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Falling

 それから一週間ぐらい経ったある日の午後、ピエロは洗濯をするために丘から少し離れた小川に来ていた。その日は天気も穏やかで、冬のはじめとは思えないくらいの暖かさだった。透き通る水に手を浸しながら、ピエロはその水面に映る自分の顔をぼんやりと眺め、それからのんびりと洗濯を始めた。石鹸の香りは逃げるように風に乗り、川下へと下った。その川下の向こうには、あの灰色の路地がひそむ豊かな街があった。ピエロは老人から教わった歌を口ずさみながら作業を続けた。しばらくするとサーカスの団員らしき三人が小川の向こう岸の少し先で誰かと話していた。相手が誰だかはわからなかったが、大人の男なのは見て取れた。おそらく街の人間だろう。ピエロは手を止めて向こう岸の会話に耳をたてた。

「君たちはあの有名なサーカスの一員なのか」

 大人の男は関心の声をあげた。すると三人は声をそろえてこう言った。

「有名だなんて!すべてオーナーのおかげなんです!あの人が僕らをここまで育ててくださった」

「そうか、やはり噂通りのオーナーのようだな。いや、あの方のお話は私もよく聞きましてね。とても良い方ですと。気は効くし親切ですし、優しいし謙虚だと。他人の悪口も言わなければ悪事を働くことだってしない。まさに善人ですね」

 サーカスの三人はさも嬉しそうに頷き、礼を言いながらその男と別れ、こちらに帰って来たので、ピエロは急いで作業を再開した。


 そして再びテントが集まるサーカスの陣地に戻り、今度は夕食の準備を老人と始めた。だが胸の内ではあのオーナーの事でいっぱいだった。自分はあのオーナーが好きではない。どういう訳だか好きではないのだ。だが他の人間は非の打ち所がないような人間だという。自分はずれているのだろうか。まさか自分は悪人で、善人とは仲良くやっていけないのだろうかなど、そんなことまで考えるようになってしまった。そんな不安がよぎると同時に、ピエロはぶすぶすと魚を焦がしていることに気が付いた。横から老人が微笑みながら、腰を下ろしてピエロを覗き込んだ。銀の長髪が夕日で真っ赤に染められて、地面に着いた。

「焦げとるぞ」

 ふっと鼓膜に届いた穏やかなその声は、真昼にあふれる木漏れ日そのものだった。もう夕暮れだというのに。

「二匹焦がしたな。これはワシと、お前さんの分だな。うまそうだ」

 笑いながら老人はそう言い、黒く焦げた魚を皿に移した。ピエロは謝りながら次の魚を網の上に置き、必要以上に火加減を気にした。そしてずっと火を見ていた。ただひたすらに火を見続けていた。すると老人が魚を裏返しながらピエロに話しかけた。

「ワシは小さい頃からお面が嫌いでな。あの一片たりとも変わらぬ表情がまるで死人のようで不気味に感じて恐ろしかった。初めてお面を見たのは六歳の頃だったかな。父親がふざけてお面をかぶりながら家に帰って来たんじゃ。ワシはお面の下が誰なのかわからなくてな、怖くて泣きじゃくりながら母親に飛びついた。父親はそんなワシを見て慌ててお面を外すと、ワシをしっかりと抱きしめてくれた。床に転がったお面はやはり怖かったが、泣きじゃくる六歳のワシを抱いてくれたのは父親だった。だが、それだけでよかったよ。お面をかぶっているのかわからないと怖さも湧き出ぬ。おや、その魚も裏返そうじゃないか。ほらほら。まあ、あれじゃな、不安がないのは安全だからとは限らないようなものじゃな。かぶっていることに気づけるだけまだましという事じゃ」

 ピエロは魚を裏返しながら言った。

「オーナーの事か?」

「おや、お前さんはオーナーが怖いのか?」

 楽しそうにそう尋ねてくる老人は、そのまま魚を皿に移した。ピエロはまた次の魚をのせながら

「怖くない」

 と、ぶっきらぼうに答えた。老人は焼きあがった魚を運びながら去り際に囁いた。

「ワシは怖いがなあ」


 次の日からピエロはオーナーの事をより意識して見るようになった。朝起きて小川へ顔を洗いに行く時、朝食を食べる時、雑務をこなす時。オーナー自身やオーナーに関する話が周りにある時は作業を丁寧にこなすふりをして様子をうかがうのだった。だが相手は悪事を企む犯罪者でもなければ、常に他人を傷つけることを憂さ晴らしとするような人間でもない。ただの有名なサーカス団のオーナーだ。老人の言うようなお面の“お”の字もピエロには見えなかった。もちろん物体としてそのお面が存在する訳ではないことぐらいピエロにも分かっていたが、これだけオーナーを見ていれば何か見えるのではないのかとは密かに信じていた。数日間も観察の日々を送れば、青年にこのことを話してみようかとも考えたことがないでもない。だがサーカスの仕事に追われ、よく働く青年を横目に、そのことを理由に話を持ち掛けることはためらわれた。干されたシーツの向こうで駆けまわり、指示を出す青年を眺めながらピエロは切り株に腰かけ、ジャガイモの皮をむいていた。そんな時、やはりピエロは隣で自分と同じようにジャガイモの皮をむく老人に話しかけるのだ。

「オーナーは、いつからここのオーナーになったんだ?」

 ごつごつして、しわくちゃの手で器用にナイフを動かしながら老人は答えた。

「最初からじゃよ。ワシがここに入った時はすでにオーナーじゃった」

「あんたはいつからオーナーに恐怖を覚えたんだ?」

 ピエロはさり気なく聞いたつもりだったが老人は嬉しそうに目を細めた。

「おや。気にしておるのか?」

 ピエロは、まさか、と言いながら今持っているジャガイモを特別に丁寧にむくと、ようやく頷いた。

「気になって仕方がない」

 むき終えたジャガイモを容器に移し、ナイフにへばりついたジャガイモの皮を、一枚一枚手で取りながらピエロはさらに続けた。

「オーナーはいつも同じ笑顔で仕事によく精を出している。こないだ作業中にここの団員が街の人間と話しているのを聞いたんだ。双方オーナーの事をよく言っていた。非の打ち所がないと。すべてオーナーのおかげだと言っていた」

 最後の皮を取るとピエロはため息交じりに次のジャガイモを手に取った。

「あのオーナーはいつもそうじゃ。だがごくたまに、ほんの、一瞬だけ、精密な機械の歯車が、挟まった砂粒を砕くように少しだけ、おかしくなる」

 老人のいつもと変わらない口調でそう聞いた途端、ピエロはオーナーに初めて出会った時、オーナーが青年をつねったことを思い出した。善人と呼ばれる人間の日常茶飯事の行動ではあるまい。

「お前さんはそれを見たのだろう?」

 ピエロはしばらく黙った後、頷いた。

「世間では有名なオーナーを、どういう訳かそれまで知らなかったお前さんは、オーナーが完璧な人間という先入観など持っていなかったのじゃろう。それが余計にオーナーに対する皆の評価に疑いを持たせるようになったのかな?」

 老人の透き通った瞳がピエロに注がれた。儚いまなざしだというのに、ピエロの体を簡単に貫くようで苦しかった。


 ピエロが黙っていると、老人は再び視線をジャガイモに戻した。

「ワシはオーナーのことを褒めちぎる人間を数えきれないほど見てきた」

 ピエロがどう返せば良いのかわからずにいると、老人はさらにこう続けた。

「じゃがな、オーナーのことを心の底から本当に愛する人間には、まだ、一人として、出会ったことはないのだよ」

 ピエロはその言葉を聞いた瞬間、オーナーがたった一人、暗闇の中に突き落とされるのが見えた気がした。誰もが嘆き悲しんだが、誰も助けようとはしない。はっとして顔を上げると、老人は何事もないようにジャガイモの皮をむいていた。次に辺りを見回すと、そこにはいつも通りの風景があった。その向こうで青年とオーナーが何か話している姿も小さくあった。オーナーの派手な帽子は相変わらず遠くからでもよく見える。

「善人と称えられるものが好まれ、悪人と蔑まれるものが嫌われるのではないのか?」

 青年とオーナーの手前で輪を描く一輪車の団体を眺めながら、ピエロは尋ねた。すると老人は驚いたように顔を上げた。そして、楽しそうに微笑みながら言うのだった。

「好くものを善人と評するのは、愚か者だけじゃて」

 ピエロはその晩、寝床でぼんやりとその言葉の意味を考えるのだった。隣で静かに寝息を立てる青年を見ながら、老人の言葉を頭の中で繰り返す。しかしいつの間にかピエロも眠りに落ちていた。


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