隠した真実と儚い祈り
呼ぶ声が聴こえる。
誰かが私を呼んでいる。
暗闇の中、独りレティーシアは佇んでいた。
胎児のように躰を丸め、上も下も、時間の感覚すらわからないような暗闇の中で漂うように身を丸めていた。
それは固い殻に閉じこもるように。守るように。逃げるように。
目を塞いで。
耳を塞いで。
何も考えないようにして。
それでもずっと、懐かしく温かい笑顔と情景が頭を過り、誰かが呼ぶ声がする。
そっと、閉じていた瞳を開いた。
暗闇の中、光が見えた。
泣き出したくなるほど暖かなその光に手を伸ばしたくて、光の方へ歩き出したいのにどうしても躰が動かない。その一歩を踏み出す覚悟が出来ないでいるレティーシアの背に何かが触れた。
「行きなさい」
聞こえた声に反射的に振り返ろうとした。
だけど声の主はそれを許さず、さらに強く背を押した。
とん、と弾みで踏み出した一歩。
光が手招く。
光の中から幾つもの慕わしい声がレティーシアの名を呼んで、レティーシアは弾かれたようにその光へ向かって走り出した。
そうして…。
レティーシアの意識は深い闇から浮上した。
「…兄様」
呟いた声は酷く掠れて。
ぼんやりと瞳を開いた瞬間、視界は何かに潰された。
「レティーシアっ!!」
耳元で響いた声音に、柔らかなその感触が姉のものだと知る。
痛いほどに抱きしめられ、レティーシアはジャンヌの胸の中でぱちぱちと大きく瞳を瞬いた。
「お姉様?」
ぼんやりと呼び掛ければ、温かな雨が肩を濡らした。
「?」
降り注ぐ雫に首を傾げ、やがて。
自分を抱きしめるジャンヌが泣いていることを知る。
零れる嗚咽に僅かに震える自分を抱きしめる腕。
「ジャンヌお姉様っ?!」
泣き虫なレティーシアと違って、いつだって強く凛々しいジャンヌの泣く姿など一度も見たことがない。その姉が泣いているという事実にレティーシアは慌てて姉の胸の中で顔を上げた。小さな手で宥めるように不器用に背を摩る。
「どうしたのですかお姉様?どこか痛いのですか?一体何が…?」
狼狽するレティーシアと泣きじゃくるジャンヌ。
二人の肩と頭を大きな手が包む。
「レティ、どこか痛いところや体調の不調はないかい?」
優しい垂れ目で覗きこんでくるレックスに「はい」と頷けば、レックスもレイナードもほっと息をついた。
「赤眼熊に遭遇したことを覚えているかい?」
レイナードの問い掛けにレティーシアの肩が大きく跳ねた。
兄の口から出た魔物の名に、漸くレティーシアは現状を把握した。
そして。
細い手を突っ張るようにしてジャンヌの躰を引き剥がす。
「お怪我は?お姉様のお怪我は大丈夫なのですか?!」
怪我の在った場所を目で確認するも服の上からではよくわからない。
「大丈夫だよ。ジャンヌの怪我は全部治ってるし治癒で傷痕も残っていない。護衛の彼は脇腹の傷が深くてまだ療養が必要だがそれでも後遺症もなく治るそうだ」
父の言葉にレティーシアはほっと息を吐く。
「良かった。騎士の試験にも影響はないのですね?」
問い掛けに、まだ言葉を発することも出来ないジャンヌは離されたレティーシアの躰を再び抱きしめたままこくこくと頷く。
見たこともない姉の様子に困惑しつつ助けを求めるようにレイナードを見れば、瞳を細めたレイナードはジャンヌの、そしてレティーシアの頭を優しく撫でる。
「旦那様」
ミモザの声に顔を向ければ、瞳があった瞬間、冷静沈着な印象のアッシュグレイの瞳が僅かに潤んだ。
「レティーシア様に軽いお食事をご用意しても?宜しければ皆様にもお茶をご用意しますが。気分を落ち着けるハーブティーなど如何でしょう?」
「ああ、頼むよ」
一礼したミモザはテキパキと支度を整え、軽食が用意されたころに漸く少し落ち着いたジャンヌは淹れられたハーブティーを両手で抱え込みながら少しだけ恥ずかしそうにしていた。
泣き腫らした目元と耳がほんのりと赤い。
「落ち着いたか?」
妹の目の前に好物の菓子を取り分けてやりながらレイナードが問いかける。
「はい…」
恥ずかしそうに頬を染める姿が可愛くて、レティーシアが物珍しい姉の姿をついまじまじと見つめてしまう。瞳が合って、ますます頬を色づけて気まずそうに瞳を逸らされてしまった。
「思い出すのは辛いかも知れない。だけど聞いてもいいかな?」
レックスが手を握り、気遣わしそうに声を掛ける。
場所は見慣れた自分の部屋。
何時の間にか別荘から戻ってきていたようだ。
あの後、空へと放たれた魔術に気づいたレイナードや使用人たちが駆けつけ、大急ぎで応急処置をし、また治癒を使える者を呼び寄せたらしい。
その日の夜にはジャンヌは目を覚まし、護衛も翌日には意識を取り戻した。
大きな外傷のなかったレティーシアだけが意識を取り戻さず、二日程はその地で療養を続けたもののその後屋敷へと帰宅。
目覚めた今日は既に五日目。
五日間……。
レティーシアは自分がそれ程長い間寝込んでいたことに驚き、そして密かに納得もした。
あれだけ普段しない立ち回りをしたのに筋肉痛がさほど酷くないのはそのためか、と。
「心配したのよ」
涙声でジャンヌが零す。
「ごめんなさい、お姉様。お父様も、お兄様もミモザも心配かけてごめんなさい」
皆の表情を見ればどれだけ心配をかけたのかわかって、レティーシアは俯く。
目覚めなかったのは極度の疲労と魔力の枯渇。
そして心理的なものだろう。
躰の負担は勿論のこと、どこかでレティーシアは目覚めるのを拒んでいたのかも知れない。
ぼんやりと目覚める前のことを思い出す。
暗い空間で独り眼と耳を塞いでいたこと。
怖くて不安で、独り蹲っていたこと。
そして背を押してくれたあの手が誰のモノだったのかを…。
「レティ、誰がお前たちを助けてくれたのかを見たかい?」
「えっ?」
レイナードの問いに俯いた顔をぱっとあげて呆然と瞳を見開く。
「助けて、くれた…?」
意味がわからない問い掛けにおうむ返しに声をだせば、それを勘違いしたレイナードたちは顔を見合わせた。
「レティも相手は見ていないのか」
「それにしても運が良かった。あの辺りはあまり無関係の人間は立ち入らないからな」
「ですが、何故すぐに救護を呼んでくれなかったのでしょう……。間に合ったから良かったようなものの…」
「そういうな、もしかしたら誰かを呼びに行っている間に行違ってしまったのかも知れないだろう。それになんにせよお蔭でジャンヌもレティも助かったんだ。命の恩人だぞ」
「それはそうですが…」
何やら不満気なレイナードとそれを宥めるレックス。
呆然と二人の遣り取りを見守っているとジャンヌがレティーシアへと謝罪した。
「守ってあげれなくてごめんなさい。あの後、貴女も意識を失ってしまったのね?酷い怪我がなくて良かった…。私たちが倒れた後、誰かがあの魔物を倒してくれたの。倒れた貴方のすぐそばにあの赤眼熊が倒れていたらしいわ。もうあと少し遅かったららと思うとぞっとするわ…」
ぎゅっと握り締められた震える手。
それはジャンヌの恐怖を伝えてきて。
「それと有難う。私が襲われそうになった時、レティが魔術を放ってくれたでしょう?ぼんやりとしか覚えてないけど、意識が落ちる寸前に貴女の声と落雷の音が聞こえたわ」
ジャンヌの言葉に理解する。
確かに、赤眼熊との戦闘中、ジャンヌを見やったとき彼女はぴくりとも動かなかった。薙ぎ払われてすぐに、彼女の言葉通りならレティーシアが雷撃を放ってから彼女は意識を失ったのだろう。
つまり…。
レティーシアがアレを倒したことは誰も知らない。
そしてまさかレティーシアが凶悪な魔物を倒せるとは思っておらず、三人が倒れた後に通りかかった第三者が魔獣を倒してくれたと思っているのだろう。
言い出すべきか、どうするべきか。
唇を開こうとして、だけどどうしても言いだすことは出来ず唇を噛みしめる。
「…そう、………なんですか」
口からでたのは歯切れの悪いそんな言葉で。
どうしたって今を、
この幸せな家族を手放すことが出来なくて……。
重い罪悪感に苛まれながらもレティーシアは口を噤んだ。
それからというもの、屋敷の皆は今まで以上にレティーシアを気遣ってくれた。
塞ぎ込むことが多くなった彼女に甲斐甲斐しく声を掛け、何かと甘やかしてくれる。
中でもミモザは酷かった。
あの場に居れば何が出来たわけでもないと知りつつも、側に居なかった自分を責めレティーシアの側を離れることを嫌がった。
ジャンヌはあの後、自分の実力を恥じ、一層の鍛錬に励み、そしてその後の騎士団の入団試験には上位の成績で入団することが出来た。
そしてレティーシアは。
再び、剣を手に取った。
「《氷雪剣》」
誰も居ない鍛錬場で、小さく呟く。
手の中に生まれたのは、あの日と同じ氷の刃。
レティーシアの魔術で生み出されたそれは実在の剣でないからいつでも創り出すことが可能だ。
そして魔術で造られたそれはあの日、レティーシアの魔術が切れたことであの魔物の躰からも消え誰にも見られることもなかったのだろう。
通常の剣よりもずっと軽く、細く、今の躰にあったそれを握りしめる。
「《身体強化》」
詠唱に力がみなぎり、躰が軽くなった。
正直、この行為にどれだけの意味があるのかはわからないし、知り過ぎるほどに知っている。
どれ程に努力を重ねようともかつてのアラベラのように強くはなれないだろうことを。どれだけ技術を身に着けようと今のこの躰は脆弱でかつての天才には及ぶべくもない。
成れないし、成りたくもない。
これは自らが望んだ理想の姿とは掛け離れていて________
「だけど…」
握りしめた拳は、 小さく、頼りない。
怖い、怖くて堪らない。
本当の自分を知られることが。強さを手に入れることが。
大事な家族を、この倖せを失ってしまうかもしれないことが。
大切で大切で仕方のない彼らにかつてのように憎み、嫌われてしまうことが。
それでも、
「失くしてしまうのは、もっと嫌」
じわり、と涙が滲む。
思い出すのは血に塗れたジャンヌの姿。
心臓が軋んで音を立てる。
この手で、何が守れるのか。
何が成せるのか。
わからないけど、でも……。
「守れるだけの力が欲しい」
どうかその時が来ないように。
この力が必要となる瞬間が来ませんように________。
レティーシアは剣を握りそう祈った。




