造り上げられた最高傑作
アラベラが生まれた家は代々騎士の家系だった。
それは、時代も国も違うとある場所。
アラベラを生んだ母親は産後の肥立ちが悪く、そのまま還らぬ人となった。
亀裂は既にそこから生まれていたのかも知れない。
だけど幼い頃は父親にも兄である人にも特に虐げられた記憶も避けられた記憶もない。
全てが変わったのは。
変わってしまったのは、ほんの些細なきっかけだった。
ある日、頭上から花瓶が落ちてきた。
「アラベラ様っ!!」
メイドの甲高い悲鳴が聞こえて、反射的に声の方を見上げた。
自分めがけて落ちてくる白い物体。
何を考える間も無かった。
一歩、二歩、踊るように躰が動いた。まるで軽やかなステップのようにその場を退き、円を描くように利き手を差し出したのは下がった瞬間目に入ったそれが母親の大切にしていたモノだと知っていたから。
幼い手は危うげなく空中でそれを掴み、アラベラはほっと息を吐いた。
途端に走り寄ってくる幾人もの足音。
「アラベラ、怪我はなかったか?」
妹の細い肩を掴み、心配の声をかけてくれた兄の姿。
「凄い動きだったな。まるで軽業師みたいだった!」
「見事によけただけでも吃驚したのにまさか空中で受け止めるなんて」
駆けつけた大人たちが口々にいって頭を撫でてくれた。
「アラベラ…」
「はい。お父様」
名を呼ばれ、アラベラは誇らしげにそれを父へと差し出した。
こんもりと可愛らしい球体に細く長い首が伸びた乳白色の一輪挿し。
それは母親が大切にしていたモノだ。
メイドたちがそう話しているのを聞いたし、丁寧に手入れされる姿を見ていたからアラベラも知っている。
だから、喜んでくれると思った。
「凄いな、アラベラ」
ただ、褒めてくれると思った。
父親がアラベラを見る瞳に何があるかなんて欠片も気づいていなかった。
その後、バタバタと悲鳴の主のメイドが降りてきて跪かんばかりに謝罪した。
どうやら室内へと吹き込んだ風にカーテンが舞い上がり、窓辺に飾られていた一輪挿しが巻き込まれてしまったらしい。
カーテンに引っかかった背の高い一輪挿しは容易くバランスを崩し、慌てて窓へ縋りつけば窓の下には騎士たちの訓練を眺めていたアラベラが居た、というのが真相のようだった。
たったそれだけ。
きっかけは、ただそれだけだった。
アラベラは可愛いモノが好きだった。
淡くて甘い砂糖菓子、レースのリボンやお姫様みたいなプリンセスラインのドレスに、裾が大きく広がったクリノリン・スタイルのドレス。回転木馬型のオルゴールにお気に入りのカップに小物。
母親が居なくて寂しかったのもあったのかも知れない。
アラベラは一人の時間を空想の世界で過ごした。塔に捕らわれのお姫様、長い眠りの中で王子様の訪れを待ち続けるお姫様。
本を片手にどんな物語の主人公にだったなれた。
ちょっぴり辛くて、大変で。だけどいつだって最後は王子様が助けてくれてハッピーエンド。
善良で心優しくあれば、物語はいつだって幸福で。
そう、信じていた幼い日。
刺繍にダンス、作法に音楽。沢山の習い事をしたし、沢山のドレスを作って貰った。
だけどある日____。
父親から簡素な木刀を渡された。
「お前は才能があるかも知れない」
そう言った父親は、まだ笑っていた。
兄も、周りの騎士達も。
「女の子が剣を握るなんてお嫁に貰ってくれる人がなくなるぞ」
「いや、でもこの間のあの動き。
これはひょっとするとひっとするかもしれないぞ。天才女剣士、ここに現る!なんてな」
そんな風に笑いながらも、誰も本気でなんてなかった。
そしてそれは、アラベラ自身も。
女の子が剣を握るなんて野蛮だと思った。
物語のお姫様たちはそんなことしなかった、とも。
でも毎日お稽古や空想の世界で遊んで、あとは兄や騎士たちの鍛錬を眺めるだけ。
女の子だから、と触らせて貰えなかったそれを与えられてわくわくした気分も少しあった。
父親や兄とは違う偽物の剣。
それを、手に取ってしまった。
きっと、手に取ってはいけなかったのに________。
お遊びのつもりで始まった剣の稽古。
女の子らしいモノが大好きでお姫様に憧れていたアラベラ。
だけど運動神経もよく、躰を動かすことも嫌いじゃなかった。それに大好きな兄たちと一緒に居られることも嬉しかった。
教えられるままに吸収し、アラベラは驚く程の速度でその才に磨きを掛けた。
「凄いな」「天才だ」
掛けられる称賛に、頭を撫でる手に、弾けるような笑顔で笑う。
だけど、いつからだろう。
その才が子供のお遊びの域を超え出した頃、周囲の人々の反応が変わった。
「もうそろそろお遊びはお終いにしたらどう?女の子なのに怪我をしたり、筋肉がついてしまっては大変だ」
心配の色を浮かべた兄に賛同する騎士。
「男に生まれてさえいれば…」
聞こえていないと思ったのだろう。
心から残念そうに、あるいは揶揄を込めて、そう囁きを交わす大人達。
そして、
「お前には才能がある」
酷く真剣な顔で、とても怖い瞳で。
アラベラの細い肩を両手で掴んだ父親。
そして始まったお遊びの域を超えた本格的な稽古。
掌の皮が擦り切れる程の素振り。
体力をつけるための走り込みや身体訓練。
騎士の訓練が終わった後、父親自らが指導する剣の稽古。
いつしかダンスやマナーのレッスンが外され、来る日も来る日も剣の鍛錬をさせられた。
「お父様、あの…私、そろそろ剣は…」
流石に可笑しいと、アラベラは何度もそう父親へと切り出した。
だけどその度に父親は、
アラベラの剣の才能を説き、お前は剣を握るべきなのだとそう言い聞かせた。
時には諭すように、時には叱責を持って。
激しい恫喝に怒鳴り声、人生の中で誰かに厳しく叱られたことすらなかったアラベラは酷く困惑し怯えた。
アラベラは弱かった。
父親に叱られるのが恐くて、嫌われるのが恐ろしくて。結局はただ諾々とその言いつけに従ってしまった。
面と向かって父に抗議してくれる人も居た。
だけどそんな使用人や騎士は父親に解雇されたのか何時の間にか姿を消して、そんなことが繰り返される内に正面切って父親に物申すことはなくなった。
たった一人、兄を除いて。
周囲が静かになると父親は一層、アラベラを厳しく躾けた。
それは間違っても“女の子”に対する扱いではなくて、一人の“剣士”に対するそれ。
そしてアラベラは強くなった。
鍛え抜かれた躰は男性のような力はなくとも、柔らかな曲線の代わりにしなやかな筋肉を携え。まろやかだった頬はシャープな輪郭に、小柄だった身長はすくすく伸びて同じ年頃の女性たちより頭一つ分抜き出た長身。
鍛えられたのは剣技だけではなかった。
非力な女の身を補うように身体強化を始め瞬発力、毒耐性など様々な身体に関する魔術。氷に炎、風に土、攻撃魔術に自らの躰を武器とした武道にあらゆる武器を使用した戦闘技術。
それらの全てをアラベラはスポンジが水を吸うように全てその身へと吸収した。
尽きる事無く与えられるそれを、際限なく求められる要求を、少しも漏らすことなく。
父親の瞳がいつしか狂気の色を宿そうとも。
兄の瞳に宿るそれがいつしか心配から怯えと嫌悪を孕もうとも。
人々が自分を見る瞳が化け物を見るようなそれに変わろうとも。
今となっては、父親が何故そんなことをしたのかわからない。
もしかしたらアラベラに才能を見出した父親はその手で一族の最高傑作を作り出すことを夢見たのかも知れない。
そしてそうだとしたらその眼は確かだった。
アラベラは常人を遥かに超える『天才』だった__________。