夢醒めの夢
涙が頬を流れた。
長い睫毛が震え、ゆるゆると瞼が開く。
「ここ、は……」
レティーシアの瞳に映ったのは、天蓋つきの少女趣味のベッド。
白を基調とした品がよくも可愛らしい部屋に……。
「お嬢様っ!?」
視線の先にあったメイド服の後ろ姿がガバリと振り返った。
ガチャン、ビチャビチャ、ばたばた。
慌ただしい音を立ててベッドへと駆け寄ったメイドのミモザはぎゅっと強くレティーシアを抱きしめた。
「よくぞお目覚め下さいました」
涙を浮かべたミモザにレティーシアはぱちくりと瞳を瞬いた。
そしてそれはそうと、激しい勢いで倒れた水差しとそこから未だに流れ落ちて絨毯を濡らす水が気になるのだがいいのだろうか。そんなことを思うも感涙とレティーシアの体調チェックに忙しいミモザは見向きもしない。
そして一連の騒々しい物音を聞きつけてか、幾つもの足音が近づいて来た。
「レティーシア!目が覚めたのか?!」
「レティ!!」
真っ先に駆けつけてきたのは理知的そうな美貌の青年。
そして続いたのが凛々しい印象の少女と温和な雰囲気を湛えた男性。
ダークブラウンの髪を撫でつけインテリな雰囲気を醸し出す美貌の青年はレティーシアの兄のレイナードだ。
そして同じくダークブラウンのストレートヘアに凛々しい目元をした少女は姉のジャンヌ。
二人の後ろに居るのが父親のレックスだ。
「良かった。貴女3日間も目を覚まさなかったのよ」
ジャンヌがその胸に妹を抱きしめ、レイナードは熱がないかと小さなおでこへ手を伸ばす。
「まだ少し熱っぽいな」
「お医者様を呼んでくれるか?それと水と簡単な食事を」
レイナードの言葉とレックスの指示に使用人たちが慌ただしく動き出した。
「レティ、湖に落ちたことを覚えているかい?」
父に問われ、レティーシアの肩がピクリと跳ねる。
それに気づいたジャンヌが湖に落ちた恐怖からだろうと支えるようにその肩を抱いた。
「……はい」
だけど違う。
レティーシアが本当に恐かったのは湖に落ちたことではなかった。
「吃驚したよ。偶々私がレティを探しに庭に出たら湖へ落ちるお前を見つけたんだ。慌てて駆けつけたけど、あともう少し遅かったらと思うとぞっとする」
「お兄様が…助けて、下さったんですか?」
「ああ、間に合って良かった。
すまない、忙しいからとお前の誘いを断らず共についていれば良かった。
私の所為だ。具合が悪かったのかい?頭を抱えて蹲っていたようだけど」
自分を責めるレイナードにそんな、と首を振り、気遣わし気に問われた質問に曖昧にレティーシアは頷く。
「はい、急に気分が悪くなって…」
答えながらレティーシアは思った。
ならばあの声は、私の名前を遠くから呼んでくれたあの声と水から引き揚げてくれた暖かくて力強い腕は兄のものだったのだ、と。
「レティ?まだ具合が悪い?」
俯きがちなレティーシアをジャンヌが心配そうに覗きこんだ。
レイナードとレックスも心配気な色を浮かべて何か欲しいものはあるか、して欲しいことはあるかと口々に問いかけてくる。
「わたし、まだ少し頭がぼぅっとして。
もう少しだけ眠ってもいいですか?」
伺うように小首を傾げれば、勿論だと三人がベッド脇の椅子から席を立った。
「おやすみ」とレイナードが頭を撫で、ジャンヌが小さな手を慰めるようにポンポンと叩く。
最後にレックスがレティーシアの額に口づけを落とし、静かな足音と扉が閉まる音がする。
使用人も家族も部屋を去った途端、こほりと小さくレティーシアは咳をした。
お医者様はもう大丈夫だと太鼓判を押してくれた。
だけど水に落ちた所為で熱が出てるから一週間程度は安静に過ごすように、とも。
頭の中がぐるぐると廻って、心臓がドキドキと煩い。
だけどそれらは風邪の症状ではなくて、もっと心理的なものだった。
「どうして…」
掛け布団を握りしめて小さく呟く。
「……アラベラ」
その名を口にした途端、右足の付け根が酷く痛んだ。
思わず悲鳴が漏れそうになるのを握りしめた拳を口元に当てて必死に抑える。
今声を出したら皆が様子を見に来てしまう。数十秒の痛みをやり過ごし、大きく息を吐き出す。
瞳の端には涙が滲んでいた。
「……?」
突如痛んだ足に、水中で何かに引っ掛けて怪我でもしたのかしら?とネグリジェを掛け布団の下でそっと捲り上げて覗きこむ。
そして凍りついた。
右足の付け根、太腿に刻まれた見慣れぬ紋章。
うっすらと光り輝く太陽と月を組み合わせた紋章がそこにあった。
「『転生紋』……」
呆然と呟いて、隠すようにネグリジェを引っ張った。
誰も居ない室内を思わずきょろきょろと見渡す。そして詰めてた息を吐き出した。
情報量の多さに頭がガンガンと痛む。
体調不良と精神面の混乱が容赦なくレティーシアへと襲い掛かった。
折角一人になった今、考えなければならいないことも、考えたいことも山程ある。
だけど今はとてもこれ以上考えられそうになかった。
熱が上がったのか吐く息が熱い。
記憶の中、そして水中で感じていた寒さとは裏腹の激しい熱に襲われ重い頭を力なく枕へと落とす。
しっかりとネグリジェの裾を治し、掛け布団を首元まで引き上げると決して捲られることのないようにその上に手を重ねた。
眦を熱い涙が伝う。
「…お兄様……、お姉様、お父様……」
祈るように、縋るように。
レティーシアは大切な彼らの名を呼んだ。