絵描きの少女
月区までの遠征は過酷そのものだった。昼夜に関わらず目無しに襲われ、休むことすらままならない。じわじわと全員が体力をすり減らし、数人が道中で亡くなった。
俺たちは公国首都、月区の中心に位置する白亜の城にいた。より詳細に言うなら、最上階の一室だ。
月区郊外から『緊急脱出』で城の最上階へ侵入する。幸い、全域を覆う木々が緩衝材となり着地に割く魔力は最小限で済んだ。
真っ暗な部屋の中に皆の息遣いとは別の、妙な音が響いていた。
ぴちゃぴちゃと滴る水気の多い音。部屋を一瞬だけ強く照らしたネアは壁際に佇む彼女を認識するや否や剣を捨て無言で飛び掛かった。女を床に押し倒し、白く細い首を強く締め上げる。
「私の首は柔らかい?どう思った?...どうか教えて?」
「公女殿下、あなたはもう人ではない!一刻も早くその死で以て償いを!」
公女の存在は周知されていた。だがネアのここまで取り乱す様子を前に全員が驚いた。
「ネア!落ち着け、彼女からも手を離すんだ。」
「止めるな!全部、全部この方が原因なんだ!母も父も仲間たちも皆目無しになっちまった。それもこの方が、この方の呪いのせいなんだ...」
暗い部屋にネアが声を荒げる。見かねた誰かがネアを引きはがす。
「けほっ。けほっ。ネア?眼を、眼を下さいませんか?あなたの美しいその色を...是非...」
「...ッッ!離せ!聞いただろう!?この方はここで死ななければならない!」
「ネア!計画を思い出せ。対象は確保したな、次はどうする?」
「...脱出だ。」
その瞬間、扉が開け放たれる。瞬間、公女のいる方向で誰かが倒れた。恐らく公女を拘束していた者が切り刻まれた。
続いて大勢の足音、鎧が擦れる金属音が場を支配した。暗闇の中はっきりとする。俺たちは囲まれた。
集団の一人が声を上げる。
「公女殿下。我ら月光騎士団、総勢九十九名集まりましてございます。」
ネアが俺へ叫ぶ。
「脱出だー!!」
ネアは公女を抱える。月の魔術を駆使し、最低限致命傷を避けながら俺の元へ辿り着く。
体を掴まれたのを感じて、俺は侵入に使用した窓へ自身を吹き飛ばした。
木々を突き抜け、青空の下に出る。
急激な明るさの変化に目の前が真っ白になる。
するとネアがまたも叫んだ。苦痛による絶叫だ。
「ふっ、ふっ...ケルン、気にするな。一時撤退だ。着地は任せるぞ。」
ネアの右腕が公女と共に地上へ吸い込まれていくのが見えた。血がぼたぼたと零れ落ち、ネアは静かになる。
作戦は失敗した。公女の確保に失敗した時点で詰んでいた。
俺とネアだけでは何も成し得ない。故に俺は気絶したこいつを抱え、拠点へ馬を走らせていた。敗走だ。もし今目無しに襲われたらここに二つの死体が転がるだろう。
もしこいつが起きているなら確実に戻るよう脅すだろうが、恩人を死なせるわけにはいかない。
ネア、お前がいなくなったら皆が悲しむぞ。死んでくれるな。
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半島には一つの町がある。大陸中央湾の入り江に位置する城塞港湾都市。
奇跡的に拠点へと帰還した俺たちは森の薄い国境付近と海岸線付近を伝って半島へと向かっていた。
今の人員ではこの拠点を維持できない。今夜にも目無しに占拠されてしまうだろう。これは最後の望みを賭けた、すべての人員と物資を抱えての大移動だ。
ひと眠りして目を覚ましたネアは説明する。この国の過去の話。
彼女には専属の絵描きがいた。国、いや大陸でも有数の精緻で優雅な腕を持つ絵描きだった。
彼は絵画の師でもあった。程なくして彼女は師に届くほど上達する。
だが決して越えられない。何かが足りない。技術?いやもっと他の何か。
彼女は尋ねた。
「私の絵に足りないものは何だと思いますか。」
彼は笑いながら答える。
「それは言えません。」
この回答は正しかった。
彼の所業は人に許される領域を超えている。彼は一線を自覚し、教えることを拒否した。
彼女は驚いた。これまで自身の願いが拒否されることはなかったから。
抱いた小さな不思議は好奇心へ、行動へ変わる。許されないことであると露知らず。
ある日の夜、彼をふと見かけた彼女は後を追った。辿り着いたのは冷ややかな石造りの暗室。彼は重苦しい鉄扉を開け中へ入った。内側から鍵を掛けられるが、息を殺し鍵穴に目を近付け、目撃する。
奴隷がいた。奴隷自体は何も珍しいことではない。どの国にも存在する文化だ。
だが問題は彼らの目。ほとんどが眼孔に何も無かった。真っ暗な穴がぽかんと空いている。真っ赤な液体が涙のように頬を伝っている。口は塞がれ、喉の奥からうめき声が響くのみ。
こうして扉に顔を近付けない限りは気付けないほどの、秘匿された地獄が広がっていた。
中での作業が終わったのか、彼は退室する。そして彼女と対面してしまう。彼は悲しんだ。
「気付いてしまわれたのですね。」
彼が手に提げる袋には無数の眼球が収められていた。赤、青、黄、緑、色とりどりの瞳。
人の瞳から抽出される顔料。世界で唯一彼が知る、この世で最も美しい絵を描くための必要要素。
「忘れてください。あなたは次代の公となる御方。このような外法は知るべきではない。」
彼女は答える。
「それを私にも分けてください。」
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戴冠式の日、彼女は未完の絵を一枚飾った。
そして秘密までも、打ち明けた。
「この絵は世界で最も美しくなるでしょう。ですが、顔料が足りません。」
全員が公女を心から愛していた。愛するを強いられていた。
だから彼女の空っぽになった眼孔を見て、全員が自身の眼を捧げた。自身の次は他者にそれを強いた。
星々に嫌悪された彼らは光を毒として与えられたが、力ある魔術師が国土を森で覆う。闇の中で彼らは自分たちの幸せを疑わなかった。
より多くの者へ幸福を齎すため、彼らは闇夜に動き出す。
彼女は今も闇の中で絵を描き続ける。
その絵は未だ完成にほど遠い。