13 幸運
鈴がゆっくり歩きながらこっちに近づいてくる。その途中で割れた窓とその破片に目を向ける。
「ふーん、あんたついてないわね」
同情してくれているのだろうが、嬉しそうに語られても瑞己には皮肉にしか聞こえない。けれど、それに関しては瑞己も同感であった。何ならここ最近の瑞己は色々ついていないことが多い。
瑞己が逃げらないように廊下側を背に退路を塞ぐ鈴。
「それじゃ、殺られる覚悟はいい?」
(本来の目的が変わってないか!?)
距離を縮める鈴からどうやって逃げ出すか。瑞己は周りを見渡しながら考える。
【その一】一か八かで二つある扉のどちらかに走って逃げ出す。
【その二】いくら運動能力が高い鈴でも男女の力には差がある。残り時間、何とかしてここで凌ぐ
【その三】割れた窓から飛び降りる
導き出された選択肢、この中からもっとも現実的なものを選ぶ。
【その三】は逃げれるだろうが、割れているガラスを飛び越えてそこから更に割れた窓を更に割って飛び降りなければいけない。
【その一】は賭けだが成功すればまた逃げ切れるチャンスがある。
最も成功率が高そうなのは【その二】だが、瑞己に女子の体を触る度胸はなかった。
(クソッ! 俺の根性無し!)
しかし、鈴に捕まるのは何としてでも回避しなければならない。
(よし!一か八か、一番で行こう)
狙うのは鈴が入ってきた扉の方。しかし、一直線に向かえば止められる可能性があるため最初は逆方向にフェイントを掛けてそこから本命に向かう。
「逃げようたってそうはいかないわよ」
もちろん鈴が黙って見逃すわけはないが、ここは瑞己が男の意地を見せる時だろう。
鈴が更に近づいてくる。それに合わせてこちらも後ろに下がるが、そろそろ教室の端に当たる。
鈴との距離は約三メートル。瑞己は逃げる先の扉を決める。そして、まさに一歩目を踏み出した時、
「すいませーん! ボール取りに来ましたー!」
野球部のユニフォームを着た生徒がボールを取りに来た。急いで走ってきたのか息をきらしている。二人が野球部員に目を向ける。鈴が後ろを向いたそのチャンスを瑞己は見逃さなかった。
「ッ!」
先に動いたのは瑞己。野球部員がいる扉とは逆方向に走り出した。鈴も一歩遅れて扉を守りに行く。先に走り出したはずだが、運動能力抜群の鈴は遅れてもなお瑞己より速かった。瑞己より先に扉の前にたどり着く。
「簡単に逃がさ……あっ!」
が、それは瑞己の想定内。
鈴が扉に執着したあまり、瑞己から目を外した瞬間に野球部員のいる扉に向かっていた。それも机の合間を走るのではなく、机を踏み台にして最短距離で走る。
「そこどいてっ!」
野球部員を避けて廊下に出る。少しぶつかって申し訳ないがこのチャンスを逃すわけにはいかないと瑞己は全力で走り出した。
(あと、割れた窓よろしく!)
一直線の廊下を駆け抜ける。後ろから待ちなさいと叫び声がするが無視して、全力で目的地に向かう。
目指すは屋上への階段。そこは唯一、屋上に繋がる場所。つまり、屋上まで上がりそこの扉を押さえてしまえばこの逃走に終止符を打つことができる。ただ、後ろの野獣が大人しくしてくれるはずもない。それに二人がいた教室は階段から最も離れた場所で階段までの道はこの直線しかない。直線距離だと鈴が有利だ。
「逃げるんじゃないわよ!」
(逃げろって言ったのお前じゃねぇか!)
鈴もかなり焦っていた。追い詰めたはずなのにあの状況から逃げる事ができたのはたまたま運が良かっただけだ。そうわかってはいても想像以上に瑞己が諦めない態度に苛立ちを感じていた。
「絶対に捕まえてやるんだから!」
鈴の視界には少しずつ瑞己の背中が近づいてくる。彼女は自分の運動能力が高いことは自覚しているし、能力なしの一般的な競技にも自信がある。中でも脚を使う競技が得意だ。短距離、長距離など走るという点において同年代の生徒には負けたことがない。
そのため、瑞己が追い付かれるのも必然であった。鈴の手が瑞己に伸びる。が、目前のところで瑞己は避ける。
階段に差し掛かって一気に駆け上がる。数段下には鈴が追い掛けてくる。迫り来る鈴との逃走劇も階段を上がりきる事ができれば瑞己の勝利だ。
二人の息づかいが荒い。互いに全力で走り続けている。
流石の鈴も階段で体力を消耗している。瑞己に追い付くために、それ以上のハイペースで走ればそれもそのはずだ。
もうすぐゴール、そう考えたら足に激しい疲れが一気に押し寄せる。まるで鉛のような重さに感じる。
ついに三階まで上がりきり、屋上の扉までの階段が見えた。ゴールが見えてきた瑞己はここが勝負どころだと確信し、最後の階段を一歩一歩力強く駆け上がる。
「逃がっすかー!」
その声が聞こえた瞬間、強い衝撃と柔らかい感触が瑞己を襲う。
階段の切り替えしで真横から鈴が飛びついてきた。その勢いで屋上手前の廊下に二人とも倒れこむ。
「くはぁっ、はっ、はっ、はっ!」
体に力が入らない、呼吸がしづらい、苦しくて目尻に涙がたまり視界がぼやける。
体力は人並み以下の瑞己。普段から運動をしていないせいか、慣れない全力疾走に体が限界を迎えた。
明らかに酸欠状態。
鈴が近くに来て様子を見る。普段から運動が日課の彼女は同じく疲労はしているが、瑞己ほど辛くはなかった。鈴が瑞己の制服のボタンを外して風通しをよくして熱気を逃がす。
「ゆっくり呼吸しなさい……そう。吸って、吐いて、吸って……」
言われた通りに合図に合わせて呼吸する。少しずつ呼吸を整えて落ち着かせる。次第に脳と体にも酸素が巡り、落ち着いたことで涙も引いて視界が鮮明になった。
それでもまだ心臓が激しく脈打っている。
「はぁ、はぁ、はぁ……ありが、とう」
「ふふっ、どういたしまして」
緊迫した空気が和んだ。今まで見たことない女の子らしい笑顔に何故か心臓が更に活発になった気がした。
(あれ?走ったせいかな?)
「それじゃ、……よいしょっ!」
「うぐっ」
けして重くない鈴の体重が瑞己に股がる形で乗り掛かる。すると、ポケットから携帯を出して時間を見せてくる。
時刻.十八時十三分
まだ、終わっていなかった。
「残念だったわね」
両手を瑞己の胸の上に置いて勝ち誇った笑みで瑞己を見る。そして、一から順にカウントダウンを始めた。
(ずるいぞ!)
鈴の笑顔に気を取られている間にマウントを取られてしまった。
ここまできて負けてしまうのか、脳裏に鈴の言葉がよぎる。このままでは鈴の所有物になってしまう。
鈴を見ると彼女も息が乱れており確実に疲労しているのがわかる。
(ここまできて諦められるか!)
この手だけは使いたくなかった。瑞己は鈴に手を伸ばす。
一度、鈴がいつもの二人ともふざけあっている場面を見たことがある。その時、女子三人で擽り合って騒いでいたからよく覚えている。
その時は何となく見ていたけれど、今思えば何て運が良かったのだろう。唯一の勝機にしがみつく。鈴が擽られていたところそこは、
「ここだ!」
「ひゃっ!」
へそだ。
へそを中心に腹周りを擽り始める。
鈴が片手で口を抑えて瑞己を睨む。しかし、休むことなく擽る手はへそだけでなくその周辺部位、脇腹などにも刺激を与える。
「………んっ、………んっ、……んっ!」
とうとう我慢できなくなったのか声をあげて笑い始めた。
「あはっ! あはははははっ! ちょっと、やめ! あははっ!」
体をくねらせ、下ろしていた腰を浮かせる。その瞬間、瑞己が鈴の脚を持ち上げて後ろに倒れ込むように体勢を崩す。
きゃっと鳴く鈴の股から抜け出し、そのまま階段を上がる。屋上の扉、そのドアノブを握って回して扉を開けて外に出る。
「瑞己っ!!」
振り返ると林檎みたいな顔をしながら叫ぶ鈴が、瑞己を睨み付けて立ち上がる。
「すまん!」
バンッ!
急いで扉を閉め、体を押し付けて開かないように固定する。内鍵のため、外からは完全には閉まらない。
「今すぐここを開けなさい!」
荒々しく激怒している鈴の声が扉から聞こえてくる。ドアノブがガチャガチャガチャと騒音を鳴らす。
「断る!」
「私にあんなことして、絶対許さないわよ! 早く開けなさいっ! あんたのその腕、噛み千切ってやる!」
体に伝わる扉の振動が一層激しくなる。しかし、単純な力比べでは瑞己の方が有利だ。わずかに扉を前後に揺らすだけで鈴も精一杯だった。その攻防がしばらく続くと、
ピピッ、ピピッ、ピピッとアラーム音が聞こえてきた。
「……もうっ!」
ドンッと強い衝撃を最後に扉の揺れがやんだ。
「……あんたの、勝ちよ」
さっきの音はタイムアップのアラーム、つまり瑞己は鈴から見事逃げ切ることに成功したのだ。
「はぁー」
勝利の溜息をつく。扉の向こうにはまだ鈴の気配がある。勝負がついたのなら瑞己は早く帰宅したかった。
「……開けてよ」
小さな声でそう言われ、少々躊躇ったがゆっくりと扉を開ける。扉から数段下で鈴が泣きながら階段に座り込んでいた。いつもの鬼気迫る鈴からは想像もつかない様子に驚く。
瑞己は何て言えばいいかわからずにあたふたと無意味に周りを見渡す。
まさか負けて泣かれるとは思わなかった。どうすればいいか考えていると夏目の言葉を思い出した。
(女性には優しくね、か)
癪に障る奴でも見習うところは誰にでもある。
鈴の側による。これが正しいかはわからないが咄嗟に思いついたことを行動に移す。鈴の頭の上に手を伸ばしそのまま下ろす。
「はわっ……!」
「その、何て言うか、ごめん」
何に対しての謝罪か自分でもわからない。しかし、泣いている女の子に何をすればいいかわからず、思いついたのがこれしかないのだから仕方がない。
鈴が涙を裾で拭いて瑞己の手を掴み、こっちを見上げる。元気が出たかと思ったが、見上げた顔には悔しさが残っている。
それが徐々に羞恥へと変わると、反撃が始まる。
「謝るくらいなら逃げんじゃないわよっ!」
掴まれた手を背中に回され、そのまま関節を決められる。これは太陽の姉、暁が龍悟にかけていた間接技だ。あの時に見て覚えたらしい。
「痛い痛い痛い痛い痛い痛いっ!」
見た目よりかなり痛い。龍悟があそこまで痛がるのも納得した。百聞は一見に如かずというやつだ。
「諦めない!私、諦めないからっ!」
そう言って瑞己を突き放して走って階段を下って行った。瑞己はまだ痛みが残る腕を擦りながら鈴が去っていく姿を確認してから深い溜め息をついた。
「……あいつ、やっぱり嫌いだ!」
瑞己もゆっくり歩きながら教室に向かいバックをとって帰ることにした。
その頃、鈴はすっかり泣き止んで寮に帰るために玄関に向かっていた。泣き止んではいるものの頬に熱がこもる。撫でられた感触が頭から離れない。悔しい気持ちも確かにある。しかし、それとは別の何かが胸の内でざわついている。
「絶対……許さないわ」
鈴は瑞己にやられた屈辱を思い出し、少し頬を染めて腹を撫でる。今日の屈辱を忘れないように。
慌ただしい放課後は漸く終わりを迎え、こうして瑞己は心休まる自室に現在寝転がっている。
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