月区の象徴
森の向こうは奴らの領域だ。
そこから現れるのは人を襲う脅威。沢山の仲間が奴らに殺された。
そして今日森から現れたのは見たところ男が二人と赤子が一人。意味が分からない。どっちが母親だ。
拠点西方に北から南へ流れる大河はドラスティ王国との自然国境。昔はきちんとした名前があったそうだが、失われて久しい。広い川幅と激しい流れを特徴とするこの河川は自然の防壁として機能している。ドラスティからの奴らの侵入は現時点で確認されていない。対岸にいる彼らも足を止めてこちらを見ている。
奴らは狡猾だ。人を狩るため様々な工夫を凝らす。目を離しているうちに拠点に侵入されでもしたら目も当てられない。このままどこかに行ってほしい。武器を持ち集まった皆も同じ思いだろう。静かに対岸を見つめる。
「兄ちゃん。あいつらどうする?見たところ敵意は無さそうだけど。」
「こちらに来ようとするなら追い返す。味方かどうかこの距離じゃ分からない以上、なんであれ距離を取るのが安全だ。」
「それもそっか。」
「今夜乗り切れるかも怪しい。連中に構っている時間があったら壊れた防柵を直したいくらいだ。夜までここは俺が見張っておく。」
「だ、そう。皆!仕事に戻ろう!」
岸に一人留まり、連中の動きを監視する。遠くの相手への攻撃手段は少ない。ここは俺が適任だろう。
ん?あいつら一体何をしている?
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「畜生。こっちは死にかけの馬鹿と赤ん坊だぞ。すぐにでも船を出せってんだ。ケルン、待ってろ。すぐに船を造る。」
「ハドリー、悪いが、ここは俺に任せてほしい。」
「そこで寝てろ馬鹿。俺に任せておけ。筏くらいなら明日には作れる。向こうには歓迎されちゃいないようだが、話は俺がつけてやる。」
頼りがいのあるハドリーだが、事態は一刻を争う。この深さの火傷は我慢がどうとか、気合でどうにかなる問題ではない。調査団で教わった魔術の出番だ。
「いや、いいんだ。今すぐ向こうに行ける。俺に捕まってほしい。」
「何をーって、急に抱きつくな!くそっ、なんか汁が付きやがっどぅわぁああああああああああああああああああ!」
『緊急脱出』は調査団に入ると最初に覚えさせられる魔術だ。適当な方向へ勢いよく自身を射出する。とても幅の広い川だ。着地の衝撃を緩和させるほどの魔力は残されていない。
「ああああああああああああああああああああああああ!」
絶叫するハドリーとは対照的にシモンは笑っていた。王の器か。
やがて落下に転ずる。
着水する直前、対岸にいた彼と一瞬目が合った。
初対面の相手にあの顔をさせるのは申し訳ないが、どうにか助けてくれると嬉しい。濁流の冷たさを感じて意識が途切れる。
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拠点内医療室。ネアと呼ばれる男が患者を見張っていた。女が一人作業を離れて様子を見に来る。
「兄ちゃん。追い返すんじゃなかったの?」
「ああ、テュートか。野郎あの川を飛び越えて来やがった。魔法使いだぜ。それと眼がある。日光にも何も反応しなかった。味方だ。」
「本当。ってうわっ。よく見たらボロボロじゃない。ドラスティでいったい何が...」
「分からん。だが死ぬほどの傷じゃあない。じきに起きる。」
時刻は昼過ぎ。ネアは膝の上から離れたがらない赤子に難儀しながら、意識を失っている彼らを見張っていた。その様子にテュートは微笑みながら状況について説明する。
「今夜は新月。間違いなくここ最近で一番大きい波が来る。既に南方に向かった斥候から敵集団を確認した旨の狼煙が上がった。森も騒がしい。兄ちゃんも早く準備したほうがいいよ。ここは私に任せてさ。ほら。」
「言っただろう。こいつは魔法を使う。暴れられたら俺しか抑え込めない。」
「ただの怪我人に警戒しすぎ。ほら、行った行った。」
テュートは腰に提げた剣の鞘に手を掛けながら、もう片方の手で退室を促す。ネアは赤子をベットへ下ろし、嫌々立ち上がる。
「分かった。でも目覚めたらすぐに俺を呼んでほしい。もし目覚める前に夜が始まったら、地下室に放り込むこと。守れるな?」
「しつこい。」
「ああ、あと戸締りはしっかり頼む。鍵はいつもの場所だ。それに、それと、」
「しつこい!」
ネアは妹のテュートに背中を押されて退室させられる。シモンは変わらず笑っていた。
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奴らは闇を好む。星の光が毒だから。
奴らは生きる全てを襲う。愛する最後の一人のため。
月が夜に封じられて人の領域は衰退した。
森が首都をはじめ多くの都市を飲み込んだから。そこに潜む『眼無し』が、生存する多くの民を襲ったから。
彼らは目を持たない。だから闇において遠くを見渡す。夜は、特に月の出ない新月の闇は人を狩る絶好の機会。
当然、人もまたその準備に追われていた。ある者は武器を、ある者は工具を抱えて拠点周辺の防衛力を少しでも高めるよう急いでいる。
「ネアさん!北側の防柵および堀の設営完了しました!これまでで最高の出来です!」
「了解!ご苦労さん、陽が沈み始めたから早く飯を済ませておけよ。」
やがて陽が沈み、闇夜が一帯に訪れる。今夜は新月だ。覚悟はここにいる全員が済ませている。
再び登る陽を二度と見ることは出来ないかもしれない。それでも武器を取り、戦わなければならない。生き延びなければならない。ディートニカはここを除いたほぼ全域を森に支配された。故に退路は無い。
森の向こうで何かが動いた。獣と人がふらりと現れる。その眼孔は潰されていた。だが彼らは俺たちをしっかりと捉えているだろう。
時間だ。作戦を開始する。
「『月光よ』!」
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戦線は崩壊した。奴だ。畜生、奴が現れた。
「北方より多数の魔獣が接近している!人を回せ!」「防柵が破れかけている!修復する時間を稼いでほしい!くそっ、俺の最高傑作が!」
あちこちで限界が近付いていた。『片目』と呼ばれるこいつはただの兵士の手に負える相手じゃない。
ディートニカ公国首都、通称『月区』は月の祝福を受けていた。今となっては森に覆われ、かつての荘厳な意匠は隠されているがその象徴たる月の魔術は失われていない。
彼ら眼無しは月区から訪れる。稀に人としての知能を保ったまま、月の魔術を行使する個体が現れる。
現ディートニカにおける最大の脅威だ。
そして、こいつらの対処が主な俺の仕事。
「静謐に響け。月区の象徴。」
名をネア・ブートジーグ。公国最後の魔術師。
銀色の閃光が新月の闇夜を吹き飛ばす。