Angel Wing 2
「ほんとに暇人だね、ユウは」
目の前の青い髪の少女、アクアが僕を覗き込むようにそう言った。
「まだ一時間くらいしか経ってないんじゃない? まぁ私もちょっと家のことしてきただけだからすぐなんだけどね」
「そんなに大した用事でもなかったしね。それよりアクア」
「うんー?」
困ったように、一言。
「お腹空いたんだけど……」
「あ、私も」
そう。ログインするまでは空腹なんて全く感じてなかったのに、ログインした途端空腹が襲ってきた。
「よくよく考えてみればこの世界では丸一日以上何も食べてないんだよ、僕」
「私もそれくらい食べてないなぁ。お金もないし、どうしよっか」
そもそもここは山中だった。
MWOにはログアウト制限があるにはあるようだが、戦闘中、もしくは戦闘後五分以外にログアウトの制限はない。僕とアクアは山の中を少し歩いたあたりでログアウトしたんだ。
「山の中で食材を手に入れても、調理道具がないよ」
「うぅ……ひもじいなぁ。盗賊団の本拠地行ったらいくらかくすねてくるー?」
「アクアっ、それ盗賊と発想が同じだから!」
「冗談でーす」
ぺろっ、と舌を出してとてとてと走っていくアクア。
移動力に差がありすぎるので、ただアクアについていくだけでも疲れてしまう。
僕はそうだ、と思い出し、スキルウィンドウを開いた。
汎用スキルタブの中から《スカウト&レンジャースキル》を探し、その隣にあったGETと書かれたアイコンに触れる。
『経験値を200点使用します。よろしいですか?』
と警告ウィンドウが出る。そのウィンドウの端のYESアイコンに触れる。
すると、視界の左端に<GET SKILL Exp-200>と表示された。
これで少しは走るのが楽になるのかな、と思ったけど、甘かった。確かにほんの少しだけマシなスピードが出せるようにはなったものの、アクアのように軽快な走りにはとうてい及びそうにない。
「っていうかアクア普通に歩いていこうよ!」
「ごめんごめんー。つい楽しくなっちゃって、ぇ!?」
「え?」
アクアが急に足を止める。
僕達の目の前には、真っ白い霧が視界一面を覆い尽くしていた。
あまりにもリアルな霧に一瞬戸惑うが、僕達から後ろには霧はない。よく観察してみると、その霧は一定範囲を囲うように、不自然な形で展開されていた。
「自然現象じゃないみたいだね。どうしようか?」
「霧なら問題ないんじゃないかなぁ。この道通らないと辿りつけないし、行くしかないって!」
「危ない気がするんだけど……」
霧から身を引いてる僕の手を取ると、容赦なくアクアは霧の中へ足を踏み入れた。
ひんやりとした手。抜けるように白い肌が目に突き刺さる。
「ちょ、ちょっと」
「立ち往生してても仕方ないでしょ! いいから行くのっ」
「ち、違うって。ちゃんと着いていくから手離してよ」
「ん」
アクアはぽいっ、と捨てるようにして僕の手を離すと、白い霧の中を草木をかきわけて歩く。僕もそれにならって、アクアの後に着いていく。
どれほどの時間そうしていただろうか。僕達は無言でただ霧の中を突き進んでいた。
「ねぇアクア、こっちで合ってるの?」
「合ってる……と思う」
自信なさげに言う。そんな風に言われると、僕まで不安になってしまう。
「おかしいよ、だってこんなに遠くなかったはずなのに……」
「この霧のせいで方向感覚が少し狂ってるのかもしれないよ。少し休もう?」
むあー、と脱力したように地面にへたりこむアクア。僕も真っ白い霧の中、見ることすらできない地面に腰を降ろした。
「どうしよう、このまま遭難して餓死とかしちゃったら……」
「あ、やっぱり餓死とかってあるの? この空腹が恐ろしく感じてきたよ……」
「あるみたいだよ。死んじゃったら、後はないし。とにかく山から抜けないとね。長期戦目的でとりあえず木の実でもなんでも食料探すか、短期戦目的で急いで突っ切るか。この二つが妥当センじゃない?」
すぐ近くにいるアクアの顔が見えない。わずかに体が見える程度だ。
「そうだね。どっちも難しいと思うけど、僕は霧が晴れたらすぐに突破するのがいいと思うよ」
ぐるるる。
「っ!」
「やっぱり少しでも食べる物買ってきたほうがよかったね……」
「しっ!」
いきなり視界にアクアが現れ、僕の口を手で塞いだ。
「むっ!?」
「今の私のお腹の音じゃないからね! 何か、いるっ」
僕とアクアは妙な体勢で息を殺して、辺りの気配を窺う。確かに、動物の唸り声のようなものが聞こえる。
がさがさと、草をかきわける音も。
こんなに視界が悪い状態で、戦えるはずがない。相手には気づかれていそうだし、逃げたほうが……?
「ユウ、やろう」
「って、ええ!?」
アクアは立ち上がり、宝鍵を構えた。
「私とユウで囲む。相手は一匹みたいだから、片方が避けて、もう片方は後ろから攻撃。余裕!」
「どこらへんが余裕なのかわからないよっ!?」
アクアは既に飛び出している。僕も仕方なく、感覚だけを頼りに剣を抜きつつ疾走する。感覚値を手に入れたおかげか、不思議と霧の中でも木をすんなりと避けながら走ることができた。
少しだけ走ると、その存在もこちらに囲まれたことに気づいたようだった。鋭い眼光から、相手がこちらを見ていることは分かった。
「アクア、僕が避けるから攻撃任せたよ!」
「任せてっ!」
すると、急激にその存在が発する気配が大きくなる。
僕に、体当たりをしかけてきたようだ。
盾を突き出しながらも体をひねり、受け流す。ちらりと視線に入ったそれは、灰色の体毛の巨大な熊だった。
野生的な瞳に、口から覗く巨大な牙。僕は全身に緊張が走るのを感じた。
「えいっ!」
どすっ、と鈍い音。
「うあっ、無理! 無理! 毛!? 硬いよこれ!」
確かに、野生動物の毛は硬いと聞く。アクアの細腕に短剣では刃が体に届かないのも無理はなかった。
僕は剣を構え直し、熊の攻撃をかわしつつ、その首に叩き込んだ。
がすっ、と鈍い音が鳴るが、大したダメージはあたってないようだ。
次は頭を狙う、と考えていた矢先に、僕の視界は反転した。
「えっ?」
次の瞬間には、僕は地面に叩きつけられていた。
足に酷い痛みを感じる。背中を強く打ちつけたせいで、呼吸ができない。
驚くべきことか、熊が足払いを放ったのだ。
僕はなんとか体勢を立て直す。HPが大きく減少し、9になる。
「アクアっ、無理だよ! 逃げよう!」
「逃げられるはずないよ! こいつ、私達のこと見えてるんだよ!?」
熊ががるる、と獰猛そうな唸り声をあげ、アクアのほうへ向いた。
「いっ」
怯えきった声。
僕は熊の注意を引きつけるために剣をその背に打ち込むが、先ほどと同じように、硬い毛皮に阻まれて思うように斬ることができない。
熊はそんな僕には目もくれず、アクアのほうへ歩み寄る。
「やっ、来ないでよ!」
「くそっ!」
僕は感覚を頼りに熊の目前に回りこんで、アクアの壁になるようにして立ちはだかる。
視界のすぐ前に、鋭い眼光がある。
熊の鋭い殴打がくる。左手の盾でなんとかそれを弾くが、僕のHPはさらに減少する。
「アクアっ、逃げて!」
「できないよぉ!」
僕の後ろでへたりこむアクア。完全に腰が抜けてしまっているらしい。ゲームながらリアルすぎる作りになっていることに舌打ちしてしまう。
その間にも容赦なく熊は攻撃をしかけてくる。僕は退くわけにもいかずに、ひたすらその攻撃を盾と剣でいなし続ける。しかし、じりじりとHPは減っていく。
僕のHPバーが、赤に染まっていく。
表示された数字は、1。
最後の攻撃が、迫る。
「ごめん、アクア」
僕は剣を鋭く前へ突き出す。
視界は真っ白に染まり──