ベルド大海淵
シアロフ共和国は国土の全てを海底に有する極めて特殊な国家だ。
その歴史はこの大陸で最も長いとされ、貴重な文化的遺産が現在も多数発見される。
そんな共和国の首都郊外、この星で最も深いとされる場所が存在した。
「本作戦の概要を説明する。」
時刻は明朝。しかし、外は真っ暗だ。というのも、予定された展開ポイントまで数分の距離、深度約10000mの深海に差し掛かっていた。小窓の外から僅かな日光も差し込まない。
イェールと俺、そしてリリーを含む総勢10名が技術課より配備された対大気圧潜水ユニットを装備して艦内下層エアロックに整列していた。
潜水ユニットの大きさは掌ほどで調査団制服の肩部に装着できる。使用者の魔力を利用して深海での活動を可能にする環境を整備してくれるらしい。正直心配だったが、作戦長に聞けば既に数回実施された作戦全てにおいて正常に動作したとのことだ。リリーからも問題ないよ、と太鼓判も頂いたので更に安心する。
「事前に説明した通り、この作戦による部分的な記憶喪失は現状避けられない事象である。改めて、本作戦に参加してくれた君たちには感謝を。」
「さて、当然ではあるがこの説明の記憶も失うことになる。最悪深海で魔力を切らし圧死する、なんてことも考えられる。そこで、君たちはこの装置と一緒に潜航する。これは拠点近辺の空間を維持していた結界の劣化版だ。もし作戦続行が困難であると判断した場合、各隊潜航順最後、常に安全圏に位置する者がすぐさま起動してほしい。なお、緊急時はこちらで強制的に皆を回収する。」
「現象が確認され次第、作戦概要をもう一度説明する。パニックになることも考えられるため耳元の送受信機および右肩部の潜水ユニットは予め固定しておくことを勧める。」
「本作戦において君たちには海淵のどこかにある、何かを回収または特定してほしい。」
「情報が不足して申し訳ないが、調査の初期段階とは得てしてこういうものだ。だが、その結界装置と似た文化の遺物であると推測される。」
「ベルド大海淵の謎を暴いてくれ。」
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数時間後、拠点を襲撃するらしい魔族。
俺達はこの調査に紛れてシアロフ共和国から脱出する計画を立てた。勿論シモンに関しては適当な理由をつけて艦内に連れてきている。
赤子を抱えて艦に乗り込んだ時に作戦長には何かすごく非常識を見るような目をされたが、親バカでもないし親でもないので勘違いしないでほしい。
数分前、艦を離れるときにシモンの面倒を頼むと快く引き受けてくれたため、雰囲気に反して案外柔和な方なのだろう。
さて、艦を離れて数分が経過した。
空気の層が体表を覆い、深海という過酷な環境でも問題なく活動出来ている。なんとも不思議な体験だ。左肩に装備されたライトが前方を照らすも、何も返らない。
暗闇の中、担当するポイントへ真っ直ぐに伸びたワイヤーを辿り潜航する。
すると無線で俺の下を先導するイェールが声を届けてきた。
「ケルン。分かってるでしょ?」
「ああ。境界の手前で全員で待機する。」
海底へ伸びるワイヤーを伝って俺たちは順調に海底へと近づいていた。もうすぐでその深度12000m。真っ暗な闇の奥に、見えない地獄が待ち構えている。ぞっとするような恐ろしさを覚えど、昇降ユニットは淡々と俺たちを海底へ運ぶ。
本来の調査作戦において、昇降ユニットはメインワイヤの終端に到達した後、各自が海底を探索する際メインワイヤと各自の体をつなぐサブワイヤとの接続点となる。万が一、人命にかかわる事態が発生した場合は、メインワイヤごと引き上げられ、俺たちは艦に強制的に回収される形だ。
ワイヤ自体が切断されたりした場合は意味をなさないが、この静かな深海にそれが出来る生物はいないだろう。もしそんなのが突然現れたならトラウマものだ。
「ケルン。リリー。多分、もう少しで、境界だと思う。」
「...分かった。リリー、停止だ。」
イェールが降下速度を緩めるとともに、こちらも降下を停止した。
俺たちはこの作戦に参加しない。記憶を無くしてまで協力するつもりはないし、魔族に強襲される上の拠点に戻るつもりがない。これ以上の降下は以後の行動におけるリスクでしかないため、作戦に参加したふりをして時間を潰すのだ。
待て、リリーからの返事がない。
「リリー!?」
イェールが無線機で呼びかけた。
しかし、上を見ると誰もいない。昇降ユニットとリリーを結んでいるはずのサブワイヤが主を失い、ゆらゆらと揺蕩っている。ワイヤが、切断されている。
「何かがいる。救援を要請した。私たちは上に戻るよ。姿勢維持に気を付けて、ケルン。」
リリーを見失った異常事態ではあるが、イェールは至極冷静に状況を進行する。
辺りを見渡すと、足元の方向から僅かな光源が確認できた。彼女はより深海に連れ去られている。唯一の救いと言うべきか、結界装置はリリーが管理していた。もし隙を見て起動出来たならある程度は安全地帯として機能するだろう。
メインワイヤが張り、俺たちの引き上げが開始される。だが、そう上手く事は運ばない。
「まずいぞ、イェール!囲まれた!」
一帯を、リリーを連れ去った生物の群れだろうか、俺たちを囲むように泳いでいた。姿の全体は見えずとも、その巨大な尾が視界の隅に現れては闇の向こうに沈む。
次の瞬間、メインワイヤから、ふっ、と張りが失われた。
艦と俺たちを結ぶ命綱が切断される。
同時に、俺たちは深海の暗闇に放り出された。
サブワイヤより一回り以上剛性に富んだはず。これまでの作戦で一度も切断されたことはなかったはず。こんな生物の生息地であるなら、既にその情報は共有されているはず。所持する装備では絶対に制圧は出来ない。
想定していなかった状況に陥り思考が鈍る。
まともに身動きの取れなくなった俺たちを知覚したのか、彼らが一気にこちらへ押し寄せる。顔は見えなかった。ただ開かれた大きな口の恐ろしさが、視界一杯に広がり、その牙が皮膚を切り裂く。
そう思われた瞬間、俺は横へ突き飛ばされる。耳元に響く牙と牙のぶつかる音。左体側の痛みを堪え、そちら顔を向ければ視線が一瞬交差する。
「ケルン!行くよ!」
「了解!ってまさか...!?」
イェールはそのまま流れるような動きで俺の足首を掴むと、上ではなく「下へ」引っ張った。俺にも聞こえるほどの駆動音を響かせて、イェールの潜水ユニットが俺たちをリリーのもとへ導く。
だが、それは記憶を失うことと引き換えだ。以後の計画には大きな変更が求められる。覚悟が出来ていない俺をまるで無視して、深度計はぐんぐんと数字を大きくする。
深海12100m
深海12200m
深海12300m
深海12400m
ライトが海底を薄く照らす。白い砂に半分埋まる結界装置。イェールが海底に落ちているそれに手を重ねると光が膨らみ、起動する。
そして、確かに記憶が失われる。
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朝は何を食べたっけ。あと、ここはどこだ?どうしてこんな真っ暗なんだ?それに、俺の足首を掴んでいるこの女性は何者なんだ?
何も理解できない。
「君、は、誰かな。」
「すみません。分かりません...そういうあなたは?」
「分からない。困ったね...」
暗闇に薄ぼんやりと広がる、かすかな光の膜。砂に半分埋まり、重い音を静かに響かせる黒い箱。
「君も、何か事情は知らないんだよね...?」
「はい...ここは一体...」
沈黙が場を支配していた。
一つ音が増える。
コンコン。
コンコン。
光の膜を固い何かが叩いた。
コンコン。
コンコン。
前の方、後ろの方、あちこちから何かが俺たちを確かめるように、静かにこの固い膜を突いている。
次第にその力が強くなる。何らかの脅威が闇の向こうにいる、気がする。
彼女も感じ取ったのか、光の膜が軋む音を聞いて口を開いた。
「少し焦った方がいいのかも知れません。何か、打開する手掛かりはないか、考えましょう。」
「同感です。装備している物は自分とあなたで同じですか?」
手のひら大の黒い箱。金属製で少し重い。どうしてか、右肩に固定されている。簡単には取り外せそうにない。今も小さく音を鳴らしている。
耳に固定された小さな物体。ザザザ...とこの今も鳴っており気になるので取り外したい。が、こちらも取り外せそうになかった。
黒い筒。左肩に取りつけることができる。可動する部分を動かすと光る。軽い。
12412と数字の書かれた丸い板。金属とは少し違う材質。点滅を繰り返している。
腰のあたりに繋がれたロープ。手繰り寄せることが出来るため何かに繋がっていることはなさそう。
短いナイフ。指の長さ程の刃渡り。
黒い衣服。何か意味があるのだろうか、紋章が刺繍されている。
分からないことだらけだ。閉じ込められているのかも、自ら望んでここにいるのかすら、何も思い出せない。ピクニックや散歩ではないことは分かるが。
どうにかなりそうな気分を抑えながら白い砂の上に並べられた道具を見終え、俺たちは残る一つに視線を移した。
ここで、三人目の声が現れる。
「こちら指令室。こちら指令室。ケルンさん、聞こえていますか。」
「うわっ!?」
「よかった、やっと繋がりましたね。」
耳元で、いや耳の中で知らない人の声が聞こえた。
目の前のこの人も同様の状況であるようで耳を押さえている。ケルンと言ったか?どういった関係かは推し量れないが、彼は俺を知っている。
「あなたは何者ですか?」
「それはどうでもいいことです。事情は理解しています。落ち着いて聞いてください。」
姿を見せない彼が言うに、俺は記憶を失った。危険な生物に取り囲まれている。身を守るための結界が停止するまで時間がない。そして、記憶を失う原因となった何かが近くにある。その調査が俺たちの目的だった。
「ともあれ、作戦は中止します。救助用のワイヤを届けるので、結界を維持したままそれを確保してください。」
「因みに隣の彼女はイェールと言います。あなたの姉です。信用して。」
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潜水艦にはケルンとイェール、リリーを除くほとんど全員が回収されていた。
突如として現れた海竜種。
ここよりもっと北の海に生息するはずの凶暴な水生生物。体長は稚魚の段階で成人男性の身長を優に超え、連合では珍味として楽しまれている。美味しい。
それは置いておいて、北の海で何かが起きている。でなければ、彼らが南下するのはあり得ない。
「指令。この海域に海竜種が現れるのは異常ですよ。」
「魔族が動いたのかもしれない。三人の救助が最優先だ。」
「しかし...リリーの生存信号を消失して5分が経過しました。潜水ユニットが故障したのであれば、もう手遅れです。」
「分かっている。だが、諦めるには早計だ。各自、予測落下地点を再計算。救助用ワイヤを射出しろ!」
潜水ユニットは右上腕部に固定され、装着者の心拍を計測、艦へ送信する機構も備えていた。
その電波強度から大まかな位置が特定される。リリーに装備された潜水ユニットから生存信号の発信が停止していた。
信号が消失した点を中心に広く、ワイヤを射出する。
だが、彼女はあのベル大隊長の右腕。
潜水ユニットさえ生きてさえいれば、彼女は生き残るだろう。そういう人間の集まりがあの大隊だ。
イヤホンは余程のことがない限り取り外せないよう固定されている。無線通信の呼びかけにも何ら反応を示さないため頭部に強い衝撃受けたのだろうか。
作戦実行に当たり人死にが発生することは珍しくない。だが、そんな作戦を指揮する立場になるのは初めてだ。艦内に響く隊員らも冷静を装っているが、語気が強まっている。
そんな中、一際大きい声が階下から届けられる。
「あああああああああっ!君ッ!どこに行くのぉ!?」
「作戦長!ケルンさんが連れてきた赤ん坊が結界装置を抱えて艦の外に出ました!」
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「イェール、姉さん?」
「どうしましたか、ケルン、弟。」
「すみません。なんか違うので普通に呼んでください。」
「嫌です。弟。」
「ああああ....。」
悍ましさというか、嫌悪感というか、そういった印象は前の俺も同じように感じ取っていたのだろう。どこか懐かしさすら感じる。
軽く深呼吸すると、遠くで何か重い物が落ちた振動を感じた。見ればワイヤーに繋がれた物体が少し遠くで砂塵を巻き上げている。俺たちは結界装置を抱えながらあのワイヤーにしがみ付き上昇する形でこの状況を脱出する。脱出の目途が立ったので緊張感が薄れていた。
「そういえば何ですけど、あれ、何なんですかね。」
「何か見えるの?」
「この膜が光っているので薄っすらですけど、イェールの後ろ、少し奥で何か光っている気がします。ほら、点滅してる。」
「ほんとだ。」
ライトを向けると、その輪郭がより明瞭に浮かび上がる。青白く仄かに光る門?海底の砂や残留物に塗れほぼ隠れているが、確かにそこにある。自然に出来たものではない。意図された線、削り出された縁取り、人工物の美しさと空間の不気味さが混在している。
「ケルン、彼が言っていた、私たちの探しているものはアレなんじゃない?」
「ありえる、というか間違いないと思う。」
高さは人一人がやっと通れるほど。表面には文字か、あるいは模様のようなものが刻まれていた。この砂に半分埋まっている箱に刻まれているものと同じそれが。
目を凝らし観察していると、耳元で再び彼が喋りだす。
「こちら指令室。二点、連絡事項。」
「一つ。赤ん坊が一名、君たちの下へ向かった。無理を言うが、保護を頼みたい。」
「二つ。君たちが見つけたその物体について、より詳細な共有を求める。」
淡く脈動する門について説明を行うイェール。それは任せて俺は上方に視線を向けると、確かにこちらに向かって大きくなる光源が見えた。目を凝らすと、確かに赤ん坊だ。意味が分からない。
通信を終えたイェールが同じく上方を確認する。そしてまた口を開く。
「ちょっと...あの子、私たちじゃなくてあの門に向かっていない?」
「そちら指令室。そちら指令室。指示を仰ぐ!」
「落ち着いてケルン。少しやることが増えただけ。向こうまで行ってあの子を回収するよ。ほら、それ抱えて。」
姉であることが分かってから少し横柄になっている。受け入れるべきか?
そんな逡巡を待たずしてイェールは立ち上がり歩き出す。結界を中心に移動を開始する。
数分移動して赤ん坊があの門の直上に到達した。とうに記憶を失っているはずだが、門へ向かう行動に変化は見られない。
俺とイェールの見せたふるまいとの違い、違和感を感じながら重すぎる結界装置を抱えて砂に足を取られながらゆっくりと前進する。
赤ん坊の小さな手が門の表面に触れた、次の瞬間。
淡い光が弾け、そこには門を除き何も残らない。
「こちら指令室。異常な魔力振動を検知。何が起こった?」
「こちらイェール。赤ん坊が門に触れて、消えた。」
「ッッ!転送門だと!?現存するのか!?いや、この魔力振動は...危険だ!二人とも、急いでその場を離れろ!巻き込まれる!」
転送門と称されたそれを見やると、先ほどとは比較にならない密度の光が内部から溢れ出していた。
「ケルン、急いで! 今度は何か、本当にまずい!」
イェールの声に押されるように、俺は結界装置を強く抱き直し、門に背を向けワイヤーへと向かって駆け出す。既に赤ん坊の姿はない。門だけが、何事もなかったようにそこにあり――いや、むしろ“何かが始まった”かのように、存在感を増している。
全力の数歩。
門から差し込む極光が俺たちを一瞬で追い越し、前方にこの闇よりも濃い影を結ぶ。
それを最後に俺たちもまた、門の中へと引きずり込まれた。
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視界が白く反転する。重力の感覚が宙ぶらりんになり、前後も上下も分からなくなる。耳鳴り。思考の縁が揺れる。
それでも、イェールの腕が俺の手を離さなかった。
だがそれは一瞬の出来事。
ドン、と足元に硬質な地面の感触。
「っ――つ!」
イェールと共に、俺はごろりと転がるように着地した。こいつの尻が俺の胃を潰した。息が荒く、目の焦点が合わない。だがそれでも、視界に広がる光景に目を見開かざるをえなかった。
空。
仰ぎ見ることしかできなかったそれを見下ろしている。青い星がそこにある。灰色の大地が周りに広がる。
ここはまさか。それに、多くを思い出した。記憶を失っていたのはあの転送門の影響だ。巡りに巡る状況と情報。不安と興奮。どっと押し寄せる感情と記憶の濁流。
俺たちは深海から、宇宙へ一瞬で移動したのだ。
床にいるシモンを取り敢えず抱きかかえて、周りを見渡すと背後から「ケルンか?」と突然声を投げかけられる。男の声だ。それに覚えがある。
「ネア!?それに、リリーも!」
「ああ、彼女は大丈夫。急に気絶しているだけだ。」
リリーを背負って現れたネア。あちこち傷だらけで、銀色だったはずの軽鎧に乾いた血が張り付いている。しかし声の調子からして大丈夫そうだ。
「それは良かった...お前の方は大丈夫なのか?あれから何があった?それに、ここは一体?...ッ」
ネアの方へ歩き出すと足の痛みに気付いた。
砂に足を取られて足首を捻ってしまったのか、若干痛む。その様子を見てネアは笑いながら言う。
「随分な目に遭ったようだな。混乱しているのも無理はない。実を言うと俺もここに来たのはついさっきなんだ。」
「でも、ここがどこかは俺たち公国の人間は全員知ってるぜ。」
それに被さるように、いつになく静かだったイェールがようやく口を開いた。めったに崩さない気持ち悪い笑みを解いて、驚きを含んだ感情のまま。
「エアイース衛星国。宇宙にある、月の祝福に最も近い場所。」




