってから一年とちょっとの長いようで短い、淡い恋心はちゃんとここで捨てていきたい。
完全に捨てるのは難しいかもしれないけど、いつか必ず、好きになってよかったなって、思えるように。
首筋に当てられていた手が頬に当たり、目元を拭う。
彼女にもこんな風に優しい手つきで触れてるのかな、とかそんなことばかり考えてしまう。
なんで触れられているんだろう、なんで突き放さないんだろう、なんで、やさしいの、
「っなんで、…さわるの、ぼく、いま告白したのに、な、んで突き放さないの、」
無言の時間が流れる。時が止まったように動けない。涙を拭くことに精一杯で、最後の冷たさを感じたくて、振り払うことは出来ない。
沈黙が痛い。もう話せなくなるならば、いっそのこと突き放してほしい。酷い言葉を投げつけて、傷つけて、そのまま彼女とにこにこしながら帰ってほしい。
それをしないのが彼であり、僕の好きな人、好きだった人だと分かっているけれど。
「…よねち、ごめん、」
涙を乱雑に拭いて顔を上げる。
「っ、ごめんね」
彼の言葉を耳が拾った時には、もう既に彼の顔は僕の目の前にあって、近すぎてピントが合わないぐらいの位置にいて、目を瞑る前に生暖かい感触が頬を支配した。
数秒経った後、僕から離れた彼の顔は一瞬酷く歪んで、苦しそうで、
でも僕にはどうすることもできなくて、
ふと見た時にはいつもの彼の表情に戻っていた。少しいつもと違うのは、取り繕うような、演技のように上げられた口角と、離れた距離だけ。
「ごめん、君の気持ちに…応えることはできない」
「……ごめんね、っ、しあわせになってね」
荷物を持って廊下に出て行く彼の背中を見つめることしかできなかった。
ダムが決壊したように、涙が溢れ出てくる。
終わったんだ、僕の恋は。
友人が教室に迎えにきてくれるまで僕は泣き続けた。
彼の最後の行動は、今でも理解できない。




