七話-1 帝都へ
あまりと言えばあまりの知らせに私は流石に絶句してしばらく動けなくなった。脚が震え血の気が引き、立っているのがやっとだ。
そんな私をアスタームが抱き寄せて支えてくれた。私はありがたく彼に掴まりながら、帝都での事件の詳細を聞いた。
エリマーレ様は帝宮で皇帝陛下と面会すると見せ掛け、侍女に扮させた手勢に陛下を捕えさせ、母が住まう離宮に押し込めるとそのまま離宮を母ごと封鎖して軟禁したのだそうだ。
そして皇帝の玉璽と帝冠を奪うと、帝宮の神殿で略式の即位式を行い、皇帝位に就いた事を宣言したのだそうだ。女帝エリマーレ一世の誕生である。
即位したエリマーレ様は全貴族に服従するように命令を発し、異を唱えた者を捕らえて牢獄に入れているという。同時に、帝国軍にも服従を要求し、叛徒であるベルリュージュ一派を討つように命じた。帝国軍が即座に動くという状況にはなっていないようだが、皇帝陛下と帝国騎士団に強い影響力を持つ母を人質に取っている現状では、帝国軍は従わざるを得ないのではないだろうか。
何と言うことを!
私は声にならない声で叫んでいた。エリマーレ様のやった事は言い訳の余地がないくらいの反逆行為である。皇帝陛下の同意なく皇帝の地位を奪ったのだから、簒奪だと言える。到底認める訳にはいかない。
私が怒りに震えていると、アスタームが使者に(帝都にいる私の協力者からの使者だった)尋ねた。
「帝都の状況はどうなのだ。混乱は無いのか」
「即位に明確に異を唱えた方々が捕らえられてからは、貴族達が一応エリマーレ様を認めて大人しくしている事も有り、大きな混乱はありません」
容赦の無いエリマーレ様に正面切って刃向かうと命が危ない。表向きは服従して見せるしか無いだろう。ただ、この事でエリマーレ様を見限った貴族の中には、先に私に通じた使者を送ってきた貴族のような立場の者に、私への紹介を願う者もいるらしい。エリマーレ様の支持者がどんどん離れてしまっているという事だ。
何しろエリマーレ様はこれまでも支持者に軍勢の用意を命じてきたわけだが、皇帝即位以来「帝国軍の編成のため」ということで更なる軍勢の調達を命じているようだ。領主貴族が限界以上の軍勢を領地から編成しようとするなら、強制的に民衆を徴募しなければなるまい。そんな事をしたら領内の統治が崩壊してしまう。
しかし、皇帝陛下の命令であれば従わざるを得ない。そのため、エリマーレ派の貴族達は進退が窮まってしまっているという事らしい。状況の打開のために私が帝都に入城してエリマーレ様を追い、皇帝陛下を復位させるか、私が即位してくれる事を望むようになっているのだそうだ。
そういう話を聞いてアスタームはニンマリと微笑んだ。
「良いぞ。良い状況だ! そのような状況なら、帝都に進軍すればそれだけで道が開けよう」
例え帝国軍が出て来ても、士気は低かろう。私が一喝すれば帝国軍は道を開けるだろうとアスタームは言うのだ。そう簡単に行くかしらね。私は懐疑的だったのだが、アスタームはやる気満々だ。
「後は君の気持ち一つ。君が皇帝陛下をお救いするために帝都に攻め上る、と宣言すれば、我々はすぐに二万の軍勢を用意してみせよう。あっというまに帝都に辿り着き、君を皇帝にしてみせる」
……アスタームの言葉に嘘は無い。現状、私の領域からそれくらいの軍勢は無理なく引き出せるし、帝都までの道中にある領主は協力を約束してくれている。兵は無理でも物資や情報の提供をしてくれる事は間違い無いと思う。
帝都の帝国軍は常時五千。一万まではすぐに増やせるだろうけど、二万人に増員するのは難しいと思う。訓練が行き届かないし装備もすぐには調えられないもの。つまり、帝国軍が出て来ても我が軍が勝利出来る可能性が極めて高いという事だ。
私が「行きましょう」と言えば、私が帝都に辿り着く事はもう疑いない。帝国軍との戦闘とか帝都城壁をどう破るかとか、入城してからエリマーレ様の扱いをどうするのかとか課題は山積しているとしても、私が望めば私は少なくとも帝都で皇帝陛下の後継者として、エリマーレ様になり代わって名乗りが上げられるという事だ。
私が望めば。……そこが一番の問題だ。私は、本当に望むのか。
「少し、考えさせて下さい」
私はアスタームに言って、その日の予定を全てキャンセルし、部屋に閉じこもった。
執務服から水色の軽いドレスに着替えて、私はぐったりとソファーにもたれ掛かった。今回のエリマーレ様の行いは流石にショックが大き過ぎた。エリマーレ様がそこまでやるとは思っていなかったからだ。エリマーレ様は皇帝陛下を尊重していらっしゃったから。
……そうだった筈だ。私がエリマーレ様の侍女になった時の経緯でも、皇帝陛下が強くご要望を出されて、あの頑固なエリマーレ様が珍しく引いたのだ。アスタームとのお見合いの件でもそうだった。皇帝陛下が明確なご意志を示された時にはエリマーレ様は従うのが常だったのだ。
それでいて、お二人の仲はあまり良いようには見えなかった。お二人が面会なされる際に、お互いに公的な立場を超えたお話をすることは無かった。父と娘らしい会話をしていたという記憶も無い。もちろん、私がいないところでお二人だけで会われた時の事は分からない。でも、エリマーレ様も皇帝陛下も、常にお互いにかなり冷淡な態度を取っていたような気もする。あれが二人きりになった時に豹変するとは思えない。
皇帝陛下は離宮にお出でになった時や、私が侍女になってからは密かに呼び出して、私に対して親愛に満ちた態度を取られる事があったのである。そういう時の陛下は常の謹厳な態度は捨てられて、ひたすらにお優しいお父様に変貌するのだった。特に離宮では、母と私といる時の陛下は非常にリラックスしていた。むしろ私は離宮を出た時に、陛下と皇妃様とエリマーレ様が余所余所しい関係である事に驚いた程だったのだ。
まだエリマーレ様と私が仲が良かった時代にも、皇帝陛下がエリマーレ様に親愛の情を向けられたという記憶は無い。私はこれまで、跡継ぎであるエリマーレ様には厳しい態度を向けて、皇帝位に向けて覚悟と自覚を促しているのだと思っていたが、皇帝陛下がエリマーレ様では無く私を後継者にお望みだったのだとすると、印象が全く変わってくる。陛下とエリマーレ様のご関係が最初から悪かったから、陛下は私の方を後継者にしたがったのではないか。
あるいはその逆か。陛下が最初から私を後継者にしたがっていたから、エリマーレ様があのように私を敵視するようになってしまったのではないか。あの時、あの決別の時、エリマーレ様は私に言ったのだ。「皇帝陛下のご寵愛を良いことに私を蔑ろに」「貴女は自分も皇女であると、皇位継承者であると主張するのです! 私から皇位を奪おうと画策するのです!」と。私には全く心当たりの無い事であったのだけど、もしも陛下がエリマーレ様にそのような言葉を漏らされたり、態度で示されていたのだとするとつじつまが合ってくる。
皇帝陛下はエリマーレ様に、常にプレッシャーを掛けていたのではないか。エリマーレ様ではなく私を後継者にする意向を匂わせていたのではないだろうか。だからこそエリマーレ様は私を憎悪し、焦り、遂には今回のような簒奪をしでかしたのではないだろうか。
確証は無いけど、どうも大きくは外れていないような気がする。道理で私が何度自分が皇位に上る気など無いと言ってもエリマーレ様が信用して下さらないわけだ。皇妃様の唯一のお子であり、周囲から次期皇帝第一候補であると見做されていたエリマーレ様に不足していたのは、皇帝陛下の明確な後継者指名だけだった。それを得られる見込みが無いとエリマーレ様が悟っていたとすれば、ライバルである私の勢力がこれほど大きくなった事で、自分に皇位継承の目が無いと考え、このような暴挙に及んだのだとしてもおかしくはないだろう。
なんという事だろう。だが、何も知らなかった私にはどうしようも無かったし、知っていたとしても陛下に「私は皇帝になどなりません」という事くらいしか言えなかっただろう。私は皇帝になる気など無いと何度も意志を表明しているのだから、状況が変わったとは思えないけれど。
私は考えすぎて頭が痛くなってきた。気分が沈んでしまう。
事がここに及んでは、私はもう決断しなければならない。選択肢はもう一つしか残されていなかった。
全帝国に向けてエリマーレ様の即位に対して反対を表明する。彼女の即位を認めないと宣言し、皇帝陛下をお救いするために戦う事を宣言するのだ。
それは同時に、私が女帝になる事を宣言することでもある。私こそ次期皇帝であると宣言しなければ、エリマーレ様の即位に異が差し挟めないからだ。
そして帝都に攻め上り、エリマーレ様の軍勢を撃ち破り、皇帝陛下をお救いして復位していただき、エリマーレ様を処罰する。そして私が、次期皇帝であると皇帝陛下に追認していただき、最低でも立太女、もしくはすぐに譲位していただくのだ。
……とんでもない事だ。私は自分が皇帝になることなど一度も望んだ事はないし、自分が皇帝に相応しいと思った事もない。
しかし、ここで決断しなければ私は破滅する。しかも恐らく、帝国ごと破滅してしまうだろう。エリマーレ様の即位を私が認めても、私の支持者が収まるとは思えない。彼らは私を無視してエリマーレ様追討の軍を興し、内戦に突入するだろう。あるいは他国。例えば東にあり、帝国と何度も戦っているサウラウル王国に寝返るかもしれない。
そうなれば帝国は分裂し、争いの内に衰微し、滅亡してしまうだろう。そんな事は許すわけにはいかなかった。
私はこれまで、自分の身を守ることを最優先に考え、味方を増やして安全を盤石にする事だけを考えてきた。しかし、ここにきて私は、自分に味方してくれる者たちと、彼らが未来を託している帝国を護る事を考えなければならなくなったのである。
エリマーレ様にお任せ出来ればそれで良かった。しかし、私の身の安全的な意味でも、帝国の将来的な意味でも、もうその選択肢は無くなってしまった。エリマーレ様が簒奪者として糾弾されるようになった現状ではなおさらだ。
もう私が次期皇帝として立つしかない。それがもうはっきりしてしまった。だからこそ私は苦悩する。ガックリしてしまっていたのである。
……その時、サーシャが来て、アスタームが入室を求めていると言った。あまり会いたい気分ではなかったけど、私は仕方なく了承した。
帝都風の紺色の貴族服を着て、黒髪を撫でつけたアスタームは相変わらず美男子だった。その麗しい赤い瞳が心配そうに揺れている事を、私は少し不思議な気分で眺めた。
「どうしたのですか?」
そう問いかけると、彼は少し逡巡するような様子を見せた。珍しい。彼は自分の野心に正直だし、障害を蹴散らかして進むタイプでもある。迷いは似合わない。それに……。
「何もかも貴方の思い通りになっているのに」
私が言うと、アスタームの眉が少しだけ上がった。
そう。何もかもこの男の思い通り。帝都で、エリマーレ様との縁談をぶち壊して私に求婚した時より、彼の目標は帝位だった。
私と結婚して、そして自分にも辺境伯夫人から皇族の血が流れているからという理由で、自分が皇帝位に就く。そういう計画だった筈だ。
衆目に次期皇帝と看做され、ご本人も帝位を目指していたエリマーレ様ではダメだった。知名度が低く、帝位への興味が薄い私であれば名前を利用し易く帝位への障害になり難いから。だからアスタームは私に求婚したのだ。
ちょっと予定が狂って、アスタームが帝位に就くのは許さないと辺境伯が言い、私への支持があっという間に大きくなってしまって、アスターム自身が皇帝になるのは難しくなってしまったけど、私を皇帝にして自分は帝配となり、帝国を実質的に支配するという計画は現在順調に進行中だろう。そしてもう後一歩だった。
悔しいけど、最初から彼が見抜いていたように、エリマーレ様と私は並び立てず、エリマーレ様が帝位に就いたなら、私は死ぬか戦うしか道が残されていなかったのだ。そして、私はおとなしく死ぬような女では無かった。
だから、アスタームは先見の明を誇ってもいい。もっと自慢げな、野心の成就に興奮した顔をしていても良いと思う。
なのに、なんでそんな不安げな、悲しそうな顔をしているのだろうね。
私が首を傾げていると、彼は進み出て、ソファーにぐったり座る私の前に跪いた。
「大丈夫か?」
具合が悪そうに見えたのだろうか。私は軽く苦笑しながら言う。
「大丈夫ですよ。ちょっと……、辛いだけ」
辛い。辛いけど、私は辛い人生には慣れている。困難に立ち向かい、敵を撃ち倒し、辛い事を何度も乗り越えて私は生きてきた。だから、なんという事もない。
「何が辛いのだ」
アスタームに問い掛けられて、私はここで初めて自分の心を苛む辛さと向き合った。なぜ辛いのだろうって? 辛さとは、大事な何かを失う時に感じるのではないだろうか。しかも、奪われるのではなく、自ら切り捨てる。大事なものを切り捨てざるを得ない時に、人は辛いと思うのではないだろうか。だから、今の私がこんなに辛いのは、大事なものを切り捨てようとしているからだ。それは……。
「……貴方には、私にとってエリマーレ様がどれほど大事な存在だったか、理解できないでしょうね」
私の言葉にアスタームは痛みに耐えるように目を細めた。
「エリマーレ様は私の初めての守護者で、お友達で、姉で、掛け替えのない存在だったのです」
離宮で、幼少時から刺客と戦い続けてきた。周囲の者は一人も信用出来ず、常に私は気を張り詰めて生きていたのだ。これは、母も例外ではなかった。母は、自分の危機には迷わず私を盾にする女だと私には分かっていた。戦えない者には、自らの身を守れない者には生きていく資格がない。そういう事を平気でいう人なのだ。
そんな殺伐とした世界にあって、エリマーレ様だけが私を無条件に保護し、甘やかし、優しくしてくれた。彼女と姉妹としていた時だけ、私の世の中は平穏だったのだ。
その事が私をいかに救ってくれた事か。私はあの時に初めて人に頼り、甘えるという気持ちを覚えたのだ。
そのエリマーレ様に拒絶され、そして決定的に決別し、彼女を姉と思わぬと誓ったとはいえ、エリマーレ様を敵と考え、切り捨て、放逐するために立ち上がるという事が私にとってどれほどの心理的負担であるか。辛い事であるか。アスタームには分かってもらえないだろう。
私が諦めの気持ちでアスタームの目を見つめると、彼は少し俯き、そして小さな声で言った。
「君が辛いなら、君はバイヤメンに戻ると良い。私が一人で帝都へ向かおう」
驚いてしまった。これはまた、アスタームらしくない事を言う。
そんな事が出来るはずがない。私が次期皇帝を目指して帝都へ進むから、領主貴族達は私を支持して軍を率いて続いてくれるのだ。辺境の野蛮人であると思われているアスタームだけが進んでも、ほとんどの者は付いて来ないだろう。
「いざとなれば、バイヤメンの軍勢だけで帝都を陥れてみせよう。心配するな」
バイヤメン辺境伯軍がいかに精強でも、数は精々五千。帝国軍一万以上には敵うまい。どうしてそんな無茶な事を言い出すのか。私が不思議に思っていると、アスタームは頬を紅潮させ、私の手を握って言った。
「これ以上、君が辛い思いをする必要など無い。君の事は私が護ってみせよう。全てを君の望み通りに」
思い切った事を言う。私の望み通りにするというのなら、私が何もかも投げ捨ててバイヤメンに引き篭もろう、と言っても彼は従ってくれるという事になる。エリマーレ様に首を差し出すと言っても。
しかし、アスタームの目は真摯な光を帯びていた。なんだか、本当に私を心配しているような表情だ。
いや、彼は最初のアレは兎も角、だんだん私を認めて尊重してくれるようになっているとは思う。でもそれは、自分の野望の成就のためで、私を利用するためで、私自身を想ってくれての事では無い筈だ。無い筈よね。
……それとも、違うのだろうか。信じても良いのだろうか。
婚約してもう一年。共に色々な事をして沢山の時間を過ごした。一緒に過ごし、戦い、悪巧みもし、たわいもない話も沢山した。もう、彼の事はかなり分かる。と、思っている。
その彼が真剣な表情で私に「護るから好きにしろ」と言ってくれている。それが嘘では無いことは、もう私には分かる。
私はアスタームの目を見て、手を握る彼の温もりを感じる。彼の事は婚約者としては信頼している。でも、人として信じているかと言われると、これまでは信じていなかったと言っても良い。
私が信じた人はかつてのエリマーレ様だけだった。アスタームが、エリマーレ様の代わりになるのだろうか。彼を信じ、愛し、自分の全てを預けてしまって良いのだろうか。
「君を、愛しているぞ。ベル」
アスタームが静かに言った。彼は一つの嘘も無いとでも言うように、私の目から視線を動かさなかった。
「君も、私を愛してくれると、嬉しい」
不器用な告白だった。それなりに彼もモテていたらしいし、女性慣れしている様でもあるのに、なんだか初陣前の若武者が、想い人に思い切って告白するような風情ではないか。
それだけに、無骨な告白は私の胸に届いた。彼は私の辛さを理解してくれる。私の辛さを自分も負おうとしてくれている。それが分かった。
私は自然と涙が出てきてしまった、私は静かに涙を流しながら、彼の手を握り返すと涙声で言った。
「私を、裏切らないで下さい」
「ああ。生涯、君を裏切る事などない。君を誠実に護り、愛すると誓おう」
「……貴方を信じます。私と共に帝位に上って下さい」
アスタームは頷き、ゆっくりと私を抱き寄せる。私はさめざめと涙を流しながら、遂に自分が女帝になる決意と、アスタームを信じ愛する事を決めたのだった。