2 ラッキースケベ?
「駄目だ……全然走れない」
威勢良く部屋を出た瑞己。行けるかと思って少し走ってみたら、五メートルも進まないうちに足に限界がきた。
転びはしなかったが、今はプルプルと震える足で一歩ずつ生まれたての小鹿のように歩いている。
(やっぱり……部屋からでなきゃよかった……)
通り過ぎていく人々の隠しきれない笑い声に瑞己は羞恥と痛みで泣きたくなってきた。
あちこちから見られている視線を感じる瑞己。近くの家からも笑われている気配が伝わった。
(後ろの人も、反対側にいる人も笑ってる。家からちらちら見ている奴、気づいてるからな!)
すれ違う人の笑い声はまだ許せるが、ずっと家の窓から見ている誰かにはいつか復讐してやると決意した瑞己だった。
「ん? なんか人だかりができてる」
瑞己の向かう先に人が密集している。少し進むと屯する人達の声が聞こえてきた。
「強盗かしら? お店のガラスを割ってはいるなんて」
「でも、何も盗まれていないらしいわよ」
「ほらっ、あそこ見て! なんか乱闘でもあったみたい!」
近所のおばさん達が割れたガラスとひびの入った地面を見ながら話し合っている。
「うわぁー! すげぇ!」
「異能者かな?」
それを聞いていた子供達は若干興奮している。
「昨日の夜に警察が来た時にはもう誰もいなくて店がこんな有り様だったんだ! 犯人は異能者に決まってる! 何の証拠もでなかったんだぞ! こんなことができるのは、あいつらしかいないだろう!」
「………………」
「おい! 聞いてんのか! お前達が話を聞きたいって言ったんだろうが!」
「申し訳ない、彼女は新人なので甘く見てやってください」
壊された店の店主らしき男性と黒い軍服を着た二人組。一人は背の高い男性、細身だが肩幅が広く、服の下には鍛えられた体を隠している。もう一人はマスクをした女性だった。店主の事を面倒くさそうに眺めている。
「異能事件かな? 怖い怖い」
昨夜の事を知らない瑞己。まさか、その犯人が自分とは微塵も思わない。
「なんか……通るの大変そうだな。……別の道を行くか」
わざわざ人混みに突っ込んでいくほど瑞己は急いでいるわけでもないから、遠回りしてもそんな変わらない。そう思って横に曲がって別の道を歩き始めた。
それに今の状態で誰かとぶつかりでもしたら、瑞己には立っていられる自信がなかった。公衆の面前で恥をかくのは御免被りたい。
「……?」
「どうかしましたかい?」
「………………何でもない」
「?」
「だぁかぁらぁ! 人の話を……聞けぇーーーーー!」
店主の叫び声は離れていく瑞己にもしっかり聞こえた。
▽▽▽▽▽
「や、やっと着いた!」
よろよろになりながらも何とか学園にたどり着いた瑞己。その手にはどこで拾ってきたのか、木の棒が握られている。
学園まで半分の道のりは自力で歩いてきたが、そこからは足が言うことを聞かなくなってしまった。
瑞己は支え無しでは立つのも辛い状態だった。
普段は三十分程で学園に着くはずなのに、今日は出発してから一時間以上かかった。
「はぁ、はぁ…………の、飲み物……」
真夏ではないものの晴天の日差しと体力の燃費が悪い今の状態で瑞己の体は汗まみれ。
制服は洗濯したばかりだというのに勿体無い。
瑞己はまず真っ先に自販機へと向かう。陳列してある飲料水が流れ星のように輝いて見えた。
「みずぅ!」
気持ちは数日間に渡って猛暑の砂漠を抜けた旅人のよう。
干上がりそうな喉に早く潤いを与えたい。今はそのことで頭が一杯だ。
「えーと、小銭は……えーと……あれ?」
早く飲み物を買いたいと言うのに、瑞己はポケットのどこを探しても財布がみつからない。
「ないっ! ないっ!! 俺の財布がない!!」
それもそのはず、瑞己は昨日学園にすべての荷物を置いて帰ってきた。その中には鍵だけではなく財布も含まれている。
「そんなばかな……」
ショックで瑞己は体の支えだった木の棒を落とし、膝をつく。求めるものを目の前にして手にすることができない現実に瑞己はメンタルを打ちのめされた。
「東雲君? ……何してるの、そんな汗だくで?」
そんな時、聞き覚えのある声で呼び掛けられた。
「……神楽さん?」
「どうして泣きそうになっているのかしら?」
怜奈から見た瑞己は自販機に向かって膝をつき、何かを失ったような目をしていた。本当は素通りしようと思っていた怜奈だが、見たことのある顔だったため声をかけた。
不思議そうに見る怜奈の眼差しが哀れみに変わると余計に瑞己は心が痛む。
(あっ、あれは!?)
瑞己のたいしたことのない絶望が希望へと変わる。怜奈の手に収まっているものに気がついたからだ。
(水筒!!)
怜奈も瑞己の見つめる先に気がついてつられて水筒を見る。それで怜奈は色々と理解した。
「もしかして……喉渇いてるの?」
「財布……今、持ってなくて……」
「そう言うことね…………飲む?」
哀れな瑞己に怜奈は水筒を差し出す。
「い、いいのか!?」
「どうぞ、中身は麦茶よ」
怜奈の親切心に瑞己は救われた。大袈裟かもしてないが今、この瞬間だけ瑞己は怜奈のことを崇拝する。
瑞己は太陽を背にしている怜奈を神々しく思いながら水筒に手を伸ばす。
「あっ」
「ちょっ!」
しかし、瑞己の手は水筒を通りすぎて別の物を掴んだ。
木の棒を使わずに立ち上がろうとしてバランスを崩してしまったのだ。力の入らない足は地面を滑り、瑞己は怜奈に向かって倒れ込む。
「うぶっ!」
瑞己が掴んだものは倒れると同時に地面へと巻き込まれる。
「いててて……なにこれ?」
その手に掴んでるのは女子生徒が常に身に付けるもの。男子はこれで隠されているものが何なのか興味を抱かずにいられないだろう。
思春期男子の心をくすぐる物、それはスカートだ。
「……白」
「!!……見るな!」
ゴンッ!
「ぐふっ!!」
ちょっとした好奇心で怜奈の下着を見てしまった瑞己。その代償に頭を水筒で殴られる。
人に使うものではないが、それなりに丈夫にできている水筒は充分凶器だった。
「スカート返しなさい!!」
「ご……ごめんなさい」
殴られた衝撃で地面に倒れた瑞己。スカートだけは落とさずに守った。
怜奈は瑞己から取り返して素早く身に付ける。
正直に言うとその様子を瑞己は見たかったが、そんなことをすれば本物の変態になってしまう。それに鈍器が狙いを定めている気がした。流石の瑞己も命の天秤がかかっていれば行動には移さない。
「……着た?」
「……えぇ、顔上げていいわよ」
膝立ちで怜奈を見上げる瑞己。予想はしていたが、怜奈の瑞己を見る目は冷徹になっていた。
救いの手が一転して断罪に変わる瞬間であった。
「たしか、喉が渇いてるのよね?」
「……はい」
怜奈が何を考えているのかわからないが、怒らせてしまったことだけはわかる瑞己。続く怜奈の言葉を待つしかない状況になった。
「どうぞ……」
「え?……いいの?」
てっきり怜奈の説教が始まるのかと思っていた瑞己。怜奈が水筒の蓋を開けて差し出すという行動が予想外で困惑する。
怜奈の表情はそんな親切な人には思えない、むしろクズを見るような目付きだ。
それとも元が無愛想だからそういうふうに見えるかもしれない。
(でも、どうぞって言ったし……)
返事は返ってこなかったが、取り合えずくれると言っているのだから怜奈の気が変わらないうちに瑞己は水筒を受けとることにした。
もう一度、瑞己は水筒に手を伸ばす。今度は体勢を崩さないように意識しながら、慎重に。
「ありがと……う?」
「………好きなだけ飲みなさい」
瑞己が水筒を掴もうとすると怜奈が瑞己の頭上に掲げて取れなかった。
怜奈は飲みなさいとは言うが、瑞己には飲ませるつもりがないように感じた。
怜奈は蓋を開けるとそのまま麦茶を下に垂れ流す。
「はい、あーん」
こんなにも殺伐とした、あーんはきっとないだろう。
怜奈は瑞己に慈悲を与えるつもりなど微塵もなかった。公共の場で女としての羞恥を味わわせられたのだ、故意ではないとはいえ仕返しは当然。
「あぶぶぶぶぶ」
頭の上から麦茶が降り注ぎ、麦の香が流れ落ちると同時に広がる。
怜奈は水筒が空になるまで瑞己に麦茶を浴びせた。最後の数滴が落ちると水筒の蓋を締めてバックにしまう。
髪はビショビショ、制服は肩まで水浸しになった瑞己を怜奈は満足そうに見下ろす。
「ありがとうは?」
怜奈は爽やかな笑みを浮かべて瑞己に問う。
「…………ありがとう……ございます」
「どういたしまして」
そう言うと怜奈は瑞己を横切って学園の外に向かって歩いて行った。
「そうだ……東雲君」
「はい……」
「次やったら……許さないわよ」
「……はい……」
瑞己は怜奈が離れていく足音が聞こえなくなるまで後ろを振り向けなかった。
「………こ、恐かったぁ」
今後、怜奈を怒らせることは絶対しないように心掛ける瑞己だった。
▽▽▽▽▽
瑞己は髪が濡れたまま保健室の扉をノックする。
怜奈が去った後、瑞己はもう今日は帰ろうかと思ったが、怜奈と帰り道が途中まで同じことに気がついて断念した。
「失礼します」
それにせっかくここまで来たのに、無駄足に終わりたくもなかった。
ついでに髪を乾かさせてもらおうと瑞己は考えていた。
「先生、異能について相談が…………」
「あ、入ってきちゃった」
扉を開けたその先にいたのは、見た目に幼さが残る養護教諭ではなかった。
その子は着替え中なのに恥ずかしがることもせず、肩越しに瑞己を見ている。
「あれ? あの時の先輩じゃないですか」
「……………」
瑞己は固まったまま動かない。
それは瑞己の目線の先にいる子が背中を向けているからとはいえ上半身が裸……というわけではない。
瑞己が驚いている理由はその子の顔にあった。吸い込まれるような黒い大きな瞳に、光を反射するほどの艶やかで色の濃い黒髪、何よりもその中性的な顔立ちが瑞己の心を引き付けた。
「?………先輩?」
「………はっ! えと、あの、その、失礼しました!!」
バタンッ!!
自分が上半身を剥き出しのままにしていることに気がついたその子は、慌てて扉を閉めた瑞己を見て可笑しそうに笑う。
「別に気にしなくていいのに………ふふっ」
そんなこととは知らずに扉の向こうで瑞己はまたやってしまったと罪悪感を感じている。
(落ち着け……落ち着け! 押さえるんだ、俺!!)
瑞己は罪の意識を感じつつも、頭の中にはもう一つあの子を見た瞬間から抑えきれない感情と葛藤していた。
「あぁ、………なんて綺麗なんだ」
それは、この世の物とはあもえない美しさに対する独占欲だった。




