今宵、百合の間に挟まる男キャラと駆け落ちします。
名作百合ゲームの原作ではたった三行の説明しかないモブキャラになってしまったので。
これからトモダチである原作では百合の間に挟まる男と不評な敵キャラと駆け落ちしようと思います。
どうか探さないでください、お姉さま。
私は安倍獏子。歳は十三歳の女の子。それがゲームのなかで私を説明する言葉だ。脇役も脇役。立ち絵すらないモブキャラが今の私だ。
はい、巫山戯けていないで我が身について振り返りましょう。
私は元はごく普通の一般人でした。ちょっとばかり労働環境があり得ないぐらい真っ黒けの会社に勤めていて。
始発電車で家路に就く最中。横揺れと共に窓いっぱいに広がる七色の光を見たのを最後に。気付くと歳の離れた兄がやっていたのをなんとなく横で見ていた名作百合ゲーの立ち絵すらないモブキャラとなっていました。
曰く、百合ゲーの草分け的な名作。
そのタイトルは『妖都鬼譚』───。
平安時代にまで遡れる由緒ある陰陽師の一族のヒロインが妖憑きという少女たちと世界の命運を賭けて憑き物の最上位。鬼憑きの青年と戦いを繰り広げるというストーリーで。
私はそのヒロインである安倍麟子の腹違いの妹で。歳は十三歳。ということしか作中で説明がないモブキャラとなったのです。
あだ名は獏子なのでバクちゃん。姉であるヒロインに一途に恋をしているらしい。
はい、それだけ。わかっていることはそれっぽっちです。もう少しなにかなかったのかと実際に獏子になった私は思うところです。
作中たった三行程度の説明しかなかったようなモブキャラなせいか。容姿も没個性と言いますか。
黒髪、黒目。ごくありふれた日本人体型。顔はヒロインの妹なので。まあまあ、整ってるかなー?という感じで。存在感がカルピスの原液かという個性派キャラたちに囲まれていると私の存在感が消えます。
なので御家庭内で。学校で。悪意なく省かれること多々。血の繋がった親にさえも。何時からそこに居たの獏子と驚かれる始末。
そして家族旅行にまで省かれたとき。私が人生二週目じゃない普通の女の子なら確実にグレてますよーと溜め息をついた。
私は中身。アラサーに足を突っ込んでいるのもあるので。今さらそれぐらいじゃあグレません。むしろ、極彩色の美男美女のなかに。モブ顔の自分が混ざる居たたまれなさを回避出来。
両親と姉が帰ってくるまで。伸び伸びと過ごせるというものだと。一人、撮り貯めたドラマのビデオ(ゲームが販売されたのは平成初期で。此の世界でもビデオデッキが現役なのです)を見ながら。
まあ、寂しくない訳ではないけれど。省かれすぎてもうボッチ生活にも慣れたなと思っていた頃に思わぬ出逢いをすることに。
「という訳で私は異常に影が薄いので。身内にすら居ることを気づかれないのです。つまり姉さまは来ません。むしろ私が居なくなってることにお気付きではないです。」
「それ。自分で言っとって。お嬢ちゃん虚しくはないんかなぁ??」
額から黒曜石のような角を生やした狩衣姿の青年はガリガリと頭を掻いて私を見ながらぼやく。とんでもない美声年だ。
訂正、美青年です。美声であることに変わりはありませんが。
なにせこの方。当時はまだ駆け出しで。無名だった大御所声優が声を当てたキャラでして。この百合ゲーの貴重な男キャラです。
ポジションはヒロインの敵。所謂黒幕。特徴は胡散臭い似非関西弁を話すこと。
そして原作ファンにはどのルートでも。ヒロインの攻略キャラに惚れて拐うので。百合の間に挟まる男と敵視されている人なのです。鬼憑きの酒呑童子。それがこの青年。
此処でちょっと憑き物について御説明。この世界では妖憑きという家系が五つあり。日夜、首都を騒がせるアヤカシを祓っています。妖憑きを統括するのがヒロインの一族です。
元は妖憑きの家は六つありましたが。そのひとつは平安時代に強大な力を使い。国家転覆を謀ったとして。首謀者は封印。その一族は滅ぼされることになります。その封印された存在が酒呑童子であり。
原作ゲームでは千年の封印を破ったこの酒呑童子がヒロインと攻略対象のキャラたちと戦うことになるのです。
しかし、どういう訳なのか。原作開始前にこの酒呑童子は封印を破ってしまったらしく。手慣らしにかるーい嫌がらせとばかりに千年前、自分を封じた一族の末裔だと私を誘拐。
さあ、慌てろ。狼狽えろと。わくわくしながら待てども待てども。まったく反応がないので。どういうこっちゃと様子を確かめると。
家族は。ヒロインである姉は。私が居なくなったことに一切気づいてはいなくて。
悲壮感なしに。やっぱりかーと呟いた私に酒呑童子のおにーさんはどういうことかと問い質して。
「やめてぇや。儂、そーいうの。弱いんよ。子供が。かぁいそうなん地雷なんやって···!!」
べそべそ泣いてます。どうしましょう。この原作中、屈指の最強キャラというか。後々のゲームにも多大な影響を与えたというある意味で偉大な方が。とんでもなくチョロいです。
姉を前にした攻略対象キャラ以上にチョロ過ぎる!!え、こんなにラスボスがチョロくて大丈夫なのでしょうか。
「酒呑さん、それならおうちに帰って良い??」
「あ、それはあかん。絶対にあかん。だ、だって儂寂しいよ。こーんなだだっ広い屋敷に儂な。ひとりなんよ?いやや、寂しいわ!!儂、寂しいのは大っきらいやねん!」
「駄々っ子か。それなら酒呑さん。私、毎日酒呑さんに会いに来ます。特技というか。私、人の夢のなかにお邪魔出来るんですよ。」
「え、お嬢ちゃんも夢渡り出来るん?ちぃさいのにえらいなぁ。すごいやん!あれ、とっても難しいやろ。知っとるよ。」
目をパチリ。思わず瞬かせる。褒められてしまいました。陰陽術に秀でた姉はともかく。
私はこれまで誰かに褒められたことがありませんでしたから。なんだか胸がこそばゆくなります。
「まあ、一応。私も陰陽師のおうちの子ですからね。ただ、条件付きでして。お互いに身に付けていたモノを交換して持っていて貰う必要があるんですよ。」
私はそのとき持っていたマレーシアバクのぬいぐるみ(手製)を酒呑さんに渡しました。
かぁいいな、コレ。こーいうちいさいの。儂、好きやと自販機より身体が大きい酒呑さんだと片手に収まってしまうぬいぐるみを壊れ物のように慎重に扱う姿に。
この人、見た目より怖くないなーと思っているとそんなら。お嬢ちゃんは儂の髪紐と交換しようなと。酒呑さんは床につくほど長い髪を縛っていた赤い髪紐をくれました。
あ、どうせやから。儂がこれで髪を結ったげようなと。大きな手で私の髪を結わえ。酒呑さんはうんとひとつ頷き。かぁいい、かぁいいと満足げに笑う。
可愛いか。誰かに愛らしいと褒められたのは。何時、以来か。例え可愛いと褒められても必ず。あの麟子の妹なだけあると言われてきた。
或いは。あの麟子の妹なのに。器量はそんなにたいしたことはないと。姉の麟子は百人が百人讃えるだけの。まさに輝かんばかりの美貌で。
そんな姉と比べないで欲しいというのが私の言い分です。鏡に映る。私の顔は。貶されるほど酷くはない。
自分ではそう思いながらも。周囲の声に無自覚ながらに凹んでいたらしい私は。
私を可愛いと褒めてくれた酒呑さんにぽわぽわと頬が赤らむ。
「じゃあ、また酒呑さんに会いに来ますね。」
「約束やからな。絶対に会いに来てや!?会いにきぃひんとお嬢ちゃんのこと頭からバリバリ喰ってまうからな!?ほんまやで!」
「ふふ、食べられたくはありませんからちゃんと会いに来ますね。」
念押しに。念押しされて家に帰ってきたのだけれども。まったく不在に気づかれてないのも寂しいものだなーと。既に夕飯を終えたあとらしく。食後、談笑する家族を横目でみたあと。
お台所で一人、自分の分のお夕飯を作る。酒呑さんはオムライス。食べるかな。枕元に置いとくと。小さなものなら夢のなかに持っていけます。よし、オムライス。作って持っていきましょうと張り切った。
「ほんまにきたぁ。」
「約束しましたし。獏子は約束を守る女なのですよ。えっへん。」
その日の夜、夢のなかにお邪魔したら酒呑さんはやっぱり寂しい寂しいとマレーシアバクのぬいぐるみを抱えて。べそべそと泣いていました。
この方は。こわーい鬼な筈なのにこれっぽっちも恐ろしく思えない。というより。可愛らしい方だなぁとそっと近づき。さっきぶりですねーと挨拶すると。
酒呑さんはお嬢ちゃんほんまに来たん??逃げんかったんと抱き締めてきたので。獏子は約束を守りますよと私はぺったんこな。
いえ、今にぽよんぽよんなお胸になる筈の。将来に期待大な胸を張ってみます。酒呑さんはまじまじと私を見詰めて、そろりと私の頬に触れて訊ねました。
「安倍のお嬢ちゃん、お名前獏子って言うん?」
「はい。名前で呼んでくださると嬉しいです。」
「ほんなら、お嬢ちゃんのこと“今度も”バクちゃんって呼ぶなぁ。」
酒呑さんが泣き止んだあと。私が持ってきたオムライスをおっかなびっくり食べた酒呑さんは酒のあてに良いわぁとむぐむぐと美味しそうにオムライスを食べていた。
酒呑さんは酒呑童子。酒豪伝説のあるヒト。やっぱりお酒は好きなんですかと聞くと。
酒呑さんはお酒はな。百薬なんよ。腹ぁ、立つときや。哀しくてたまらんときに呑むとな。
そーいう嫌なこと。酔ってぜぇんぶ忘れられるんよ。だから、儂。お酒が好きやと色っぽく笑う。
「成る程。つまり末期のアルコール中毒かぁ。」
「バクちゃん、情け容赦ないってひとに言われたことあらへん??」
「酔ってたらちゃんとお話、出来ないじゃないですか。私、酒呑さんとはきちんと話がしたいですもん。だからお酒あんまり呑んじゃダメです。」
「!し、仕方あらへんから。バクちゃんのためにお酒、我慢したる!!ほな、ぎょうさん。儂とお話しよぉな??というか今さらやけど。バクちゃん、儂のこと。こわぁないの?儂、鬼憑きで。これでもこわぁい、こわぁい鬼さんなんやけど。」
胡座をかいている酒呑さんの膝によいせとよじよじ座って。怖かったら会いに来てませんと背中を預ける。おお、まるで大樹に凭れたようなどっしりとした安心感と寛ぐ私にビクッとして。
怖々と人差し指でほっぺたをつんつんしてくる酒呑さんに。あなたは私のことをみつけてくれましたからと笑った。
「酒呑さんが初めてだったんです。そこにちゃんと私が居るって見てくれたヒトは。親にさえ忘れられるんです、私。だから酒呑さんが私のことを拐ってくれたとき。ほんとうに嬉しかった。」
ああ、このヒトは私のこと。ちゃんと認識してくれてる。人質としてだけど。必要としてくれたんだって。
だから、私。酒呑さんのことは怖くないし。側に居たいなーって思うんです。それに貴方を見ていると。胸が何故だか締め付けられて。なんだか切なくて。触れて貰えると跳びはねたくなるぐらい嬉しくなるんです。
えへへと笑ってほっぺたを突ついた人差し指を掴んで。その手にすりすりとほっぺたを寄せる。酒呑さんは片手で顔を覆って、何故だか天を仰いでいた。
「儂、バクちゃんのこと“今度こそ”大事にしたるからなぁ。ああ、かぁいいなぁ。やっぱりバクちゃんはかぁいいな。」
「ふへへ。褒められたのも、はじめてだぁ。」
身体の向きを変えて酒呑さんの胸元に懐くと。酒呑さんは堪忍したってぇと首筋まで真っ赤にしてぷるぷるとしていた。
私をかぁいいと褒める酒呑さんこそ。私は可愛いなと思うのだけれども。この日、私は人ではないヒトと。酒呑さんとトモダチになったのです。
「バクちゃん、なんぞお疲れみたいやけど。なんか、あったん?この酒呑さんに話してみぃ。」
酒呑さんと夢であうようになって一年が過ぎた頃のこと。夢で会うなり。酒呑さんの胡座に向かい合うように収まって。ぎゅうぎゅうしがみつきながらその胸に無言で顔を埋める私に酒呑さんはオロオロした。
夢のなか。そこは酒呑さんが封印されて居る異界にある平安御所みたいな広い御屋敷を模した場所で。酒呑さんしか居ないから。私はこうして酒呑さんに甘えてる。
私は姉さまとそのオトモダチの方々のイチャつく出汁にされましたとぽこぽこ怒りながらぷくーっとほっぺたを河豚のように膨らませた。
「ああ、安倍の跡取り娘と取り巻きかぁ。かわらんなぁ、その構図。千年前もそーんな感じやったんやけど。アレや。ハレムって奴やろ。ハーレクインんちゅう書物でみたわぁ。」
「酒呑さん、ハーレクイン読むの???」
「知り合いにハーレクインに嵌まっとる奴がおるんよ。暇しとるやろってよく持ってきてん。」
あれなぁ、まんま安倍と取り巻きのやり取り過ぎて途中で見るのやめてもうたわ。夜伽を始めるって言い出したときとか。そのまんまやったからな。
「なんや、昔のあれそれ思い出して。胃の辺りが痛とうてかなわんかったわぁ。」
「まさかのアラブの王族系ハーレム。ああ、そのうち姉さまたちも同じことをやりだすのかな。目に見えるぅ。」
原作ゲームのヒロインである私の姉はとてもモテる。同性に。そりゃあ百合ゲーだからそれは仕方がないのだが。姉のオトモダチ。
ようは攻略対象のキャラたちのいざこざに何故か毎回姉は私を巻き込んでくるのだ。その度に攻略対象のキャラに睨まれたり。疎まれたりして。女子特有のギスギスがあって私は何時も胃が磨り減るような痛みに呻くことになる。
確かに我が姉、麟子は美しい。光を浴びると輝く真珠色の髪に紅玉のような瞳。メリハリのある身体は曲線美を描き。
男勝りながらも慈悲深い性格。多少鈍感ながら大切な相手には繊細な気配りをみせる。
···らしい。姉のオトモダチ。攻略対象のキャラたちの証言によればまさに完全無欠のヒロインだ。
生憎と原作の獏子と違って。私は姉をそーいう目線で見たことがないのでアレだが。
恋は盲目だなぁと思う私である。慈悲深さも繊細な気配りも姉から感じたことはない。
というか攻略対象のキャラとイチャつく際に引っ張り出されて。攻略対象と比較されたりする私からしたら。私を出汁にイチャつくなーっという気持ちで一杯だ。
ぷんすかと怒って荒れる私に。酒呑さんはぜぇんぶ無意識にやりよるからなぁ。安倍の奴はと経験者のように頷く。
あ、酒呑さんも。私と似たような経験したんだなとそれだけで察した。酒呑さんからなんだか苦労人の匂いがする。
「というか、私は。姉さまより酒呑さんの方が美人だと思うのですよ。」
「んん??」
「燃えるような朱色の髪は艶やかで。肌は透き通るように白くて。角と同じ色の瞳は黒曜石のように綺麗です。」
彫りの深い顔立ちはギリシャの石膏像のようで精悍。妖艶に笑うのも良いですが。私とお話してるときに見せる柔らかい笑いかたが好きです。
「断然、姉さまよりも酒呑さんの方が綺麗です!美人さんです!ビューティフルです!!」
「ば、バクちゃん、バクちゃぁん!!堪忍したってぇ!儂、人から褒められ慣れしとらんのよ!儂な。こわい、こわい。悍ましぃと、言われることはぎょうさんあってんけど。きれいとか好きやとかひとに言われたことはあらへんの!」
そんなこと言ってくれたんは。バクちゃんだけやの。せやからな、こんなときに。どんな顔をすれば良いのか。
儂、わからへんよと。気恥ずかしげに頬を押さえて。顔を真っ赤にして狼狽える酒呑さんにキュンとする。その手で押さえる真っ赤に染まった頬に手を伸ばして静かに告げた。
「きれいです、酒呑さんは。私がこれまで見てきたものが色褪せてみえるほど。あなたはきれいなんです。」
「あ、ぅう。堪忍してバクちゃん。そんな風に褒められてもうたら。バクちゃんのことを今度こそ離してあげられんくなるよぉ。」
「良いですよ、離さなくても。私は前に言ったように酒呑さんの側に居たいですもん。酒呑さんにならなにをされても構わない。それぐらい酒呑さんが好きですし。酒呑さんの願いなら。なんだって聞いてあげようって思うんです。」
「バクちゃん。なんでそんなん男前なん??そこまで言うんやったらバクちゃん。儂を嫁さんにしてくれへんかなぁ!?」
「ふふ、良いですよ。酒呑さんなら喜んで。」
ぎゅむーっと抱き締めて来た酒呑さんに。たぶん酒呑さん的には冗談なんだろうけど。
嬉しそうにほんま??約束やからね。反故にしたらいややからなとうっとり微笑む酒呑さんに頷いた。ただの冗談。でも酒呑さんが望むなら私はなんでも叶えてあげたいと思うのです。
「ねぇ、あなた。何時まで麟子さんに引っ付いて回る気なのかしら。いい加減姉離れをしたら?」
パシャリ、頭から掛けられたそれは灯油の匂いがした。原作がとうとう始まる年。攻略対象の一人から呼び出され。とっても年代を感じる嫌がらせをされた。
ゲームが発売されたのは平成初期だもんなぁ。嫌がらせが時代を感じるなんて思いながら家に帰って。灯油をお風呂で洗い流して。さぁ、どうしたものかなと考えていた。
なんというか。姉の攻略対象キャラが原作以上に暴走してる。
妹である私を。明確にライバル視をしているらしいのです。
まあ、アレだけなにかと引き合いに出されたら嫌われもするかーと納得しながらも。
古典的な嫌がらせ(カッターの刃入りの手紙に始まり教室の机には花瓶が置かれ。夜遊びをしているという悪評を広められたり)の数々と。此処に来ての灯油掛けに私はそこはかとなーく命の危機も感じ始めていました。うん、まずい。
「────そんならバクちゃん。儂と駆け落ちしよっか?」
「え?」
浴槽から出たところで後ろから伸びてきた逞しくしなやかな腕が私を絡めとる。その腕に何度となく抱き締められた私は警戒することなく。拒みもせず。受け入れた。
「ずーっとな。夢のなかばかりやのうてバクちゃんに現実でも会いとうて堪らんかったからな。迎えに来てしもうた。」
何処か仄暗い気配を感じる声音が耳を打つ。遠くから足音がする。家のなかに突然得体の知れない気配が現れたことを察した両親と姉が近付いてくる。
「バクちゃん、儂な。こわぁい鬼さんなんよ。欲しぃ思ったモンはどんな手を使っても手に入れへんと気がすまんの。バクちゃんのこと。かぁいくて。かぁいくて食べてしもうて堪らんのや。」
抱き締められたまま。顔を上げる。覆い被さる髪の帳。
酒呑さんは黒曜石のような瞳にどろりと怖じ気をもたらすような。爛れそうなほど熱い熱を蠢かせていた。
抱き締められたときに入った力を抜いて身を任せる。ビクッとした酒呑さんに。私、言いましたよと笑った。酒呑さんにならなにをされても構わない。どんなことでも叶えてあげたいってと。
「だから私のことを食べても良いですよ。あ、でも痛いのはいやです。どうか出来るだけ優しく食べてね酒呑さん。」
「うん、バクちゃんはほんまにかぁいいなぁ。優しくしたる。バクちゃんが儂の腕ン中にずーっと居たくて堪らんように優しく食べたるから。ンふふ。バクちゃんはこれで儂の旦那さまやね?」
「うん??」
なにか酒呑さんと認識の相違があるような。私のこと。食べるんですよねと問うと。酒呑さんはそうや。バクちゃんがどろどろになってまうぐらいとびっきり可愛がってあげるからなぁと。
上機嫌に笑いかえした酒呑さんに。ぽこすか疑問符を浮かべたまま。酒呑さんの腕に抱え上げられる。よくわからないが酒呑さんが嬉しそうだし。
まあ、良いかとその首に腕を回した。原作では三行しか説明のないモブだけど。親友で。それから可愛い鬼嫁さまとこれから駆け落ちします。
どうか、探さないでくださいおお姉さまと晴れやかに笑った。
『もしも、生まれ変わっても。あなたが私のことをまだ好きなら。そのときは私を食べても良いですよ、酒呑童子殿。』
千年前、惚れて惚れて堪らない女が。くだらない痴話喧嘩に巻き込まれて死んだ。悪びれもせぇへん輩に。プツンと切れたのは。たぶん堪忍袋の緒やった。
だーれも恨まずに死んだ女の代わりに儂は怒ると決めたんよ。かえせ、かえしてぇな。儂のかぁいいあの子を。バクちゃんを。それが出来んならおまえらこそが死ねと。
「ンふふ。儂の。儂だけのかぁいい、かぁいいバクちゃん。もう返してあげへんからなァ?」
鬼はな、案外一途なんよ安倍の跡取り娘。なんやバクちゃんの気ぃ引きとうて。随分と下手打ったなぁ?
腹ぁ、抱えて笑ってまうかと思ったわ。そんなところまで千年前の構図と変わらんのやものなぁ。
なぁ、今さら自分が下手こいたぁ気づいても。バクちゃんのこと返してあげへんよ。バクちゃんはもう儂の旦那さまやからなァ。せいぜい、そこで指くわえて見てればええのや。
「どうかしましたか酒呑さん?」
「ンふふ。なーんもあらへよぉ。なぁんもな。」
なぁ、バクちゃん。今度こそ一緒にしあわせになろうな。酒呑はそう笑って手のひらのなかで焼け焦げる人形を隠し。バクちゃん、もう一回。儂に付き合ってなぁと上機嫌に愛しい恋人を組み伏せた。