第一話 グッドモーニング
楽しんでいただければ幸いです。
今さらながら、彼は自分の選択が間違っていることに気づい
た。
人生の重要な分岐点の一つである高校の選択。
彼の親友(悪友)に勧められるがまま、入試を受け、そして
合格。流れるように入学手続き。
それがいけなかった。
そもそも、悪友に勧められた時点で疑うべきだったのだ。
「……最高だな、この学園」
「俺が選んだ学園だ。最高に決まっているだろう」
皮肉を言っても、この悪友には通じない。皮肉だと気づいて
もいないだろう。
「はぁ……」
自分の思慮の浅さに、この悪友に、そしてこの学園に、ため
息が出るだけだった。
耳をすませば、小鳥のさえずりが聞こえてくる優雅な朝。ほ
どよい暖かさの光が、カーテンの隙間から差し込み、春の訪れ
を感じさせる風が、開けられている窓から吹いている。
こんなに気持ちのいい朝は、なかなかないだろう。
ベッドで寝ている彼も、その気持ちよさに身を委ねていた。
表情は実に幸せそうで、至福の時間を堪能していることが、見
て分かる。
しかし、幸せというのは何かを代償にしないといけないわけ
で。
今日が休日ならよかったのだが、入学式という大事な日での
、朝の時間を代償にしてしまっていた。
彼は一人暮らしなので、起こす人がいない。肝心の目覚まし
時計は、人を起こすという職務を全うして、壁際で命を散らし
ていた。
目覚まし時計にとっては、理不尽極まりないだろう。
「ん……ふわぁ」
流石に寝起きの悪い彼でも、日光が顔にちらちら当たると、
目覚め始めたようだった。
「……あれ? 何で時計がないんだ?」
自分で投げ飛ばしたのに、これっぽっちも記憶に残っていな
かった。
まだ寝ぼけているのか、半開きの目を宙に漂わせたまま、呆
けていた。
「そうだ、時間だ」
やっと意識が覚醒し、自分が確認したかったことを思い出す
。
ベッドから起き上がり、机の上に無造作に置かれた携帯を―
―無残な姿の目覚まし時計を視界には入れないまま――手に取
り、時間を確認した。
「は?」
思わず変な声が出てしまった。
そんなことは気にせずに、彼はもう一度時間を確認した。
液晶画面には変わらずの8時45分という文字。
あまりの出来事に硬直してしまったが、次の瞬間思いきり叫
んだ。いや、叫ばざるをえなかった。
「遅刻だあぁぁっ!!」
少し残っていた眠気など消し飛び、慌てて準備を始める。彼
はハンガーに掛けてあった、皺一つない真新しい制服を乱暴に
取った。
「初日から遅刻だなんて、洒落にならんだろ……」
自分の寝起きの悪さを恨みながら、素早く着替えていく。
新しい制服なので、着心地が何ともいえなかった。けれど、
これが高校生なのか、と心の隅で実感していた。
「っと、こんな暇はない……って」
制服と同じく新しい鞄を手に寝室から出たら、思わずツッコ
ミをいれたくなる光景があった。
「何でお前がいるんだよ! というか何してんだよ!」
ツッコミを入れられた少年は、リビングのソファーの上で、
恐ろしいほど上品に紅茶を飲んでいた。
「何って、見れば分かるだろう。それと朝は静かにするものだ
ぞ」
少年は整った顔立ちで、世の女性を魅了するような微笑を浮
かべて応える。
ティーカップを持って佇む姿は確かに似合っている。だが、
この瀬戸際でその様子は激しく違和感があるのだ。
「もういい! それより早く学校に」
「いや、間に合わんぞ」
「は?」
本日二度目の硬直。しかも、起きてわずかしか経っていない
間で。
「現在の時刻は8時50分。式が始まるのは9時だ。今から1
0分以内に着くのは不可能。さらに、集合時間はとうに過ぎて
いる」
「…………」
彼は硬直している間に畳み掛けられた事実に、返す言葉を失
っていた。
「だからゆっくり紅茶でも飲まないか?」
後光でも差しているのかと思うような眩しい笑顔と共に差し
出される紅茶。
「……そうだな」
彼も優雅とはほど遠い微笑を浮かべて、紅茶――ではなくテ
ーブルの縁に手をかける。
「んなわけあるかーい!!」
「おおっう!?」
彼はちゃぶ台返しならぬ、テーブル返しを悪友にお見舞いし
たのだった。