グランギニョルの憧憬
分類する。
それは効率よく把握する事。
知的生物にとって不可欠な手段。
それ故に、知的生物はその分類から逸脱した物に対し強い感情を抱く。
一つは知識欲。
つまり積極的に分類を行なおうとする意志。
一つは恐怖。
未知なる物には危険が潜む場合が多い。それ故に本能的に恐れる。
一つは──────
「アリス?」
未だ少女の幼さが残る声が問い掛ける。
「はい」
「今日はアリスは同行するの?」
不安。
気丈にそれを隠そうとするも、長きを共にする私にとってわからない話ではない。
しかし、それに安易に応じる時期はとうに過ぎている。
それを心の中で念じ、平静を以って応じる。
「本日はエクスターク氏との会談です。
私が参加するわけには参りません」
私邸での対談。
つまり公式でない話を含むという意味。
「……そうね」
一瞬反駁しかけた鏡の中の少女、だが気付かぬふりをして髪を梳く。
数秒の沈黙は部屋の空気を少しずつ鉛に換えていく。
見るからに細い肩がその重圧にあっさりと折れてしまいそうだと幻視する。
頃合を見計らい、ブラシを置いて一歩下がる。
一拍の間を置いて立ち上がった少女は「ありがとう」と生気にやや欠けるねぎらいを告げ、しかし瞳は鏡越しに私に未練がましく問いかける。
その背に私は静かな一言を放つ。
「お嬢様なら問題なく達せられる事でしょう」
少女は振り返らない。
ただほんの僅かな頷きを残して去っていく。
その背中に深々と頭を下げる。
それが今やるべき事ならば迷う事は無い。
私の名はアリス。
ただのアリス。
何者でもなく、何者にもなれない者。
私は常に『狭間』にある。
私の最も古い記憶は荒れ果てた村にある。
私の父はエルフである。
人間の世界に混じり、傭兵をやっていた。
そして私の母は人間。
村に生まれて普通に育った。
これまで何度となく行なわれてきた国家間の戦争。
争いでのたうつ蛇のように変化し続ける国境線は、偶然母の住む村を最前線に押し上げ、拠点防衛のために派兵された兵団に父の所属する傭兵団もあった。
そこで父と母は知り合い、死んだ。
私の最も古い思い出。
それは無数の矢に貫かれる二人の姿。
敵の軍勢が攻めてくるという報告に対し、軍の判断は前線を下げる事だった。
戦力的に防衛する事は不可能。
己を過信しないその判断は戦術的には全く持って優秀であった。
『たかだか村一つ』。
また取り返せばいいのだ。
軍の撤退は雇われた傭兵の撤退でもある。
そしてそれは迅速に行なわなければならない。
そして何よりも厳守されるべき事項があった。
撤退を村人に知られてはならない。
理由は考えるまでも無い。
いちいち村人を連れて歩けず、攻められると知って快く見送ってくれるはずがない。
そして敵襲。
父は命令を違反し母と私を助けに行った。
結果は、私の記憶の通り。
「アリシア」
太く、重い声が私を呼ぶ。
「はい」
慇懃に応じて軽く会釈。
「シェルロットは出たかね?」
ファフテン公。
上級文官にして誰もが「武人」と認める異例の存在。
その感覚は実の所間違いではない。
彼は元武官である。
かつて白に属し、後にその才能から銀へ抜擢された逸材である。
だが、質実剛健にして国に身を捧ぐ彼は銀のあまりの惰弱ぶりに腹を立て抗議の意味で退役を宣言した。
騎士位すら返還しようとした彼に国は大慌てで『軍人経験を生かしてもらいたい』という名目で兵站を管理する財務官に就けた。
文官にして唯一軍部に近いそこで心変わりを期待したのだろう。
また、彼には信望者が多く、由々しき事態を併発する危険性も国は恐れたのだ。
だが、結果は誰も予想しない方向へと転がった。
人は語る。
もしも二人が同じ時代に居なければ、彼は再び武官となり軍で優秀な戦績を築き上げていたか、そのまま腐っていただろうと。
財務官となった彼が目の当たりにした一つの事実。
それが今の彼を作り上げる事になった。
『木蘭嫌いの』ファフテン。
世界に名の知らぬ者なしとも言われる英雄、花木蘭。
彼女の才能を今更語る必要は無い。
だが、彼女の『思いつき』が見えないところで何を起こしているかを人は知らなかった。
着任三日目にして彼は直接謁見できるはずもない財務大臣の部屋に乗り込み怒鳴ったと言う。
「なぜ貴方はこんな横暴を許している!」
大臣ともなれば爵位も持っている。
反逆罪とすら取られかねない行為だが、彼は止まらない。
だが、その勢いの根源が大臣の目に留まった。
つまる所、彼の糾弾は『木蘭が思いつきで行なう様々な試みが、国の予算を超過しているのを何故放置しているのか』である。
無論それは大臣にとっても本来看過できぬことであり、予算会議で槍玉にすら上げられる内容であった。
しかしかの英雄は明確な実績を常に刻み、批判の全てを傲慢なまでに粉砕していた。
確かに結果論。
しかし必ずと言っていいほどの実績故に看過する羽目に陥っていたのである。
「宜しい。
ならば次の予算議会に君も出てもらおう」
この時すでに、国を挙げての英雄扱いをされていた彼女に対し、文官からの敵意は増大の一歩を辿っていた。
原因とすれば彼女が「文官が嫌いだ」と明言したこともあるが、その言葉を肖るだけの無能者があからさまな文官への嘲笑を行ったことも大きかった。
当時の大臣は実に賢明であった。
彼は今まで実績を盾に我儘を通す英雄に対し、持ち得なかった『軍人からの視点』が転がり込んできたと認識したのだから。
『木蘭嫌いの武官は失墜し、文官は出世する』。
やがて囁かれるこの言葉はこのとき始まったのかもしれない。
「はい、先ほど」
答えはすでに承知だろう。
彼にしても娘は眼に入れても痛くない。
「そうか」
だが、甘さは全く無い。
それが将来のためと思えば躊躇い無く、そして油断無く実行し続けてきたから今の彼がある。
「どう読む」
「お嬢様を甘く見ておられるのでしょう」
私の答えに彼は口の端だけを釣りあげて笑う。
「勝てるか?」
勝つか負けるか。
おおよそ内輪の会談で出てくる単語ではないが、的外れではない。
武官にして口悪く言われる「平和なところで安穏としている文官ども」という言葉。
その言葉はこの魔窟を見てから言うべきである。
人は無欲で動ける物ではない。
誰もが皆、国のために無償で投げ出すなどありえない。
何かを為すために何かを支払わなければならない。
そして出せる代償以上の物を得んがためにやはり戦うのだ。
「彼の目的は閣下が退かれた今、次の大臣の座を得る事でしょう」
「彼は適当かね?」
「いえ」
即答。
エクスターク公が優秀か否かと言えば間違いなく優秀だと答える。
そうでない者が大国アイリーンにして大臣を狙うなどおこがましいにも程がある。
そしてファフテンの娘を呼び付けるだけの力もある。
「お嬢様が……『負けた』場合、彼を立てるのですか?」
「……そうだな」
考えてもいなかったのだろう。
彼は顎鬚をしごき、「まぁ、そうなるだろうな」と目を細める。
「その時は、自分で責任を取ってもらうとしよう」
文武共に百戦錬磨の獅子は愉しそうに窓の外へ視線を送る。
谷に突き落とした我が子が帰ってくることに疑いは無いのだろう。
むしろ、どんな顔をして帰ってくるのかが楽しみでならない。
そんな顔をして─────
『獅子賢』
容貌も然ることながら、武人の気迫を秘める賢人は崖下の娘を微笑み見守る。
一人の老人が居た。
彼は私の記憶の最も多きを占めている人物である。
両親の死を代償にするように、村の唯一の生き残りとなった私は、攻め込んだ軍に捕まり、しかし扱いに困ったのか上官の元へ連れて行かれた。
「生き残り……か」
まだ年若い士官が苦々しく呟く。
結果的に自身が虐殺を行なってしまった、その証拠と写ったからだろうか。
「折角拾った命、これも神の導きじゃろう」
「父上……」
口を挟んだのは軍事顧問をしていた老人であった。
話に一切興味ない素振りであったため、皆不意を突かれたように老人を振り返る。
「どれ、息子も独り立ちして寂しい身の上じゃ。
わしが預かろう」
「た、戯れを!」
後にこの男が何に声を荒げたのかを知ることになるが、今の彼女にわかろうはずも無い。
このときの私が理解したのは、自分がこの老人に拾われたと、その事実だけだった。
それから数ヵ月後、戦局も落ち着いた後に連れて行かれた先は見たこともないほど大きな街だった。
そこは彼が治める州の都。
この時私は初めて彼が大国アイリンの男爵である事を知った。
彼は本来一線を退いた身であった。
しかし不甲斐ない息子に家督を継がせる事を家臣に反対され、今回も妥協案として軍事顧問の名目で参軍していたのである。
息子が一人立ちなどとんでもない。
私の村で行った虐殺も、家臣の制止を振り切って「あれは敵軍を匿っているんだ!」と命令した結果である。
幸いにも部下は優秀。
任せておけばいい。
参軍の意味とは息子が暴走しないように監視する。
ただそれだけであった。
なまじ領地が敵国と接しているため、戦の準備は絶え間なく、しかし実際にやる事は彼にはない。
暇なのに暇でない、そんな老人が起こした思いつき。
犬猫を飼うのと同じ感覚だったのだろう。
その証拠に、彼は二年ほど経ったある日、不意にこう言った。
「そう言えばお前さん全然成長せんなぁ。
……そうじゃ、おまえさん『アリス』と名乗るが良い」
それまで、私は『おまえさん』とか『嬢』とかしか呼ばれず、使用人からもその地方のスラングで『野犬』を意味する『デリー』と呼ばれていた。
永遠の少女。
ハーフエルフとして成長が緩やかな私につけられた二つ目の名前。
「やぁ、アリス」
屋敷を出ようとした私に声をかけて来たのは20代前半の優男。
名をエクメールと言い、お嬢様の補佐役を勤める。
優秀か否かだけで判断すれば間違いなく優秀。
けれども人間性については『難』しかない男。
「貴方がどうしてそこに居るのか、聞いてよいですか?」
「無論君に会うためさ」
何の臆面もなく言い放つ。
溜息をつくのも煩わしいが、問い質そうとする瞬間を狙って彼は再び言葉を紡ぎ始める。
「お嬢様なら先に公への報告をしてるよ」
「無事会談は終えられたと?」
彼の話し振りがいちいち演技じみているのは相手の反応を楽しむためだろう。
「……うーん」
口では悩ましさを呟き、顔は思い出し笑いににやけている。
なんとも苛立たしい顔である。
「まぁ、成功と言えば成功だね。
いやはや世の中には予測できない事が多すぎる」
会談の当初は今後の執政についての相談であったという。
しかし予想通り話は次の大臣選出に移行し、予想していたお嬢様は相手の出方を見る事にしたという。
「だが、それからが傑作だったね」
予想外の行動。
それはよりにもよって婚姻話を持ち出したことらしい。
土台を磐石にするためにファフテンの獲り込みをする。
確かにその方法の上ではあるかもしれないが、ファフテンの唯一の弱点とまで言われる一人娘をあろうことか御年50歳の男が自分の妻に迎えたいと言い出したのである。
「いやぁ、あれは噴き出さないように堪えるのに苦労したよ?
しかも、お姫さんはそっちに耐性ゼロだからねぇ」
あらゆる罵詈雑言が聞き流せたとして、さすがにそのアプローチは意外すぎたらしい。
「顔を真っ赤にして、いや、もちろん照れてるんじゃなくて怒りでだよ?
ふざけるのも大概にしなさいって怒鳴ってさ。
さすがは獅子賢の娘だねぇ」
当事者でなければ笑い話だろうが、そんな簡単な話ではない。
「ああ、安心して。
会談は上手く行ったから」
「貴方の話は回りくどすぎる。
簡潔に述べなさい」
「真意を甲冑で着飾るのは文官のたしなみだよ?」
本気で恫喝したところでこの男は微風くらいにしか思わないだろう。
薄笑いのまま話を続ける。
「いやね、怒鳴られたおっさんの顔がなんか変でさ。
それまであざけりと言うか、小娘を見下すって感じだったんだけどさ、急にこー、惚れたって感じ?」
「……はぁ?」
つい間抜けな声が漏れる。
それに大いに満足したらしい男は爆笑を堪えるように続ける。
「失言に気付いて我に返ったお姫さんが謝るのも上の空でさ、後の話ははいはいともう服従状態。
っかしいなーって俺も思ってたらさ、帰りになんて言われたと思う?」
余り聞きたくないと思った。
だが顔に出したそれを敏感に読み取った男がそれを引っ込めるはずがない。
「『貴君はいつもああやって叱られてるのかい?』だぜ?」
声真似のつもりだろうか、急に低い声をして語るそれはおぞましさを背に響かせる。
「いやー、そういう性癖だったとは。
あれでボンボンのはずだから今まで気付いてなかった自分に目覚めたって感じか?」
この男を殴り飛ばしたい欲求を堪えため息をつく。
そうなると今ごろお嬢様はお叱りを受けている頃だろう。
だが、苦言を吐く旦那様は心の底で満足な笑みを浮かべていることだろう。
確かに予測するのは難しい。
本当に、難しい。
老人に拾われて10年が経った頃。
各地で思い出したかのように繰り返される小競り合いを嘲笑う事件が起きた。
のちに『聖戦』と呼ばれる魔族対人間の大戦争である。
国を越えた戦いに軍事力を持つ各貴族が無干渉を貫けるわけもなく、この州からも多くの兵が出立していった。
老人もまた多くの兵に軍事顧問として同行するように求められた。
しかし今までにない戦いを前に老人は唐突に引退を宣言した。
臆病風に吹かれたと揶揄する者は後を絶たなかったが、この大一番までおんぶにだっこを続けていてはやがて来る彼の死後、この家が危ういと考えた末の決断だった。
それにまだまだ元気とは言え、老人はすでに平均寿命をはるかに超過する70歳を迎えていた。
実際批難するほうがおかしな年齢であるが、それが不安からと誰もが知り、ののしる言葉をあえて指し止めなかった。
刻一刻と人間側の旗色が悪くなる中、一つの報が舞い込む。
それはこの州を継いだばかりの男が戦死したとの告げるものであった。
その時の彼の顔を私はよく覚えている。
決して悲しみではない。
そう、ようやく何かを諦めたような、そんな安堵とも思える沈痛。
すぐさま彼は戦死者の遺族を見舞うように指示を行い、また新たな軍備等一通りの指示を行うと家臣の出払った執務室で深い溜息をついた。
「のぅ、アリス」
「はい」
「お前が継ぐか?」
老人の戯れは多岐に及んだ。
暇だと言えばチェスを初めとした遊戯を教えられ、書類事務が面倒だと言っては更に面倒ではないかと思うほどの熱心ぶりで読み書きを教えられた。
その行為は野良犬に芸を教え込むのと同じ感覚かもしれない。
上手く『芸』を仕込めなかった息子との対比があったのかもしれない。
なし崩しとはいえ、老人に対し恩のある私はただ必死に応えようとしただけだった。
老人が思いついたように教えたことを私は純粋にそして確実に覚えていった。
気付けば私は誰よりも彼のやり方と、この州のことを把握していた。
「お前だけが私の全てを受け継いだ。
しかもアリス。
お前なら長くこの地を見守れる」
私がハーフエルフだとこの老人が気付いたのは四年目の事である。
とある貴族が『ご自慢の人形』に対して衣服を贈って来たとき、面白がって着替えるように命じたのである。
ドレスを着る場合、髪を結い上げるのは当然で、その時初めて老人はその特徴的な耳に気付いた次第である。
「……」
「冗談ではない。
気まぐれに拾った小石が宝石の原石だったと言うわけだ」
老人はやおら立ち上がると一瞬にして十は老いたかのような足取りで自室へ向かう。
「すぐにとは言わん。
考えておいてくれ」
私は一人、立ち尽くすばかりだった。
お嬢様の環境はこの数ヶ月で大きく変わった。
今年で15となる彼女は父の後継者となるべく補佐官の仕事を始めている。
だが、実質補佐官だったのはわずか三ヶ月。
不意に補佐の二文字を奪い自分の仕事の一部を投げ預けられた彼女は孤軍奮闘している。
人事としてはかの閣下に勝るとも劣らない横暴かもしれないが、事実上それを批難する者はいない。
ファフテンの名が怖いわけではない。
他の文官からしてみれば折角育てた家畜を野に放ってしまったように見えただろう。
事実当初の一ヶ月。
お嬢様の周囲は嵐とも言えた。
何人もの上下問わぬ者達が『挨拶』に訪れ、得も知れぬ贈り物が届いた。
困惑するお嬢様に対し旦那様は何も口を出さずただ報告を聞くだけ。
それを知ったハイエナ達はここぞとばかりに行動に移った。
二ヶ月目に入った頃。
旦那様と、そして私の予想通りの事態が訪れる。
爆発したのだ。
お嬢様の理性が。
ある日、開かれた晩餐会である貴族の子弟がお嬢様に声をかけた。
その男も父の跡を継ぐべく文官となったばかりで、ピンポイントでお嬢様が我慢していること、気にしていることをずけずけと言い放ったのである。
晩餐会会場に響き渡ったのは楽団の奏でる音楽を一蹴してあり余るビンタの音と怒声。
時間にして30分程度、なんびとたりとも介入を許さない怒涛の口撃はようやく落ち着いたお嬢様のイメージを一気に改めさせた。
やはり獅子の子は獅子らしい。それから暫く囁かれた言葉であり、それを小耳にするたびに旦那様は愉快そうに笑い、お嬢様は顔を赤らめていらっしゃったが。
ちなみにその時に張り倒されたのが先ほどの軽薄な補佐官だったりするのは、これ全て旦那様の仕掛けだったのではないかと疑っている所。
「失礼します」
お嬢様の部屋に立ち入った私はがっくりとうな垂れたまま執務机で仕事をする姿を見つける。
確か今お嬢様が手がけているのはバールとの国境に作られる新しい農園地帯の折衝。
鬼姫の謀略は今まで決して良いとは言えなかった国家間の感情を最悪にまで転落せしめた。
もはや政治とは言い難い悪口の応酬すら外交のテーブルに持ち上がる中、更なる急転ははガズリズトの死で訪れる。
敵対から友好へ。
掌を返すとはまさにこの事とばかりだが、昨日まで呪い合うように顔を合わせていた相手と仲良く手取り足取りと言うには仕事と割り切っても難しかった。
故にその感情も浅いという理由で旦那様が手回しをしたのだ。
そしてその利益を狙った者が静かに動き出しているのが現状と言うところか。
「アリスぅ」
恨みがましい声。
「もぅやだ。
やめるぅ」
執務机にぺたりと頬をつけただらしのない格好で怨嗟の声が漏れ出すように紡がれる。
「そうですか」
それを聞き流しながらお茶を淹れる。
お嬢様がお気に入りの茶葉が入手できたので、最もおいしくいただいてもらうように砂時計を選ぶ。
一通り準備を済ませ、お嬢様を横目で見ながら砂時計をひっくり返す。
「お金とか権力とか、そんなに欲しいものなのかなぁ」
「一般的な意見からすれば欲しいでしょう」
一般から見れば裕福でありながら、実を尊ぶ旦那様を見てきたのであれば、周囲の様々な物が過剰に見えるのだろう。
「アリスも?」
少しだけ顔を挙げて問うてくる少女に私は僅かに手を止め、
「私は『一般的』の範囲に居ませんので」
と、曖昧に答える。
それを前提に少しだけ考え、
「お金があれば楽ができますし、権力があれば好きな事ができます」
と続けた。
「でも、それを維持するのがどれだけ大変か。
割に合わないわ」
それも一面。
ただ呆然としていれば金も権力もどこかに掠め取られ消えていくだろう。
腐敗政治とはその維持管理をいかに楽に行なうかを追求した結果とも言える。
「国王陛下でもやりたい事がやれるわけじゃないって知ってるのに、なんであんなに固執できるんだろ」
「そうですね……」
私はかつての記憶を反芻し、静かに言葉にする。
「人は望む存在だそうです」
「……」
「手に入れることよりも、むしろ望み続け、追い求める事の方が人にとって重要なのだと。
お嬢様が欲しがってすぐに飽きた服のようなものですね」
「う……そんな昔の事引っ張り出さなくても」
思い当たったのだろう。
お嬢様が恨めしそうに顔を赤くする。
「今でも着れますよ?」
「それはあたしが成長していないって意味!?
ってなんで視線逸らすのよ!」
元気が出てきたようで何より。
更なる追求を避けるために、私はカップを差し出す。
「お嬢様に望みはないのですか?」
「話題逸らしたっ……!
無いわけじゃないと思うけど……なんかはっきりしない」
紅茶に手を伸ばし、僅かに逡巡した後に搾り出したのは不安そのもの。
「ではまずそれをお探しになっては如何でしょうか。
そうすれば見えてくる物もあると思います」
「……あいつらと同じで金とか欲しがっても?」
「良いのではないでしょうか」
少しだけ驚かれた顔。
構わず続ける。
「金も宝石も、あるだけでは石ころと変わりません。
得た物を何に使うかが民を統べる者としての良し悪しかと。
例えば宝石一つで飢餓に苦しむ家族を救うことができるでしょう。
また逆にその価値で人を殺す依頼をすることができます」
お嬢様がやろうとしているのは旦那様の真似をすること。
しかしそれは無理とは言わないまでも、今の経験値ではそれに程近い。
その事実をなんとなくわかっているから、自分のあるべき姿が見えていない。
「得ることよりも、得た物をどう使うか……」
「武人にして武勲を誇る。
けれどもそれは効率よく殺人をした証とも言えます。
酷い解釈をすれば、国のためなら殺人は善行と言い張って威張っています」
武官に対する悪口の典型とも言える暴言。
その活躍なくばどれだけの悲しみが量産されたかを無視した言葉。
「定期的に開かれる晩餐会を財政の無駄と批難した者もいます。
お嬢様、この言葉のあまりの愚かさはご理解いただけると思いますが」
考える必要も無く、答えはすぐに返ってくる。
「……お金持ちが質素倹約をすれば、お金が循環せず、経済が悪化する」
「はい。
過ぎれば何事も毒ですが、何においても経済の毒は滞留することです。
消費すれば生産者が潤い、それは社会全体の発展に繋がります。
人が住むのに豪邸は不要です。
豪邸が無ければ使用人も不要でしょう。
しかしそれは建築業者の仕事を奪い、使用人という雇用口を失う事になります」
暫くの沈黙ののち私に視線を合わせる。
その瞳はいまだ考えあぐねいた揺らぎを抱く。
「アリス、私は……」
「お嬢様はお嬢様です。
己の信じる道を見つければよろしいかと。
そして私の知っているお嬢様は何度間違えても最後は己が信じられる道を見つけ出せる方と思っています」
「それって買いかぶり過ぎだよ」
苦笑をしながら改めて紅茶を楽しみはじめるお嬢様を見て、私は部屋を後にする。
今は迷っていても、やがて真っ直ぐ歩き始めるであろう彼女を、羨ましく思いながら。
認識の変化はすぐに起こった。
むしろ今までの私のあり方があまりにも不自然なため判断しやすい方を歓迎したのか。
事情を知らない者は、いい年して愛妾を引き連れる老人と。
熱心にいろいろ教え込む姿を見ている家臣からは、実は隠し子ではないかと噂されていた。
州を任された者にとって隠し子など持ってのほかな話題である。
思えど口に出さず、されど問えない。
そして少なからず無能な後継者に先の不安を覚えていたことによる期待があった。
後継者の戦死。
狙ったかのようなタイミングでの養子縁組の話。
疑惑を加速させるなと言う方が無理である。
翌日からの変化を私はどこか遠い場所の絵を見るような、そんな気分で見つめていた。
時間を見て手伝っていた使用人の仕事をやらせてもらえなくなり、急に態度がよそよそしくなる。
今更不気味とは言わない。
けれども決して気分のいいものでもない。
それでも結局私に出来た事は変化に流されるまま、皆が望むままになること。
ただそれだけだった。
聖戦が人間側の勝利に終わり、疲弊した各国が軍を引き上げる頃。
この話は正式に老人の口から放たれ、家臣はその言葉に今更慌てる事も無く段取りを進めていく。
老人の発表に誰も驚きはしない。すでに知っているから。
しかし何故か彼らは急いでいた。
ようやくかかった号令に対し、一瞬でも早く全てを纏め上げようとしていた。
老人が病に冒されているわけではない。
若きから今まで好き好んで鍛えた体は息子よりもよっぽど健康で、あと20年ばかりは元気に生きそうである。
では何ゆえに?
私は知らないが知っていた。
たった一つ、自分に聞かされていない情報が逐次老人に届けられていることを。
不気味で慌しい日々が続き、それが終わりを告げる日に。
それは現れた。
私の仕事は主に三つ。
一つは言うまでもなくお嬢様の侍女。
一つは屋敷の管理責任者。
そして最後の一つは諜報。
公務に着いて自由に動けない宮仕えだが、情報は何もよりも重要で不可欠だ。
決しておろそかにできない。
公も例に漏れず何人もの諜報を駆使して情報戦を行っている。
私もその一人に過ぎない。
暁の女神亭という店がある。
アイリンに住む者なら知らぬはずもないとまで言われる酒場兼宿。
つまり冒険者の酒場。
ここの持ち主は花木蘭。
それだけなら憧れや物珍しさから客がごった返しそうなものなのだが客はまばらである。
「命が大事なら近づくな」
高級貴族や要人が不意に現れたり、何所の馬とも知れないごろつきが普通に入り込んだりするばかりでなく、魔族の襲来から神の降臨まで何でもありの混沌の地である。
まともな精神をした市民は遠目に眺めてもなるべく近付かない。
ここ一年を見ても一生に一度出会うかどうかの異変が両の指で足りぬほど起きているのだから当然だろう。
誰だって命は惜しい。
要人は訪れるわ事件が起きるやらで、常に黒が配備されているのは当然。
さらにはここで見張っておけばアイリンの災害の8割は防げるとまで言われる始末である。
事実、魔法的な視覚でこの宿を見ればあまりの異常ぶりに眩暈がするだろう。
まず世界でも幾人しか使えないであろう転移魔法が恐ろしいことに何度も使われた痕跡がはっきり刻まれている。
それに加えて満天の星空どころか太陽が二、三個転がっているような魔法反応がそこらしらから感じられる。
宿の周囲にある異様な気配もさることながら、その裏手には自然にありえぬ環境が構築されつつある。
まるで前衛芸術。
優美な町並みの絵に一部分だけ毒々しい色を塗りこめた圧倒的な違和感がそこにある。
『アイリーンのみならず、世界に干渉をする混沌の秘密基地』
冗談にしてはあまりにも生々しく、そして実績を持つ場所に私は足を踏み入れる。
この宿が賑わうのは日の変わるまでの数時間。
時折訪れては来客の話に耳を傾ける。
「よう、ファフテンの愛人」
まるで山賊のような口ぶりだが、私を目ざとく見つけて声をかけてきたのは紛れも無い、木蘭閣下である。
「ご機嫌麗しく」
伝説が一人歩きした挙句、それを追撃してさらに輪を掛ける。
そんな彼女に始めて遭った者はまずその美しさに目を捕らわれ、その口ぶりに唖然とし、そして周りのフォローで彼女が生きる英雄であると知る。
尊大と言えばまだ格好も良いが、ただ見れば粗雑。
どこかの詩人は『夏バテした暴君』と謳っていた。
「閣下、お言葉ですが、余り口汚いと周囲に示しがつきません」
「良いだろ別に。
私はもう引退したのだ」
「その一挙一動に民は注目しております」
それにしても、会話する毎に思う。
この人は若い。若いまま才能と勢いでここまで来てしまったのだと感じる。
しばらくの会話。
まるで子供の論理で私の諭しに唇を尖らせる不毛なもの。
彼女が別の人間に興味を持ったところで適度に離れ状況を観察する。
ここに集まるのは赤の関係者が中心と言える。
アイリンの市外警備を担当するのだから、当然と言えば当然だろう。
それだけではなく、実力を有した冒険者が集っている。
恐ろしい事にそのほとんどは世に名を知られていない。
かつての聖戦のおり、英雄達の影に紛れて逆転の目を生み出したのも、続く戦乱や混乱に解決の糸口を見出したのもこの酒場の人間だと聞く。
最もわかりやすい事例が先の武術大会だろう。
国を問わず集まった腕自慢の中、様々な予想を裏切ってこの宿の常連達が勝ち進んでいた。
中にはルーンナイトや青騎士まで居たというのにである。
一般人がとうの前に家路に就いたこの時間。
とりとめのない会話をしている集団は特に私を気にする事なくこの時間を楽しんでいる。
私は何をするもなく、この場を記憶に納め、静かに夜を過ごす。
その会話がやがて世界を揺るがす事件に発展することもある。
そんな冗談じみた事実を反芻しながら。
目は怒りに満ちていた。
その怒りの全てを受けて私は立ち尽くす。
「父上、これは何の冗談か」
死んだはずの男は傷ひとつない体で声を響かせる。
家臣達が互いに叱責するような視線を交わす中、男は悠然とそして怒りをまといながら一歩また一歩と近付く。
「答えよ!」
声は周囲に。
だが誰もが戸惑いのまま動けない。
「…………ええい!
答えよ!
ここは私の城だと!」
彼の言う事は正しい。
一度家督を継いだ以上、ここは彼の城に相違ない。
「答えぬか!」
「もう、やめよ」
重く疲れた声。
無論主は彼の父である老人。
「そして気付け。
お前は望まれておらぬ」
「黙れ爺ぃ!
俺のモノが勝手をした故にその責を問いているのだ!」
「……なれば、まずお前が己の罪を購え」
搾り出すような言葉に反応を表したのは彼の部屋に「秘密の報告」を持ち込み続けた数人。
「俺の罪だと?」
「兵六千が全滅し、何故お前は生きている」
「それは、兵がだらしなく、俺が強運だったまでよ!」
「戯言を抜かすな!!」
怒号。
これほどの轟音を老人の何所から発せられるか。
石柱すら震撼させる声に男は人形のように硬直する。
「わしが何も知らんと思うてか!
拙い采配から大事を見た指揮官に後詰を任されたが、功を焦って命令違反の突出。
貴様は軍の連携をずたずたにした挙句勝ち戦を泥沼の消耗戦に引きずり落とした!」
懲罰という言葉では済まない。
死で償わなければならないほどの大失態である。
「お前のモノなどもはやどこにも無いのだ。
この州はお前の失態に購うために返還した。
男爵位もだ」
「な、なにを……!
では、これはなんだ。
現にお前達がやろうとしているのは何だ!!」
「閣下の御慈悲じゃよ。
返還した州と男爵位をわしの功績に対し再度賜れた。
お前に譲ったはずのものは全てお前が食い尽くした。
ここにはもうない」
「ば、馬鹿な!
誰がそんな事を許した!!」
「見苦しい!!」
わめき声を大喝が一蹴する。
「誰が、じゃと。
誰でもないお前がしでかした事をまだ他人の責としたいか!
何が兵がだらしなく、だ!
真っ先に逃亡したお前が壊軍のきっかけではないか!」
「そんなのデタラメだ!」
もはや場の空気は一欠けらも彼に味方しない。
あまりのやり取りに天を仰ぐ者までいた。
「いい加減にせぬか!」
岩をも打ち砕くような大喝に男は空けたままの口を閉じれずに身を固くする。
「お前がしでかした事は陛下の温情だけでどうなることでもない!
お前が逃げ出した後、残された兵たちがせめて自分達の責を全うしようと奮闘したからだ!
彼らは皆、討ち死にした!
しかしその命で崩れかけた戦線を復帰させた!」
男は顔面を蒼白にし、紡ごうとして紡げない言葉で唇が震える。
「強運だと!?
ふざけるな!死ななくても良かった者の死をどれだけ汚せば気が済む!
全世界が大切なものを護るために命を賭し戦った中で、お前ほど恥を晒した者をわしは知らん!」
老人は立ち上がり動揺の見える家臣を見渡す。
「この州をお前に任せることはない。
ありえない。
このアイリーンの誰一人それを認めない!
理解したなら去れ死人よ!
生まれ変わるならもう少しマシになれ!」
「う……うぅ」
完全な拒絶。
すべてはこれで終わったのだと、誰もが感じた。
だが、張り詰めた糸が切れた瞬間。
悲劇は嘲笑と共に訪れる。
『最低の後継者』が唯一修めた物がある。
「気が触れたか!」
踏み出す一歩は硬く、強い。
何故そこまでの腕を誇りながら心を邪道に落としたか。
ただ暴力の道具でしかなく、それ故に磨き上げられた錆だらけの毒剣。
されど神速なる踏み込みはあっという間に私の目の前にあった。
「お前が死ねばいいんだ」
声は斬撃と共に訪れる。
私もそれなりに剣術の指南を受けたが動き難い正装と、無手ではどうしようもない。
死を自然に受け入れようとして、私は前に飛び出す影を見る。
鈍く肉を断つ音が無気味に響く。
「…… あ」
目の前には老人の顔。
苦痛を堪え、しかし見る間に血の気が失せていく。
「爺ぃ! 馬鹿な真似を!」
「ば、か、も、……」
ごぼりと血を吐き、私の服を濡らす。
私はただ見上げるしかできない。
「何故、だ!
何故だ!
クソ爺ぃ!
狂ったか!
ボケだか!!
どうしてそんな野良犬を庇う!
飼って情でも移ったか!
それとも今ごろ色狂いしたか!」
叫びは狂乱一色。
己の凶行が為した事を受け入れられず狂おしいばかりの混乱が油を注いでいく。
「こんな混ざり物の!
こんなどこの馬の骨ともしれん女が!」
乱暴に振るわれた腕に老人の体が弾き飛ばされる。
「耄碌しすぎだぜクソ野郎。
いいよ、てめぇは死んでな。
てめぇの愛妾もすぐに送ってやるよ」
突きつけられた剣は赤黒い。
老人の血を滴らせ私の鼻先に突きつけられる。
「殺してやる。
俺から奪う者を殺してやる!
お前らが悪いんだ!
何も出来ないくせに、俺のせいにしやがって!」
あまりの狂気は人を凍らせる。
息する事すら忘れかけていた家臣がようやく事の重大さを認識した時には手遅れ。
「死ね。
お前の存在こそが汚らわしい」
思う。
そうなのかもしれないと。
私は死を生むのかもしれない。
神の定めた種を越えた者。
混ざり者。
野良犬の子で拾われた人形。
「死ね。
死んでしまえ!」
私は─────
振り上げられた剣は赤黒く、鈍い光をどろりと返す。
あれが私の全てを終わらせる。
死は平等に全てを消し去ってくれる。
「死ねぇぇあが」
上段に構えた男の頭が不自然な横揺れをし、こめかみに赤い花と柄という茎を伸ばす。
「がが」
脳はすぐに仕事を放棄した。
「……愚か者……め」
投げナイフ。
老人が戯れで覚えたと言う対暗殺者用の心得。
血があった。
どうしようもなく命を奪い去られた証拠が。
あの時と同じ。
混乱が広がる中、私はただ死の前で立ち尽くしている。
あの時と同じように。
私は何もできないまま、ここに居る。
「アリスってさ」
夜もふけた頃。
ハーブティを淹れる背にお嬢様の声。
「好きな人とか居ないの?」
眠気を孕んだ言葉を背に受けて私は振り返りながらカップを差し出す。
「いません」
「アリスくらい美人なら選びたい放題じゃない?」
「そうでしょうか?」
自分がどのように見られているかの自覚はある。
続く言葉がそのすべてを無にすることも。
「ですが私は人と歩む時間が違いますので」
「……それってやっぱり問題?」
お嬢様が言わんとするのはあの二人の事。
出会えば喧嘩する少年と、子犬のように可愛がりたがる少女。
「あいつらってそのあたりのこと全然考えてないっぽいけど。
馬鹿だからかしら」
「そんなことはありませんよ」
クュリクルルというハーフエルフ(正しくはチェンジリングらしいが)の少女が行方不明になっている。
小耳に挟んだ情報では、そのあたりを気にしての突発的な行動ではないかと見ている。
「一時的に好意を寄せるのは難しいことでもありません。
ですが、未来を見据えたとき、やはり不安と恐れが生まれるのでしょう」
「ひとごとみたいな言い方するのね」
どこか呆れたような声に内心の苦笑を隠しつつ「その通りです」と応じる。
「今は忙しくてそれどころではありませんから」
「それって皮肉?」
「いえ、事実です。
それに、手が掛からなくなるというのはそれはそれで寂しいものですよ?」
反抗の意か、はしたなく足をばたばたさせる音が室内に響く。
「そろそろお休みなさってはいかがですか?
明日は大きな会議と伺っておりますが」
「わかってるわよぅ」
カップを置きながら口を尖らせる。
「武官側のいざこざが入り込んで厄介そうだわ」
私はカップを回収すると、一礼をして場を辞した。
下された沙汰は領地一次預かりという大温情であった。
それだけ老人の功績は高かったのだろう。
しかし、それも数年のことに過ぎない。
正式な跡取りを失ったこの家は時期に没収となり、消え去るだろう。
唯一残されたのは不相応にも私の名前に冠された家名のみとなる。
継承の儀も半端に行われた私はアイリンにあった。
老人の跡を継ぐことはできず、されどお役御免と放任するわけにもいかなかった私は軍人になるべくここにつれてこられたのだ。
この時アイリーン軍は木蘭の活躍により女であろうと功績を立てれば取り立てられる風潮が完成しつつあり、あわよくばと考えたのだろう。
だが、簡単にはいかなかった。
全てにおいて中途半端な私という存在は、血統を重んじる古株の貴族にとって容認し難い存在であった。
名は男爵家、体は女で亜人で、生まれも定かでない。
だが、見た目よりも年経て技も巧み。
実力もないために戦いが起こるにつれて覚えが悪くなるばかりの彼らには余りにも、格好の『目障りな存在』であった。
人の心はいとも容易くドブ川の濁りを湛える。
学園とは監獄であり、体制が変わりつつある今はまだ彼らの『七光り』は絶大であった。
陰湿という言葉をあらゆる方法で体現せんとばかりの嫌がらせは起こるべくして起こった。
彼らがいかに嫌がらせを行おうと、歴史の流れが変わるはずもない。
世界の流れに乗り切れず、ただ愚痴をこぼして鬱屈するだけの者が起こす行為はただエスカレートしていくだけだった。
対する私は何一つ抵抗をしなかった。
必要な授業を切り裂かれた教書で受け、訓練の名目で繰り出される剣戟をひたすら耐えた。
抵抗に価値を見出せず、私はただ自分が成すべきことだけを淡々と成した。
それが彼らを逆上させるだけと知っていても私にはそれしかなかった。
それは二年目に入った頃に起きた。
剣技の講義、その準備をしていた私は頭への衝撃で意識を失った。
後に聞いたことだが、一人の訓練生が背後から後頭部を木剣で殴りつけたという。
頭蓋を砕いた一撃はよく即死しなかったと驚かれたほどだったらしい。
気配に気付いて少しでも体を逃がしたおかげだろうか。
運が良かったのだろう。
私はたまたま神学の講義に招待されていた高位神官の魔法治療を受け一命を取り留めた。
「なぜ貴女は知ろうとしないのですか?」
頭部への衝撃のためか、一時的に視力を失っていた瞳になぜかその聖印だけは焼きついていた。
「貴女の成績を聞きました。
貴女は大変優秀です。
なのにどうして考えようとしないのでしょうか」
彼か、彼女かも定かではない。
ただ耳朶に響く声だけを私は覚えている。
「貴女は何を成したいのですか?
貴女は何を求めているのですか?
何も求めないということはありません。
何も求めないことも望みであり、そうする理由があります」
それは独白だったのかもしれない。
問いかけに対し、私の意識は本当に戻っていたのかどうかも私自身に確証がない。
「思い、悩み、心を開きなさい。
貴女には類稀なる才能を感じます。
貴女は望めばどこまでも羽ばたけます。
貴女に、我が神の祝福があらんことを」
目が覚めた時には恩人の姿はどこにもなかった。
ただ、私のまぶたの裏には知識神ルーンの聖印がくっきりと写って見えていた。
戦争は不可欠である。
木蘭の信望者は山のように居るが、得をする者が居れば必ずその分損をする者が存在する。
そしてそれは敵となる。
その大原則に漏れずアイリーン内部にも木蘭と相反する派閥がいくつか存在する。
その者達にとっては木蘭の引退は待ちに待った出来事に違いない。
ようやく雌伏の時が終わったとさえ思っただろう。
しかし、そこに来て戦争がまったくないとなれば『木蘭の築いた安寧』と言われるだけで何の利も転がり込んではこない。
故に───────────────
最大仮想敵国たるバールと仲良く土いじりなどやらせておくわけにはいかない。
この会議はバール、アイリーン間で成された技術供与の約定と停戦協定に関するアイリーン側の調整を目的としていた。
「───明らかに敵意丸出しの一派が居るんだけど」
「はは、メデューサとかじゃなくて幸いですね」
表情は崩さず、されどげんなりとした声音でお嬢様が呟き、エクメールが軽口で応じる。
「何をしでかすつもりかしら」
「まぁ、脳筋のやることですから」
本来予定されていた参加者から倍くらいに膨れ上がっている。
その主なところは反木蘭派と武器を主軸にした商家と繋がりが深い連中である。
「定刻となりました、会議を開始いたします」
議長の言葉にざわめきがぴたりと止む。
一斉に向けられる視線に負けまいと心に近い立ち上がる少女は逆に挑みかかるように周囲を見渡す。
「お忙しいところお集まりいただきありがとうございます。
早速ですが北方農地について─────」
「よろしいか?」
言葉の途中だと言うのに、いやむしろだからこそのタイミングで50近い男が立ち上がる。
「バールが本当に信用できるとお思いか?」
一発目に爆弾を投げ込んできた。
その爆弾は一気に誘爆を開始し、『予定外の参加者』達は我先にと立ち上がり賛成の声を上げる。
「……」
隣で笑いを必死にこらえるエクメールを横目に私は主に野次を飛ばしているメンバーをマークする。
「静粛に!」
議長の声があっさりと飲み込まれる。
けれども私にはお嬢様の指が机を叩くカウント音をしっかりと聞いていた。
野次は続き、されど最初の勢いが永遠に続くわけがない。
俯き表情の見えないお嬢様を訝しがり、つい野次をやめてしまう者も居る。
そうして自然と引き絞られたボリュームを見計らった一撃が放たれる。
「──────────────── 黙りなさい!!!」
まさに気迫。
この小さな体のどこからその胆力が発揮されるのか。
衝撃波を受けたように固まる一同を睨み付け、一回り大きくなった少女が横柄に言い放つ。
「最初の質問に答えるわ」
睨まれた男はぐっと奥歯を噛み締める。
口元が『小娘が』と小さく動く。
「信用できる。
以上よ」
「そっ───────」
「第一に」
反論をしようとした声をぴしゃりと抑える。
見事な逆襲と言えよう。
「まずこの件を反故にする理由がバールにはない。
むしろこれが圧倒的な理由よ。
反故にする理由があるならいくらでも述べて見なさい」
「っ!
これま─────」
「ただし!」
表向きは真顔、ただしもはや限界とばかりに体を小刻みに震わせる男に呆れつつ私は私の仕事をする。
「今までの敵対関係なんて子供みたいな事は、文官として口が裂けても言いませんよね?」
呼吸すらも忘れたように、顔を赤く青く紫と器用に変えながら男は言葉を喉に詰まらせる。
それにようやく満足したのか、お嬢様は言葉を続ける。
「お忘れの方に申しておきますわ。
この会議は円滑にバールと折衝するための方針展開の場であって、いまさら決まったことに愚痴を言い合う場ではありません。
それがお好みなら良い酒場がありますのでそちらで存分にご堪能ください」
たかが自分の半分も生きていない少女の言葉に後押しする者は居ない。
味方が居ないのではない。
場を理解し時勢を理解した者は関心と微笑みを浮かべてお嬢様を見守っていた。
「では、改めて始めましょう。
百年の安寧、その功績をたった一人に持っていかれるのは業腹です。
『彼女』を悔しがらせるほどの、皆様の知恵を私にお貸しください」
体勢は決した。
もはや憤怒を通り越して頭を爆発させそうなほど顔を赤黒くした男は椅子を蹴り付けて出て行く。
元より自分の利権にしか興味のない小物である。
本当の怪物はこんなにあっさりと自滅などしてはくれない。
お嬢様の口が一文字に引き絞られる。
この場に残ったのは『怪物』達である。
前座は終わった。
今からが正念場である。
仮にも男爵名を持つ異端児の殺人未遂事件。
規律を重んじる軍の予備学校は余りにも大きくなりすぎたこの騒ぎに対し、さすがに見なかったで通すわけには行かなかった。
軍の規律に則れば、それにも増して余りの騎士道精神に反する行いは死罪もありうるだろう。
だが、七光りと『学校』という場が決定的な判決を成させる事を拒む。
紆余曲折の後、加害者はルーンに『留学』となり、私は治療の名目で自宅謹慎することとなった。
無論自宅などないので寮である。
事件の後にはやはり変化があった。
さすがに表向きに彼らを肯定する者は少なかった。
難を逃れた取り巻き達が睨み付けてくる事はあるが、それ以上に同情の念が集まり、彼らの動きを制していた。
だが、それもなくなっていく。
このままであれば、すぐに。
『なぜ考えないのですか?』
声が響く。
私は望まれるままに生きてきた。
それは、悪いことなのか。
私はあの日、村で死んだのだ。
ここに居る私は私の知る私ではない。
私の意志など世界のどこにもなく、私は世界が望むままに有り、不要になれば消えるのではないのか。
「ねぇ、アリスさん」
同期の女生徒が声を掛けてくる。
今までであれば必要なだけの返事をすればいいと考えていた。
『なぜ考えないのですか?』
でも、それは本当に彼女が望んでいる反応なのか。
「実は今度パーティがあるんだけど、アリスさんも来ない?」
確か彼女は私が自宅療養していたときに、時々たずねてきた人だった。
彼女だけではない、『女性の軍人』という存在がようやく受け入れられ始めた頃であり、私と同様、古い考えに縛られた者達には面白くない存在のため、虐げられていた者達は私を訪ねてくることが多くなっていた。
いつもであれば断る。
私に求められているのは軍人になることだけで、パーティに出ることではない、と。
『なぜ貴女は知ろうとしないのですか?』
あの人は私に何を求めたのだろう。
知ろうとすること。
何を?
いや、わかっている。
あの人はこう言ったのだ。
『なぜ貴女は自らの心を閉ざす。
その意味を知ろうとしないのか、考えようとしないのか』と。
本当に、それは無駄なのか。
人は人と交わり合い、生きていく。全ての物には意味がある。
偶然で片付けられる万象に後付であろうとなんであろうと、意味はあるのだ。
ないなら、意味にできないかを考えればいい。
「はい」
私は静かに声を絞り出す。
「ぜひ」
私の視界をふさいでいた見えない霧が消えたような
そんな清々しい感覚の中に、私はあった。
それから一ヵ月後。
加害者の親の一人が手を回したらしく、私は退学処分となることとなった。
けれども、それを聞いた私の心にもはや曇りはない。
「君がアリス君かな?」
仮決定をしたその日、一人の男が私の元に訪れた。
「私はファフテン。
君と師を同じくする者だ」
角ばった体の大男はライオンにも似た髭とヘアスタイルの中に笑みを浮かべて手を差し出す。
「我が師の名を継ぐ君を引き取りたい。
無論、君がよければ、だ」
彼は軍人となったばかりのころ、老人を上官とし、さまざまな事を学んだと言う。
そしてあの事件をきっかけに私の事を知ったのだと語った
「生前、師に最後に遭った時、あの人はとても楽しそうに、誇らしそうに言っていた。
『この世に二つとない宝石、その原石を拾ったよ』とな」
それがいつのことなのか私は聞かなかった。
聞く必要はないと思った。
私は彼との握手を断ると一通の手紙をしたためた。
『退学願い』
その足で事務局へ行くと私は呆然とする事務員にそれを提出し、再び部屋に戻る。
帰っているかもしれないと思ったが、男はなお一層楽しそうに私を出迎えた。
「改めて、言おう。
君を雇いたい」
「未熟者ですが、よろしくお願いします」
改めて差し出された手を今度は握り返す。
「師からの言葉を伝えよう。
アリス君。
君は今日からアリシアと名乗るがいい。
師が、君が一人立ちするときに与えんとした名前だ」
アリスから、アリシアへ。
私はようやく子供の時代を終える。
永遠のアリスは、ここに眠る。
「づーがーれ゛ーだー」
馬車の中で真っ白になっているお嬢様を見つつ私は今日の議事録を見直す。
「いやー、結構いいセン行ったんじゃない?
利権についてもこれなら反対派のバカどもを喜んで押さえ込んでくれるでしょ」
気楽そうな声に恨みがましい瞳が向けられるが、それくらいでたじろぐ男ではない。
しかし、彼の言うことももっともだ。
海千山千のハゲワシ達をお嬢様はなんとか捌いて見せた。
まぁ、いろいろと無理難題を投げかけてくる彼らの目は半分好々爺のそれになっていたのには気付く余裕がなかったらしい。
「とりあえず、これでひと段落よね。
やっとのんびりできるわ」
「そんなわけないっしょ。
これからバールに行って事前打ち合わせがびっしりだよん?」
「………」
「いや、睨まれても仕方ないし?」
悪びれる事なくにやけ面を見せる青年。
涼やかな顔面にめり込む拳。
「はしたないですよ」
「ふんだ」
完全に拗ねてしまった少女を見やり私は苦笑を漏らす。
世界は緩やかに変わりつつある。
戦争の時代が終われば活躍すべきは文官である。
今を拗ねて文句を言う者に勤まるほど甘い世界ではなくなるだろう。
今、この時は選別の時期とも言える。
「アリス、一日くらい時間取れるよね?」
「とれますよ。
彼が調整してくれましたから」
「たまにはいいことするのね」
うわ、酷っ、と文句を言っている青年を無視して機嫌を直した少女が私の腕にじゃれ付く。
「じゃあ西湖行こう!
今年はまだ泳いでないし!」
「わかりました。手配しましょう」
「いいねー、水着」
「あんたは来るな!」
「バカ言うな。
お前のまな板はともかくアリシアさんのぶへぁっ!?」
突然の騒ぎに呆れたような馬のいななき。
夕日に赤く染まるアイリンの町並みに視線をやり、今日一日が無事終わるのだと感じる。
今宵は任務でなくエールを楽しむのもいいかもしれない。
私は、アリシアはそう思う。