運命はいつだって牙を向く
きょろきょろと忙しなく首を廻らす。
お目当てのウサギはまだ見つからない。だけどキツネは先日見つけた。ふわふわの尻尾がすっごく可愛かった!すぐ逃げられてしまったけど…。
「レティ?足元も見ないと危ないわ」
くすくすと笑みを漏らしたジャンヌがそっと手を差し出してくれる。
姫に手を差し出す王子様のように芝居がかった動作で恭しく差し出されたそれに指を乗せれば細い指が絡まった。
幼い頃、よくおままごとに付き合って貰っていたためか、今でもジャンヌは時々こういった仕草をしてくれる。
繋いだ温かな手にはにかみながら落ち葉の上をサクサクと進む。
「なかなかウサギは見つからないわね」
「はい…」
しょんぼりとしながら辺りを見渡す。
「あっ、見てお姉様。リスです!しかも二匹!!親子でしょうか?ちっちゃい子もいます!」
一本の木の上に二匹のリスを見つけて指を指した。
冬眠の準備なのか、頬袋がぱんぱんなリスの姿に姉と二人笑いあった。
どのくらい散策を続けていただろう?
不意に空が翳り出した。薄雲が広がった空はどんよりと沈み、辺りの景色も重く翳る。
「お嬢様方、日も翳って参りましたしお戻りになられた方が宜しいかと。少し奥に進みすぎてしまいましたし、山の天気は変わりやすいですから」
まだ年若い護衛の少年が声を掛けた時だった。
背後の茂みから飛び出してきた黒い塊が突如、護衛を襲った。
「ぐぁっ!!」
飛び散る鮮血と上がる呻き。
咄嗟に半身を逸らすことで避けた護衛の左の脇腹が真っ赤に染まっていた。
驚きに眼を見開き、ふらつく躰で必死に剣を掲げようとする少年の先。
唸り声をあげ、大きく開けた口と瞳に赤を覗かせた魔獣の姿がそこにあった。
「赤眼熊…」
爛々と輝くルビーのような特徴的な赤い瞳。
真っ黒な躰は立ち上がれば大人の男性の背丈を優に超え、開いた口から覗く鋭い牙にその奥に見える赤々とした口腔。鋭い爪からは護衛の少年の血と肉片が滴り、低く耳障りな唸り声が獰猛に響き渡る。
「何故こんなところに…っ」
焦燥を含んで呆然と呟きながらジャンヌがレティーシアを自身の背に隠す。
「お逃げくださいっ!お嬢様方っ!!」
「駄目っっ!!!」
剣を掲げたまま振り向きレティーシアたちに声を上げる護衛の少年に叫んだ。
だけど遅く、赤眼熊の腕が少年の躰を軽々と薙ぎ払った。
吹っ飛んだ躰が木に当たったのか、盛大な音がして葉がひらひらと舞い落ちる。
だけどそれを目にする余裕はなかった。
目を逸らせば、背を向ければ、その瞬間にあれは襲い掛かってくると本能で知っているから。
ジャンヌが震える手で剣を抜いた。
「レティ、よく聞いて。今あれに背を向けてはだめ。私が何とかあれの注意を引くわ。あれの注意が私に向いている間に貴女は逃げなさい。逃げながら魔術で音のする攻撃を放つの。追って来てもその音であれが途中で逃げるかも知れないわ」
姉の言葉に、その瞳にレティーシアは叫びそうになった口を片手で抑える。
だってそれは…自分を囮にして逃げろということだ。
自分の死を賭してレティーシアを逃がそうとしている。
「いやっ、駄目ですお姉様っ」
「レティーシア、愛してるわ」
引き留めるように服を掴んだ指をあっけなく剥がしたジャンヌは脚を踏み出した。
低く走り出したまま振り下ろされる腕を避けて白刃を振り上げる。
飛び散る赤い飛沫。
そのまま後方へと飛び、再び間合いを開ける。切り付けられた魔物が痛みに咆哮をあげる。怒りに燃える獰猛な咆哮。
ジャンヌは身体強化を己に掛けているのだろう。
その身のこなしも何もかもが普段の彼女より数段早い。襲いくる爪を交わし、刃を翻すジャンヌは相当強度なソレを重ね掛けしているように見える。動きが段違いだ。
逃げることも、動くことすら出来ずレティーシアはただ見つめる。
「だめ…お姉様……」
呆然と声が漏れる。
普段の彼女の何倍も機敏な動き。繰り出される斬撃。
だけど駄目だ…。
刃の入りが浅い。先の攻撃も痛手を与える事は出来ても相手の攻撃を阻むには到底及ばない。数多の死闘を潜り抜け、数百、数千の魔獣を屠ってきたレティーシアにははっきりとわかってしまう。
敵わない、と。
そしてそれはジャンヌ自身がとうにわかっていることだ。
だからこそ彼女はあれがレティーシアを追ってくることを予想し、その後の行動を示唆したのだから。
動かない妹に、動けない妹にジャンヌのピンクサファイアの瞳が焦燥を含んで向けられた。
相対していた魔物から逸らされた一瞬の視線。
その瞬間にジャンヌの躰は凄まじい力でもって薙ぎ払われた。
地に叩きつけられた躰。
痛みに呻く華奢な躰に黒い巨体が飛びかかる。
「《雷撃》」
姉へと届かない手を伸ばし、レティーシアは叫んだ。
叫びと共に生み出された稲妻は赤眼熊に直撃はしなかったものの、その音と光に驚いて魔物はジャンヌから数歩離れた。
爛々とした赤い瞳がレティーシアを捉える。
震える脚でレティーシアは赤々としたその瞳を睨みつけたまま数歩走った。素早く拾い上げたのは護衛の彼が手にしていた剣。
重く長いそれは幼いレティーシアには持ち上げるのも困難で、だけど知り過ぎるほどに馴染んだ剣の握りの感触。
「《身体強化・最大》」
震える躰を叱咤するように敢えてはっきりとした声で身体強化を施す。
重かった剣が軽くなった。だけど無理な強化を施した反動は大きく、そう長くは持たないだろう。
「よくも…お姉様を」
呟いた声は底知れぬ怒りを孕んでいた。
それは眼の前の忌むべき存在に。
そして何よりも己自身に。
今や震えは恐怖に対してではない。激しい怒り故だった。
目の前の存在をじっと見据える。
右胸上方と左足付け根、そして右腕と右目の上に傷。
敵の状態を把握して攻撃をしかける位置を定める。アラベラと違い力に劣るこの躰。少しでもダメージを大きくするにはジャンヌがつけた傷を抉るように狙うのが効率的だろう。
レティーシアは飛び出した。
身体強化に更に風の魔術によって弾丸のように飛びかかる。両手で深く握った剣で振りかぶるように左足の付け根に切り込む。抉るように刃の向きを変え、降り掛かる爪を間一髪で避けた。
ひらりとプラチナブロンドが何本か宙へ舞う。
ちりちりと頬に走る熱い熱。
標的から決して瞳は逸らさないまま、その背後に倒れるジャンヌの姿を視線の端に捉える。
「……っ!」
今やぴくりとも動かない躰にきつく唇を噛みしめた。
傷は致命傷を免れているが出血が多い。護衛の彼も含めて治療は早いに越した事は無い。そう思うも、それが難しいこともわかっていた。
最大限に身体強化を掛けて尚、スピードは兎も角として圧倒的に力が足りない。
これではいくら攻撃を重ねようと眼の前の敵を倒すのには程遠い。地味に削っていこうにもレティーシアの躰が限界を迎える方が早いのは明確だった。
どうする、どうすればいい。
焦りと、懐かしい奇妙に冷静な思考でレティーシアは考える。
もう一撃飛びかかり、右目の上へと斬りつけたあと数度大きく後方へと飛び先程よりも広く距離を取った。
流れ落ちる血が瞳に入り、赤眼熊は手で顔を覆うようにして激しく暴れ狂う。
レティーシアは痺れ始めた手に重すぎる剣を宙へと投げた。
「《氷雪剣》」
冷たく、鋭利な剣をイメージする。
そしてレティーシアの両手には二対の剣が生まれた。
氷の輝きを纏った剣は長さはレティーシアの身長の半分程。握りも刀身も細く、先程までの剣と違ってそれはレティーシアの躰によくあった大きさだった。
通常の剣と違うので過度な重みも無ければ、純粋な氷ではないので剣としての強度も鋭利さもある。
こういった使い方は初めてだったが、意図した通りの剣が生み出せたことに安堵して両手のそれを強く握り締める。
全ての力を籠めるべく、全神経を集中させた。
怒りに燃える赤い瞳がレティーシアを捉える。
逸らすことなく、迎え撃つ強さでその爛々とした瞳を睨み返したレティーシアと赤眼熊が同時に動いた。
振り下ろされた腕を交差した剣で挟み込む。
「くっ」
斬りおとすつもりで迎えたその腕は半分ほど刃が埋め込まれたところでそれ以上は進まない。
風を纏い、腕を蹴り上げて薙ぎ払われたもう片方の腕を避ける。そのまま地面を転がり大きな樹の根元に当たって止まった。
腕に喰い込んだ二本の剣が魔物の腕で不自然に揺れる。
自らの腕に刺さったそれを振りほどこうと魔物が暴れ、やがて怒りのままにそれは倒れ伏したレティーシアへと歩を進めた。
倒れ込んだまま、レティーシアは荒い息を繰り返す。
身体強化の反動で躰中が悲鳴を上げていた。
黒い影が落ち、レティーシアは赤々と口腔をさらす巨体を僅かに首を動かして見上げる。
倒れ伏した獲物を見定め、一際大きく開かれた口腔。
見下すように、嘲笑うように牙を向き出した口を開く敵を見上げて、笑った。
パチン。
指を弾いて鳴らす。そして同時に。
「《雷撃》」
紡がれた詠唱とともに青白い落雷が降り注いだ。
剣に。
赤眼熊を串刺しにした剣へと。
絶叫が迸った。
地へ伝わった電撃の余波に傍に倒れ伏したレティーシアの躰もびくりと跳ねるがその衝撃さえも気にせずに瞳は敵を捉え続ける。
やがて、ぷすぷすと煙を上げた巨体が倒れ伏し、絶命したのを見届けて漸くレティーシアは一度だけ瞳を閉じた。
躰中が痛い。
吐く息は荒く、怪我は幸いほぼない筈なのに躰が熱くて寒い。
僅かに動く首を持ち上げ、ジャンヌを見やるももうあそこまで歩く程の力もなかった。それでも何とか最後の力を振り絞って右手を僅かに動かした。
生み出した光を空高く弾き、音と共に閃光させる。
二度、三度とそれを行い、やがて魔力さえも尽きた。
あとは祈るだけ。
あの光と音に気付いて兄や父が、誰かがここへ駆けつけてくれることを。
涙と笑いが同時に溢れた。
辛くて悲しくて、怖くて、申し訳なくて………そして可笑しくて。
だって自分は嗤ってた。
一歩間違えば自分は死んでいた。
実力は遥かにあの魔物の方が高かった。勝てたのは偏に奇襲による結果で。
重くて不釣り合いだった護衛の剣、投げ捨てたそれは風の魔術で大木の上空でずっと制止させていた。まともにやりあって敵わないのはわかっていた。
だからこの樹の側へと誘導し、狙いを定めたうえでレティーシアが風を纏い弾丸のように飛びかかったのと同じ要領で風を纏わせた剣を勢いをつけて落下させた。そしてその剣を導雷針として雷撃をその身に直接叩き込んだ。
そこにあったのは、
例の奇妙に凪いだ思考と高揚と愉悦。
アラベラだった時に良く見知った、あの相手と自分しかいないようなそんな静寂。
自分は生まれながらの戦闘狂なのかも知れない。
なんという業だろう…。
レティーシアは力なく笑い、そして涙を流した。
愚かな自分に。
弱い自分に。
ジャンヌや皆に申し訳なくて。
伸ばした指先は、誰に届くこともなくやがて意識は闇へと沈んだ。




